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名家、富岡の家督である時継が四日ほど前から失踪したらしい。出張りの用ではないようだが、まあどこか旅にでも出ているのだろうと、富岡家の名誉もあるので騒ぎ立てられてはいなかったが、心配性である時継の母が内密に東作に調査を依頼していたのだ。
「俺には何も知らされてねえのに」
吉兵衛がたいそう不服そうに舌打ちをする。時継にはお雪という許嫁がいるのだが、お雪は神田呉服店の娘で、吉兵衛はそこの用心棒をしているのだ。お雪は町一番の美女と評判で、そういえば勝手に彼女を巡って東作と吉兵衛が争ったという話もあったなと弥太郎は苦笑する。
「時継さんは出家なさったんです」
急に聞こえてきた氷柱のような声に一同は驚く。
噂をすればなんとやらで、いつの間にか弥太郎達の目の前にお雪が立っていた。
分かりやすく顔を赤らめた吉兵衛が派手に仰け反るのに対し、東作は冷静に問う。
「出家?それは君が時継から聞いたのか」
お雪は落ちてきた横髪を鬱陶しそうに耳にかけ、小さなため息を零す。
「ええ。お義母様はまだご存知ないみたいですけど...」
どうやら時継は少し前から様子がおかしく、いなくなる前日には俗世に疲れたというようなことをお雪に漏らしていたらしい。
「時継さんには、想い人がいたんでしょう。今それを見て、確信しました」
お雪が手で示す先には、先程まで吉兵衛を気に入っていた例の犬が、奥に飾られてある芍薬の周りをウロウロとしていた。
そういえば、先日もこの犬は芍薬の傍で眠っていたと弥太郎は思い出す。
「その人がよく芍薬の簪を差していたから...それで時継さんは御部屋に芍薬を飾るようになったんでしょう」
その人は三月前に自害されてしまいましたけど、と付け足されたので、思わず弥太郎は目を見開いた。
東作は合点がいったように手を叩く。ちょうどその頃、泉川で身投げした女がいたという事件があったのを思い出したのだ。恋仲にあった女を失って、精神を病んでしまったのか。
「そこの犬は、時継さんが可愛がっているのを何度か見かけました。だから芍薬の香りを覚えていたんでしょう」
「なるほど。主の匂いを辿るうちに、ここに行き着いたってわけか。富岡の屋敷と弥太郎の長屋はすぐ近いからな」
納得納得、と吉兵衛が深く頷く。
「いいんです、私は。どうしてその人が自死を選択されたのか分かりませんが、ただ時継さんの大切な方が亡くなられたことは悔やまれます」
静かにそう言うお雪の、まつ毛を伏せて俯く姿がなんとも奥ゆかしく、町で一番の美人と称される理由が分かるなと、不謹慎にも弥太郎は感心した。
「お前の小さい頭も必要なかったな」
吉兵衛の言うように今回は東作を唸らせるような難解な案件ではなかったが、どうにもやるせない幕引きだと、三人と一匹が帰った後、一人弥太郎は耽っていた。彼の視線の先には、八重咲きの白い芍薬が儚げに揺れている。
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