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07 失ったもの、失いたくないもの
──ただ、他の人と同じようにまっとうに生きてほしいんだ。
頭の中で復唱し、重い頭を枕から上げた。
過去の悪夢を見たせいか、食欲がない。苦めのコーヒーを入れてもらったチョコレートで空腹を満たした。
今の今まで思い出さないようにしていたが、なぜ今になって悪夢は過去を掘り起こしてくるのか。
一人の暮らしも慣れたが、ご飯が適当になるときがある。食べてくれる人はおらず、余り物を炒めて食べるだけだ。
電話がかかってきた。祖母だ。
『おはようございます。ちゃんとご飯は食べてますか?』
「食べてますよ」
『この前のお茶会はいかがでした?』
時刻はまだ九時だ。朝から家元である祖母の声を聞くのは抵抗がある。
「楽しかったですよ」
『向こうの愛奈さんとはうまくやっていけそう?』
結局、言いたいのはそこなのだ。孫の人生よりも家の存続や結びつきが何よりも重んじなければならない。そういう家だ。
「まだ数回しかお話ししていませんので」
相性は最悪だろう。向こうも猫を被るのが上手いタイプ。仮に結婚したとしても、もって三日で終わる自信がある。
『早く身を固めてちょうだいな。いつまでも独り身なんて、世間体が悪すぎます。あなたは跡継ぎでなくとも、皆が心配していますよ』
「ええ、判っていますよ」
『本当に判っているのかしら』
今思うと、女が苦手になった理由はこれなのかもしれない。
女兄弟に囲まれて、肩身が狭い上に女という生き物は強欲で奇妙な存在には発狂して指を差す。気持ち悪いと悪びれもなく言い、それが一瞬に広まっていく。
「すみません、友人と約束がありますのでこれで」
祖母はまだ小言を言い足りなそうだったが、無理に電話を切った。
今日は凜太の通う大学の文化祭だ。会える日をどれだけ愉しみにしてきたことか。きっと彼は勉強に文化祭にと大学生活を満喫してこちらのことなど忘れているだろう。
──本当に来てくれる?
そう思っていたのに、凜太からのメールだ。朝から幸せな気分になれる。
──準備してる。
凜太のアバターが万歳をしている。頭を撫でた。
外に出れば、日差しが身体を突き刺してくる。今年の夏は暑い。しかも蝉の鳴き声がほとんど聞こえない。暑すぎて地上へ出てこられないのだろう。
大学近くの駐車場に駐め、凜太のいる場所へ向かう。
浮き足立った生徒の笑い声が廊下に響く。このような学生生活を送りたかったと、投げやりで憂鬱な気持ちにもなる。
廊下にはサークルの宣伝や文化祭のポスターが大量に貼られていた。
目立つように連なっているのが、本日行われるミスコンだ。今の時代もあるらしく、桜田春の美しき顔もある。
「アキさん!」
勢いよく扉が開き飛び出してきたのは、凜太だ。
勢い有り余る彼を両手で受け止めた。
「危ないぞ」
「うんうん、久しぶり! 会いたかった」
彼はどうしてこう、素直なのだろう。人がたくさんいようともお構いなしだ。どんな顔をしていいか判らず、とりあえず微笑んだ。
「なに見てたの?」
「ポスター。桜田さんってお前の許嫁だろ?」
「そうだよ! 違うよ!」
「どっちだよ。ステージに行かないのか?」
「アキさん誘って行こうって思ってたところ。もう少しで昼休憩だし、一緒に食べよう!」
「ミスコンは立候補制?」
「これは選ばれたんだよ。ちなみに高校のときの優勝者は春」
「さすがお美しいお嬢様だな」
「芸能事務所の人もハルに会いに来たりするんだよ。すごいでしょ。本人は興味なさそうだけど」
「お嬢様は将来、何をしたいんだ?」
「なんだろうねえ……回りはとにかく結婚させたがってるけど」
「どこの家も大変だな」
「だね」
ミスコンはちょうど始まったばかりだ。最終ステージは十人ほど残っていて、それぞれ衣装は異なっている。さすがに水着はいなかったが、身体を強調したような服を着た女性も多い。男性たちは釘付けだ。
目立っているのはやはり桜田春だ。一人だけ着物で参加していて、着慣れていて凛とした佇まいは誰よりも目立っている。
「圧勝だろうな、これ」
「ミスコン自体に興味がなくても、出ると決めたら本気を出すからね。ハルは」
「下手に色気を出さなくても、勝負できるものがあるって強いな」
投票は文化祭のラストに結果が判る。一般でも票を入れられるので、秋継も投票用紙をもらう。
「お疲れ様。来ていたの?」
相変わらず刺々しい女だ。ここまでくるといっそ清々しい。好感が持てるタイプだ。
「お疲れ様です。相変わらずお美しいですね」
「心にもないことをありがとうございます。リンも応援ありがとう」
「どういたしまして。控え室にハルの分のお菓子置いてあるから、食べて」
「そうさせてもらうわ。あー疲れた。休憩をとる前に、相沢さんとお話ししたいんだけど、いいかしら?」
おどろおどろしいオーラをまとい、春はにっこりと笑顔を作る。
「私は構いませんよ」
「じゃあ僕は裏庭で待ってるね」
凜太がいなくなると、春はかんざしを解いた。健康的な黒い髪が着物に落ちる。
「あなた、どういうつもり?」
「何がです?」
「適当にリンにちょっかい出すなら、やめていただけます?」
「適当? 俺が?」
「ええ、そうよ。私がどれだけあの子を可愛がってるかご存じよね? 生まれたときから一緒だったの。あの子が幸せに笑うときも、頽れたときもずっと私が側にいたのよ」
「頽れたときって?」
「私が作った星空散歩同好会。作るしかなかった。適当な名前でも、あの子を助けるために咄嗟に思いついた。だっさい名前だけどね。正直、あなたを呪い殺すくらいには怨んでいるわ。真剣な付き合いをするつもりがないのなら、今すぐ帰って」
「……確かに。俺の態度は中途半端だ」
「あなたの立場上、そうなるのも判るわ。乗り越えなきゃならないものは性別だけじゃないものね。家柄や人との付き合いも、何もかも越えて愛を貫き通せるかだもの。もし無理だと言うなら、近づかないでほしい。あの子を傷つけないで」
「桜田さん、一緒に写真お願いします!」
他の生徒に声をかけられると、人を殺せそうなオーラを放っていたのに一気に大輪の花を咲かせた。本当に恐ろしいのはどちらだと言いたくなる。
元から彼との関係は遊びで終わらせるつもりはなかった。だが誰に言われようと、人生に関わる覚悟が強く持てない。これは今まで生きてきた中で出来上がった秋継自身の性格の問題でもある。春もまた一方的で、秋継の人生を知らない。
ただ迷わなかったのは、今すぐ裏庭へ行くということ。とりとめのない話をして、笑ってほしかった。彼はよく笑う。どれだけ救われているのかも知らずに、側で微笑んでくれる。
「アキさん!」
手には焼きそばとお好み焼きを持って、彼はやはり笑っていた。
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