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6.パステルピンク
七生はその後、充分気をつけながら慎重に掃除をこなして行くようになった。
それに応じて、徐々にうっかりな失敗も減っていく。最近は何かが壊れる音を聞いたり、間違って何かを捨ててしまったりはない。
そうして、七生が段々と慣れて来たことで、徐々に家の中も変化を見せていった。それは些細なことで。
月曜日。今日も徒歩とバスと電車を駆使して帰ってきた。
玄関に向かう途中、窓越しに隣の棟で忙しそうにスタッフと話す岳の姿が見える。最近は岳の迎えがあることの方が珍しい。
それを横目で眺めつつ、玄関を開けた途端、甘い香りがした。
「あれ…?」
なんの香りだろう。
今まで嗅いだことのない香り。花でも飾ってあるのか。
でも香りが、少し強い──。
首をかしげていると、小走りに迎えに出た七生が得意げに笑み。
「気づきました? ルームフレグランスです。うちでもずっと使ってるフランス製のなんです。いい薫りでしょ? 天然のオイルを使ってるんですよ」
「お…、おお、そうか? うん。だなっ」
確かにいい薫りだ。上品な香り。ローズ系だろうか。女子が好きそうな香りだ。
ただ、それまでそういったものが生活になかった俺は、いささか面食らう。
だいたい、幼い頃から人工的な香りには無縁で。母親は化粧っ気もなく、家に香水もなかった。
ルームフレグランスなど問題外で、いつもお手製キムチの香りや、ダイコンの漬け物の香り、ご飯の炊けた香りに夕飯のおかず、魚の干物の匂い、出汁を取っている干し椎茸の香り、庭に咲く沈丁花の香り──がするくらい。
そんなだから、岳のマンションにいた時も、ここへ来た時も、そういった類は置いてこなかった。と言うか、『置く』と言う考えがこれっぽっちもなく。
唯一トイレには置いてはあるが、それも無香料だったりする。
なんとなく、食事する場所に人工的な強い香りがするのが苦手で。
ラーメン屋に入った時、隣に香水のきつい人物がいたりすると、一気に食欲ダウンする。
それと同じだ。美味しいものの香りが一番であって欲しいのだ。
なんか、ファンシーな雰囲気になったな。
俺は隣りの棟の自室に戻りつつ、廊下一杯に広がる香りに呆気に取られる。
ふんわり、ふわふわパステルピンクの世界だ。
そのうち、気が付けば洗濯洗剤も、手洗い用の泡石鹼も、ボディソープも。香りのあるものは全てパステルピンクに変わっていった。
高校生の頃、女子が集まった教室にはそんな香りがしていた気がする。
嫌な香りではない。でも、やはり落ち着かなくて。
変えられた時、あっとは思ったが七生のしたいようにさせた。良かれと思ってしているのだ。それに、慣れればそこまで香りをきついと思わなくもなって。
岳や亜貴、真琴は特に何も言わない。俺より慣れているだろうし、なによりあまり気にしないのだろう。それか、許容範囲ということなのか。
そんな感じで、少しずつ、家の中が今までとは違った色に塗り替えられていき。
大したことじゃない。けれど、山小屋から帰るたび、違和感をぬぐえずにいた。
まるで自分の家というより、他人の家にも思え。居場所がないような、落ち着きのなさを感じた。
あのカワウソ事件の後──俺個人が勝手にそう呼んでいる──掃除に慣れない七生の負担を減らそうと言う岳の提案で、俺と岳の部屋は自分たちで掃除洗濯することになった。
こちらの棟にもキッチン、浴室、洗濯場はついている。あちらに行かずともすべて済ますこともできるのだ。だから、こちらは以前と同じ。
ここは変わらず前と同じ空気が流れていて、ホッと息がつける。
もしかしたら、岳が気遣かってくれたのかも知れない。
「あれ、もう部屋に行くの?」
夕食が終わり、いつものようにリビングで七生らと雑談していた亜貴が、部屋を後にしようとした俺に声を掛けてきた。
岳は真琴と話していたが、話しながら視線だけこちらに向けて来る。
視線を受けて妙に緊張した。俺のウソはバレやすい。
「おう。なんか眠くてさ。山小屋も忙しくてあんま、休めてなくて…。ちょっと先、休むな」
笑顔を作りつつそんなセリフを口にするが、顔は引きつり気味だ。
本当は、早く落ち着く空間に逃げ込みたいだけで。
それに最近、会話をしていても、真琴や亜貴、岳と七生の話に時々、入り込めない話題も含まれるようになって。居づらいのも理由の一つ。
さっき、夕食時もそうだった。
「あれ、七生。やばいよ」
「え? そうですか?」
七生が器用に箸で魚を切り分けながら、亜貴に目を向ける──ちなみに、七生は敬語は使わなくていいと言うのに、どうしても曲げない。年下の亜貴に対しても未だ敬語だ。倖江の言いつけらしく忠実に守っている──突然、始まった会話に俺は、ん? っとなる。
「だって、普通あんなこと、しないって。お祖母ちゃんだよ」
「そうですか? 僕は普通なんですけど…。岳さんはどう思います?」
「…まあ、亜貴の言うのももっともだな。けど、アリと言えばありだろ」
すると真琴がからかうように。
「タケは祖父母と一緒だったわけでもないのに、そう言うところがあるな」
「なんだよ。別に普通だろ? 頭に手ぬぐい被って掃除するくらい」
ああ、なる。
そこで漸く納得した。皆の会話をきょろきょろしながら聞きつつ、漸く会話の主語を理解したのだ。
些細な事だけれど、最近、ずっとそんな感じで。
四人だけが共有しているけれど、俺は知らない話題がひょこひょこ顔を出す。
俺がここにいるのは月火のみ。そうなるのも仕方ない。
中心にいるのは勿論、七生で。
可愛い七生が笑うと、空気がフワリと甘くなる。周りをパステルピンクの綿菓子が包み込み、いつの間にか、周囲にいる者は、その綿菓子を口いっぱいに頬張っている感じだ。
俺にはない魅力だな。
皆が惹かれるのは当たり前。
七生はいい奴だと思うし、可愛いとも思う。
けれど、七生の登場によって起こる様々な変化に、対応仕切れない自分がいて。徐々に自分の立ち位置が見えなくなっていた。
亜貴は俺の返答に、そう? と幾分、怪訝そうな顔をしたものの、
「ちゃんと休むんだよ? 添い寝する?」
と、まるで親の様な顔をして言った。
「いらねーよ。おやすみ」
笑って答えると、亜貴はおやすみーと返し、また皆の輪に戻っていった。
岳は真琴と共に、七生の話を聞き入っている様子。時折、漏れる笑みはかなり砕けている。それは、俺と一緒にいる時と同じに見え。
俺はそれから目を背けると、気づかれないよう、忍び足の猫の如く、そっと自室に戻った。
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