01 アキとリン

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01 アキとリン

 東京へは久しぶりに出た。同じ地球にいて同じ星を見続けているのに、なぜかここは時間が急速に動いている。時計の針も、長針は焦ってどんどん進んでいく。  シャワーの音が止まった。ベッドの上で無意識に姿勢を正していた。 「お待たせ」  長身に黒髪、色白。社会人。彼の言うように嘘は書いていない。それどころか、プロフィール以外に魅力的なところがありすぎて心臓が狂い出している。 「俺、下になるの無理だけどいい?」 「下?」  男は怪訝な顔をする。 「受ける側はしないってこと」 「ああ、うん。どっちでも大丈夫…………あっ」  バスローブの帯を解かれた。下着も身につけていない。  男は一点を見つめては、額に唇を落とした。 「優しくする」  初めての経験は、それはもう痛みと圧迫感で死を感じるほどの恐怖だった。  気持ちいいとか、心が暖かいとか二の次三の次で、とにかく激痛。  それでもなんとか耐えられたのは、いつでも見守ってくれる星や天体のように、男があまりにも優しかったから。触れる指先が柔らかくて腫れ物を扱うように慈愛に満ちていた。 「本当にいいの?」 「なに?」 「お金」  これでやりとりは二度目だ。一度目は性行為の後に身体を拭いてもらった後、彼は財布を取り出した。万札を何枚か渡してきたが、首を縦には振らなかった。 「同意の上、でしょ?」 「そうだけど」  アキとだけ名乗った男は、裸体を何度も見つめ、吐息を吐いた。  おそらく、ばれているのだ。ゲームアプリ上のプロフィールには経験人数は二人と書いたが、実際はこれが初めてだということを。  彼は数人と書いていたが、間違いではない。優しい指先に触れられた過去の男に嫉妬するくらいには、彼は経験がある。 「でもありがとう。優しくしてくれて。嬉しかった」 「優しい? 俺が?」  本気で思っていないのか、男は目を丸くする。 「そんなこと言われたの初めてだよ」 「うそ、ありえない。前戯は時間をかけてくれたし、身体は拭いてくれたし」 「それは…………」  男は目を泳がせ、財布の代わりに別のものを手に乗せた。 「飴?」 「べっこう飴、あげる」 「これ初めて食べる」 「本当? じゃあもう一つ」  べっこう飴をふたつもらった。存在は知っていたが、駄菓子屋で売っているイメージで、社会人が食べる印象はなかった。  袋を開けようとしたが、男は三つめのべっこう飴を口に入れると、口を塞いできた。  口内が甘みで満たさせている。飴だけの甘さではない。唾液ごと吸い取ると、音を立てて離れていった。 「ありがとうな、リン」  お礼を伝えたいのはこちらなのに、なぜか彼は笑った。 「ありがとう、アキさん」  凜太も負けじとお礼を伝えた。「ありがとう」の五文字にはたくさんの気持ちが込められている。お互いに本名を名乗る間柄ではないけれど、優しくしてくれたり飴をくれたり、ひとときでも幸せのおすそ分けだ。  家へ帰り、登録したてのアプリを覗くと、メールが届いていた。 ──ありがとう。  差出人──不明。送った相手がアプリから退会した証だ。  恋と名乗るには短すぎるが、凜太はめいっぱいの涙を流した。 「お疲れ様でございました」  祖母の家元に滑舌よく頭を下げた。  平野凜太は茶道の一家に生まれ、幼少期から作法を叩き込まれている。継ぐのは姉の愛奈であり、凜太ではない。気は楽ではあるが、家元の指導はいつも緊張の糸を張らせていた。 「凜太、本日もサークル活動ですか」  呼び方が茶名の宗凜から凜太へ変わった。茶名とは千利休の法名である千宗易から宗をもらい、名前の一文字と合わせた呼び名だ。茶名をもらうと同時に、専任講師としての資格を得られる。  呆れた物言いはいつものことだが、稽古以外のプライベートな時間は凜太のものだ。 「ええ、そうです。早めに帰ります」 「そうしてちょうだい。大学の講義もあるのですから、くれぐれも遅れないように」 「はい」  凜太は大きな返事をし、茶器を片づけ始めた。祖母はため息をつくだけで、特に何も言わなかった。 「リン、遅刻!」 「ごめん」  仁王立ちで立っているのは、幼なじみの桜田春だ。地主の娘であり、いわゆるお嬢様である。長い黒髪を揺らし、怒りながらこちらへ向かってくる。 「シュウは来られないって。急にバイトが入ったんだってさ」 「そっか。じゃあふたりで活動しよう」  凜太と春、秀明の三人の所属している星空散歩同好会は、こうして夜にも活動する。昼間は天体に関する研究を行ったり、宇宙について語り合ったりと様々だ。 「今日は雲がほとんどないから星がよく見えるわね」 「そうだねえ、降ってきそう」 「あ、降った」  緩い坂道を登っていき、ときどき流れる星を指差す。 「あれがスピカ、デネボラ、アークトゥルスね」 「春の大三角」 「そう、小学生の頃、テストに出たわね」  山頂へ行く途中にある小さな山小屋の脇には、一本の木から作ったベンチがある。星空散歩同好会の活動の場だ。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」  春は温かなコーヒーを水筒に入れて持ってきていて、紙コップで受け取った。  代わりに凜太は落雁と温泉まんじゅうを彼女へ渡す。 「急に活動したいって連絡きたから、びっくりした。何かあった?」 「あった。どうしようもないんだけど、聞いてほしくて」  勇気のいる話であり、家族の耳には入れられない話だ。 「アバターを作って箱庭生活を送れるゲームアプリをやってるんだ。そこで知り合った大人の男の人とホテルへ行ったんだけど」 「いろいろつっこみどころがあるんだけど」 「あまりに優しくて、好きになった。家に帰ったらメールが来ていたけど、アプリから退会してた」 「どこからほじくっていいわけ? この話は。メールってどんな内容?」 「『ありがとう』って。でも差出人不明になってた。退会すると不明になるから」 「わざわざメールくれたのに、退会? 意味わからん」 「僕もわからん」  ふたりで唸り、空を見上げた。星は穏やかで優しくて、いつだって見守ってくれる。 「その、どんな付き合いを望んで会ったの?」 「自分のプロフィールを書いて、チェック項目に印をつけるんだよ。一日のデートのみとか、将来を見据えての関係だとか。彼はどっちにも印がついてなかった。僕もおんなじだけど」 「それだと向こうは何を望んでいたのかも判らないわね」 「向こうも僕が望むものは判らなかったと思う」  小さな落雁を口に入れる。口の中だけではなく、狭くなっていた心が少しだけ穏やかになった。 「嫌いになったなら『ありがとう』なんてメールをしないだろうし。多分だけど、好意は多少あっても別れなければならなかったり、二度と会えない事情があったんでないの」 「事情って、」 「例えば、家族がいるとか」 「聞きたくないっ」 「指輪は?」 「してなかった。跡もなかったし、普段からしてないんだと思う」 「結婚してても普段からしない人はいるしね」 「僕と同じで男性が好きなのに、家族はいるってこと?」  春ともう一人の同好会メンバーである秀明も、凜太が異性愛者なのは知っていた。特別に思わず、「ふーん」で返したふたりは凜太にとって特別な親友だ。世の中の普通に交じることはどうしたって難しく、人と違う道はしんどいこともある。
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