5.カワウソくん

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 その後も、七生のうっかりは続いた。  料理はあれだけ完璧にこなすのに不思議なものだ。  掃除機をかけては植木鉢をひっくり返し、シーツをベッドから巻き取ったついでに、近くのスタンドをひっくり返し。  掃除ベタなのではなく、単に慣れていないせいで、うっかりが続くらしい。実家では、料理しかさせてもらっていないと言う。親も見抜いているのだろう。  ちなみに、一度、例の縫いぐるみ、カワウソくんも捨てられかけた。  岳の『ライナスの毛布』だ。岳が幼い頃から手元に置いている縫いぐるみ。単なる縫いぐるみではなく、お守りに近いだろう。  あれは心臓に悪かった。俺にとってあれは俺の分身、眷族、仲間のようなもので。 「あれ?」  お昼過ぎ、山小屋から自力で戻り──ここ最近は岳が忙しく、お迎えは休みとなっていた。そんな時は徒歩とバスと電車を駆使する──シャワーを浴びようと、一旦部屋に戻り、寝室のクローゼットを開けようとした際、ふと違和感を覚えた。  いない。  スタンドの下に鎮座している奴がいない。  俺は急いで階段を駆け下り、隣の棟で掃除中だった七生に声をかけた。 「七生。さっき俺達の部屋、掃除したか?」 「あ、はい。軽く掃除機かけました」 「その時、何か捨てたか?」 「はい、ゴミ箱にあったゴミと、落ちていたゴミをまとめて捨てました」  それだ! 「で、そのゴミは?」 「明日、出すように勝手口の方にまとめて置いて──」  最後まで聞かずに、俺は勝手口に脱兎の如く向かった。そこには、二袋にまとめられたごみがある。  良かった。  俺はホッとしながらも、すぐに奴の捜索に取り掛かった。  あれでもない、これでもない、と野良猫よろしくゴミを漁る。と、二つ目の袋の底に、他の埃と一緒くたになった奴がいた。  手足がもげないよう、他のゴミを避けながらそっと取り出す。どうやら奇跡的に何処にも欠損はないようだ。  良かった。ほんと…。  確かにこいつは既に灰色の塊と化していて、元の姿がなんだったのかよくわからない。最近はペンギンにも似てきたと思っていた。  それでも、あれは岳にとって大事な、いや、俺にとっても大事なお守りなのだ。自分自身と言ってもいい。  俺はその後、コツメと一緒に入浴した。  お風呂につかりつつ、コツメをそっと、薄く洗剤を張った湯につける。  心もとない目鼻のパーツが取れそうで怖かったが、取れたら取れたで付け直せばいい。そっと押し洗いを繰り返し、漸く綺麗になった。しかし。 「なんだよ。洗ってもグレーかよ…」  風呂から上がって自分の身体を拭くのもそこそこに、タオルドライし、洗面台の上に置いた。  確かにグレーは、すこし艶のあるグレーになったが、茶色はすでに退色していたため、もとの茶色いボディーに戻ることはなかった。  顏や鼻のパーツもなんとか無事で。手足もまだくっ付いていてくれた。ほっと息をつく。  そうして、また定位置に戻ってきた。  中身もヘタっているため、乾きは早い。日中の天日でしっかり乾かしたそれを、今度は間違って捨てられないよう、ジャムの入っていた大ぶりの空き瓶に入れて置くことにした。  もう少し乾燥させるため、今は蓋をあけているが、蓋を閉じれば完璧。  これなら、埃もかぶらないし落とせばわかるし、流石にごみと間違える前に、ガラスに入っている時点で気付くはずだ。  ちょっと、息苦しそうではあるけどな。  ホルマリン漬けのコツメカワウソ…。想像しただけでブルッとする。あり得ない。  つい、瓶の蓋に空気穴でも入れた方がいいかと思ったが、相手が人形だと思い出し、それは止めて置いた。  七生には黙っておいた。言えば、シュンとなるに違いない。どう見てもパッと見、ゴミと見紛うばかりなのだ。仕方ない。  しかし、岳は気がつく。それはそうだろう。  寝る段になって、風呂から上がって来た岳は、寝室に入るなりスタンド下のカワウソに気がついた。 「あれ? 何でこいつ、ビンに入ってんだ?」 「この方が、埃かぶらないだろ? 中に防虫防カビ剤も入れたし。完璧」  ベッドに寝転んでいた俺は、起き上がると胸を張って答えるが。 「それに…綺麗になってるな」 「汚れが気になってさ。前から洗おうと思ってたんだ」  手がもげそうだから、洗えないなーとぼやいていた事は忘れていて欲しい。 「…そう言えば、七生がお前が帰ってきた早々、掃除をしたかどうか尋ねられたって言ってたな。その後、血相変えてどっかに消えたって言ってたけど…。何かあったのか?」  チラと岳の視線がコツメに向けられた。  岳の中でコツメカワウソの瓶詰めと、それとが何か繋がったらしい。  が、まさか、捨てられかけたとは言えない。  岳にとっても、このぬいぐるみは大事だろう。それを捨てたとなれば、七生の印象が悪くなる可能性がある。  岳と気まずくなるのは、七生も嫌だろう。  俺は素知らぬフリを通した。 「な、何もねぇって。別に血相変えてなんか──」  すると、岳がピンと額を軽く弾いて来た。 「ウソつけ」 「って。んだよぉ」  俺は弾かれた額を押える。  と、岳は俺の隣に座ったかと思うと、ギュッとハグしてきた。そのまま、ギュウギュウと腕の中に閉じ込めてくる。  流石に苦しい。岳も鍛えているから、腕の力も手加減しないと相当なものなのだ。 「く、苦しい…。窒息する…」  このまま天国に旅立つのも幸せな気もするが、まだもう少し、岳と過ごしたい。 「ごめん」  言いながら、腕の力を弛めてくれたけれど、抱きしめたままで。 「大和…」 「なんだ?」  岳は俺の頭に唇を寄せながら。 「お前は──優しいな…」  岳にはすべてお見通しなのだろう。 「…どうだろうな?」  とぼけて見せれば、岳は笑いながら。 「いいや。優しいよ…」  言いながら、首筋に幾つもキスを落としてきて。くすぐったい。 「大和、大好きだ…」  真摯な声音。そのまま、ベッドに押し倒される。  幸せな時間だった。
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