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トーコさんと私(6)
「智絵美さんは、もう描かないの?」
そうトーコさんに聞かれたとき、私は返事に詰まった。絵を描くことは好きだし、描きたいと思うこともある。でも、私の絵に何か価値があるのだろうか。コンテストを狙うわけでもない。描いたからといって誰かに見せるわけでもない。誰かに褒められるわけでもない。
「描く……理由がみつからないんです」
「あんなに上手なのに、勿体ないわね」
残念そうにそう言って、トーコさんはパレットを側のテーブルに置いた。
「上手ですか? でも描きたいものが無いんです」
読んでいた本から視線を上げ、指を挟んでしおり代わりにして本を閉じた。
「そっか。なら仕方が無いわね」
トーコさんはイーゼルの前の椅子から立ち上がり、少し離れて、今描いた部分を大きい視点で確認する。シリウスの足は、少し歪んで描かれていた。
「トーコさんは、何で絵を描くんですか?」
『上手くないのに』を言外に含ませた、自分でも意地悪な質問だと思いながら、言わずにはおれなかった。
「私? 私はね、ずっとシリウスを描いていたいから。それと、思い出を捨てなくていいから」
「思い出を捨てる?」
「そう。ほら、そこに置いているブランケット、シリウスがいつも使っていたの。シリウスが亡くなってから、ボロボロだし、捨てなきゃいけないって思ってたのよ。でも、絵を描き始めてから、いつか絵にこのブランケットも描こうと思ってね。それまでは捨てなくてもいいって思ったら、すごく気が楽になったの。シリウスのその他の思い出の品も絵に描いたら、踏ん切りがついて捨てられるようになったし。私にとっては良い事ばっかりよ」
ふふふ、と楽しそうにトーコさんは笑う。確かに、トーコさんの描くシリウスの絵には、様々なものが描かれていた。私は自分の考えの浅はかさを恥じた。
「私ね、この絵が完成しなくても良いと思っているの。この絵には、シリウスとシリウスが大好きだったものを、とにかく詰め込んでいきたい。でも、ずっとシリウスに触れているように、シリウスを描いていたいから、私が生きている内は完成はさせられないと思う、きっと。それに——」
そこでいったん言葉を切ると、トーコさんは悪戯っぽい表情でこちらを見た。
「シリウスが一番大好きだった、私、を描き込まないとこの絵は完成しないでしょ? でも私は、私を描けない」
「あー、自画像、描きづらいですからね」
「そうなのよ。だから、いつか智絵美さんに、この絵に私を描き込んでもらって、この絵は完成するのかなって」
首を竦めて笑いながら言うトーコさんに、私は焦って反論した。
「いや、無理ですって。人の絵に勝手に手を加えるなんて、できません! そんなこと、それに……」
「別に素人の描いた絵なんだから、大げさに考えなくても。それに『勝手』じゃなくて、私からお願いしたいの。駄目かしら?」
結局押し切られる形で、トーコさんを描くことを承諾させられた。
トーコさんは分かっていたのかもしれない。私が本当は絵を描きたいと思っていること。それなのに、描く理由がないからといって、気持ちをくすぶらせていたこと。誰かに、あなたなら大丈夫と背中を押してほしかったこと。
トーコさんの描いたシリウスが、青く澄んだ瞳で、キャンバスの中から私を見つめた。
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