3 晩秋

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3 晩秋

 * 結局、秋刀魚祭りには1人で訪れた。 人通りのザワザワした音と、秋刀魚の焼けるパチパチとした音が心を躍らせる。まだ整理がついている訳ではないが、虎になってしまった友人のために俯く事なんてしたくない。 寒い風が吹くというのに、秋刀魚を焼いているオッサンは頭と首にタオルを巻いている。畳何畳分にもなる大きな網の下からは火の点いた炭が煙を上げて秋刀魚に汗をかかせていた。ふわふわと拡がる煙を団扇であおぎ、熱いとぼやきながらオッサンは首に巻いたタオルで顔の脂と汗を拭っている。 並ぶこと数分。秋刀魚を焼いているオッサンの群れのうちの1人が慣れた手つきでトングを使い、スチロールのトレイに焼きあがった秋刀魚を移す。渡された時には、いつの間に添えてくれたのか割り箸と大根おろし、半月切りにしたレモンが1切れ。 川を挟んでいる土手に腰掛け、秋刀魚の乗ったトレイを膝の上に置き割り箸を二分。 パキッという音が、川の流れに消えていく。運良く川に落ちて最後を美しく彩る紅葉の様子は、袁のいる対岸からは遠くて拝む事が出来なかった。しかし美しい赤も目の前の黒と茶色に染まった秋刀魚には適わない。 まずは全体にレモンを絞る。焼けた皮にパキパキと箸を挿し込んで身をほぐす、まずはレモンに助太刀された塩焼きの身を一口。脂の乗った秋刀魚の塩焼きに酸味のバフがかかる、これが旬の一番美味しい時期であるからもうたまらなく美味であった。 …だが、何かが足らないのだ。 レモンの味は、どうしても最後の最後で秋刀魚と息が合わない。酸味の刺激を欲していた筈なのに、本当の所は刺激を控えめに渋味の隠し味で息を合わせて欲しかったと気づく。 そう、酢橘である。レモンより酸味は弱いが、若干の渋味が合わさる事で肉や塩コショウの風味を殺さず惹き立てる究極の一品。 ここに無い酢橘に、袁は心の隅から消えない程度に忘れなければと思っていた李徴の存在を求めてしまう。ほぐした身の中に取り忘れた小骨が喉に引っ掛かった時に、いきなり戻ってきたそれは水で流し込もうとしても小骨を置き去りにして残っている。 ふと、思いついたように秋刀魚の身をほぐし、丁寧に小骨を取っていく。秋刀魚が頭と尾ひれ、背骨だけになった時に集まった身は、思っていたよりも少なくて悲しくなった。 (寒くなったな) 溜息の代わりに、また冷たい風が吹く。身を全て曝け出したそれの、なんと悲しい事か。お前等の苦労は結局こんなモンだよと、焼かれて食われ無残な姿になる運命から逃げも隠れもできない魚に嗤われているような複雑な気分になる。 『人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何かを為すにはあまりに短い。』 思えば結果を求めすぎていた。1尾の秋刀魚もその美味を誰かの口に届けるまで大きくなるために時間を要する。ましてや学生の片手間の活動など何とか味がする程度にほぐし身を摘まんでいくようなものだ。 (李徴よ) (…秋刀魚、食べたいな) ここに焼いた秋刀魚があるというのに。拳程度に積まれているほぐし身を、割り箸の限界まで挟んで口に運ぶ。レモンをかけないと本来の味がよく分かる。少しだけ水分を求めたくなる塩味と、肉とは異なる礼儀正しい味が嬉しい。 たった1尾の秋刀魚も、心を満たすには十分なのだ。 確かに美味しい秋刀魚の身には、これまで確実に積み上げてきたモノがある。次にそれを味わえる時に酢橘が添えられていれば、もう何も言う事なんて無いだろう。 強い風が吹いて、思わず目を瞑る。目を開けたら対岸にある筈の紅葉が1枚トレイの上に添えられていた。
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