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お雪を家まで送り届けた吉兵衛が自分の暮らす長屋に帰ろうとすると、お雪の家の前で、あの犬を抱えた東作が待ち構えたように立っていた。
「暇か、お前は」
一緒にしないでくれと東作が嫌味っぽく笑うので、吉兵衛は軽く睨んだ。
「それにしても、やはりお雪はいい女だな」
吉兵衛は「へぇ」としか返しようがなかった。
「あの女、一度も不義の相手の名を口にしなかったじゃないか。時継の母親にも伝えるつもりは永劫無さそうだしね」
吉兵衛の家の方へと歩き出しながら、東作は淡々と語り出す。
「そういう潔いところが良いよ」
噛み締めるように言われても、吉兵衛にはやっぱり相当暇なんじゃないかという感想しか浮かばない。
お雪がいい女であることなど今更、当たり前に過ぎたことだ。
「お前の色恋の話は知ったことじゃねえが、お雪なら機会は巡ってこねえから早々に諦めな」
吐き捨てるように言って、最後に東作の腕におとなしく収まっている犬の頭に軽く手を乗せた。
「椿」
東作が犬に向かって唐突に呼びかけたので、吉兵衛は首を傾げる。
「はあ?」
「そう名付けたんだ、私は芍薬よりも椿の方が好きなんだ」
とかなんとかほざいている。
「こいつは私がしばらく飼うことにしたよ。存外、犬は嫌いじゃないからね」
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