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呪詛
実家に戻って疲れた体を休めていると。
「おばさま、とてもご機嫌ね。」
と姪の大姫がまとわりついてくる。最近、若返ったのではないの、などとこましゃくれたことを言ってくる。
兄の隆房が久しぶりに泊まりに来たのも、母親である寿子を喜ばせていた。邸の中に若い男性がいるのは活気があって良かった。
隆房の好物である餅をたくさん用意していて、皆で食べるのも楽しかった。
父母亡き後、姉妹二人で寄り添ってきたが、自分はあまり幸せな結婚とは言えないものの、たまに夫は通ってくる。そして子供にも恵まれた。
妹の花房は、身分違いの恋にやぶれ、一度も結婚はしていない。それを気に病んでいるような風ではないけれども、家名の誇りを胸に女房勤めをしている。八条院とは相性が良かったらしく、息子の隆房も気に入られていることを母親として素直に嬉しいと思っていた。夫と花房は昔から仲は良くはなかったけれども、夫でさえ、最近は花房にご機嫌を取るありさまである。今ようやく家の中は光がさしはじめたのも妹が行動を起こしてくれたおかげであった。
「そうか、法然はそのように申したか。」
八条院は花房の報告を聞いて、そう言った。
「我慢と『修行する』は違う・・・か。」
八条院はめずらしく傍らに書籍を置いていた。『更科日記』や『土佐日記』など旅にかかわる書物を読んでいるようであった。花房を待っている間も、こうしてまだ見ぬ土地への憧れがつのっていったらしい。
いつかは海というものも見てみたい、と花房に語ったことがあった。
『更科日記』の語り手が、幼い頃に父親の赴任先である東の国から、京に戻るさまを女房の一人に読ませて聞いていた。
「駿河の国の富士山とやらも見てみたいものじゃ。」
などと話をされる。
すると女房の一人が国司であった父親に連れられて、赴任先への道すがら見たことがあると申し上げる。その者の話を熱心にお聞きになられる。
私的な旅行はまだまだどうしたら実現できるか知恵が浮かばないが、それでも八条院は前向きに考えておられるようで、花房はほっとした。
烏丸御殿では風邪が流行っていて、八条院も咳き込んでおられた。
花房も今回は早々に宿下がりし、流行病を家に持ち込まぬように、と注意をしていたが、体の調子がおかしくなり数日間寝込んでしまった。熱が高く続き、もしは疱瘡ではと?家中に緊張感が走ったが、顔には発疹は出ず、熱が下がると、今度は胸からお腹にかけてにぶい痛みがあった。
うつらうつらしていて、夢に見るのは、かつての恋人の姿で、美々しい女たちに囲まれて、笑いさざめいている。壇ノ浦の戦いで海の藻屑と消えた若武者の一人であった。花房に冷たい態度を取り、つれなくあしらう。死出に旅立つ自分を速く忘れるよう、あえて冷たくされたということを知ったのは、ずっと後のことだった。
花房はこんな病いにかかるのは初めてで、何か違うと思った。何がどう違うのか言葉では説明しにくいが、何か悪いものにとりつかれているような気がした。
花房の病は良くも悪くのならず、その間、甥の隆房は近くによって様子をうかがった。
「薬師に見せて、薬を飲ませてもあまり変わらない。」
ということを聞いて、隆房は深刻な顔をして母親に告げる。
「今回は加持祈祷をした方がいいかもしれません。」
これはどういうことなのかと寿子は息子に尋ねた。
「今、烏丸御殿はただならぬ状況です。」
と言った。
「何かあったのかい。」
「他言は無用ですよ、母上。もっともこういう話はいつか世間に漏れてしまうでしょうが。むろん私は邸の奥にまで入ることができませんが、八条院様がめったにないこと・・・大変なご立腹だとか。花房おばがかつて仕えておられた宮様を烏丸御殿から追い出してしまわれたとうなのです。」
「たしか火事で住まいを失って、八条院様のもとへ来られたとか。烏丸御殿には東宮様や、帝の内親王方や、皇族方が養子として何人もいらっしゃるということだったわね。宮様一人増えたところで、何の支障もないのでは。」
「表向きは宮様のあたらしい御殿が見つかったということですが、実際は仕えている召使いの一人の家に仮住まいされるそうですよ。」
先ほどから叔母上の症状を聞いていて。
「八条院様も同じような症状で、周りの者が腑に落ちぬと言い合っていたところ、宮様の住まうところから呪詛を行ったという証拠が見つかったそうなのですよ。」
「そ、それはお前。」
寿子は花房が山の宮様に嫌われて、職場を失ってしまったことを姉ゆえに知っている。宮様が好意を持っている男性と仲良く話をしたことがお気に召さなかったらしいとちらっと聞いたことがある。
「八条院様はおっとりとしておられる反面、非常に頭の切れるお方だそうですよ。私も家司として出入りするようになって、同じ家司や警備の者たち、下人にいたるまで、その信頼は絶大です。慈悲深くて、思いやりがあると皆口々に言っております。それゆえ少しでも八条院に反するものに対しては敏感なんです。」
それに、と隆房は続ける。
「叔母上が山の宮様からいびり出されたことや、宮様自身、心が病んでおられることも全てご存じだそうです。」
ももちろん本当に呪いの人形が出てきたのかわかりません。それを理由に気の合わぬ人物を烏丸御殿から追い出してしまいたかったのかもしれません。が、叔母上の病気も偶然にしても気味が悪い。ただちに調伏の僧を連れてまいります。
寿子は息子の言葉にうなずくばかりだった。
遠くの方から、ざわざわと人の声が聞こえ、やがてそれだ読経の声となって聞こえてきた。「加持祈祷など、金持ちだけがすることだ。」と笑い飛ばす亡き父上の声がする。縁起担ぎなどにあまり興味を持っておられなかった。父上自身が厄をふせいでくれていた気がする。
うつらうつらする中、汗をびっしょりとかき、つききりで寿子が励ましてくれているよだが、姉の声は聞こえない。隣部屋の読経の声のみ全身に集中させて、花房も必死で何かに打ち勝とうとする。この声は法然だろうか。澄み切った美しい声である。
瞬間すーっと体が軽くなったかと思うと、花房は意識を失い、深い眠りの底に陥ったのは日も暮れて、夜半になったことだった。
目が覚めた時に心配そうに花房の顔をのぞきこんだのは、烏丸御殿にいるはずの犬丸だった。花房が重病だという噂を聞いて、いてもたってもいられず、徒歩でここまで来たと言う。邸の前をうろうろしていたところを、僧侶を連れて来た隆房とかちあったという。
犬丸は涙ぐんで、烏丸御殿での騒動をぽつりぽつりと語った。
「八条院様も一時、呼吸が苦しくなられて、花房様と同じように胸からお腹にかけて痛みがあったそうでございます。いつもの体調不良とは違って、邸中大騒ぎになったのです。」
前々から、山の宮様が八条院様を呪詛しているという噂は下人同士ではひそひそとささやかれていたという。宮様はずいぶんあやしい修法にこっておられたらしく、毎日のように御堂にこもり、お経をあげられていたという。その片付けなどをする下女が、人の形をした紙切れでこげついているのを何度か発見していたことから、そんな噂が流れていたらしい。
私はともかく、何故八条院様をうらむことがあるのだろうか。確かにお二人は、気質も考えかたも違うお方ではあるが。
体が回復する頃、八条院から花房へねんごろな手紙をもらった。代筆ではあったものの、早く顔を見せておくれという愛情のこもった手紙であった。
花房は涙ぐんで喜んだ。
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