宿下がり

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宿下がり

実家は花房の姉、寿子が待ち構えていた。 やれやれと伸びをすると、静かでひんやりした実家の雰囲気を感じていた。寿子の子供たち、そろそろ手習いを始めなければという年頃の長女と、まだよちよち歩きの次女がはしゃいで迎えてくれた。 長男である隆房の姿が見当たらない。成人式である元服を済ませて、大人の仲間入りをしたのが去年である。元気で明るい隆房のけはいが全く感じられなかった。 姉の寿子は、 「実は・・・」 ふっとため息をついた。 「隆房はとうとうあちらのお世話になることになってしまったのよ。」 あちらとは、寿子の夫がもう一人の妻と住んでいる邸である。もう一人の妻との間には男の子はいなかった。 花房の実家は、たまに通ってくる夫を待つ姉と二人の娘という女ばかりの所帯になってしまった。 同時の結婚形態は通い婚であり、妻の実家が社会的地位が高く、かつ裕福であれば、一夫多妻制であるゆえに、おのずから正妻のような立場になってしまう。花房姉妹の両親はすでにこの世にはいない。寿子の立場は妻としては後退してしまった。しかし、息子の出世を思えば、継母となる夫のもう一人の妻が息子を気に入ってくれているのはありがたいと思わなければならない。 父親という大きな後ろ盾を失い、心細く暮らしている寿子も、一家の主婦としてやるべきことはたくさんあり、家計の切り盛りや育児に日々追われていた。 そんなおり、妹の花房が再び、権勢のある邸へ女房勤めをしてくれるのは心強いことであった。 「あんたには苦労かけるわね。」と優しい姉は妹に声をかけてくれる。 心配事は家に持ち帰らぬよう、花房は何気なくふるまっているけれど、昔のように生き生きとした表情を見せることはできず、愁いを含んだ表情は姉として辛いと思っているようであった。 それでも姉妹は、久しぶりの再会を喜び合い、夜になれば、娘たちが寝入った後、声をひそめながらとりとめのない話をする。 長女の大君は元気いっぱいで、健やかに育っているが、次女の中君はよく風邪を引き、体が弱いのが悩みの種だという話をする。最後は夫の正妻の悪口を言い合って、うっぷんを晴らす。 肉親の温もりを感じ、花房は冷え切った心が温まるような気がした。自分は結婚どころではないが、二人の姪のためにも頑張らなければと思う。 再び花房は出仕した。犬丸は大喜びで迎えてくれた。邸の中は格段、変わったことはないという。 部屋はきちんと片付けられていて、犬丸は他の局の部屋の用事を引き受けたり、けっこう忙しかったという。元気なのはいくらか手当をもらったからであろう。花房も実家から古着をもってきて犬丸に与えた。犬丸は目を輝かせて喜んだ。 八条院という勤め先を紹介してくれた中納言が訪ねてきた。少しやせたようね?うまくやっているかしらと声をかけてくれる。 「びっくりしたでしょう。」 ぽっちゃりして、柔和な顔立ちの中納言はいたずらっぽく笑った。 「・・・何もすることがなくて。でも待遇はすごくいいわ。」と花房は部屋を見渡して言う。 「山の宮様のところは・・・相性が悪かったわねえ。でもここは長くいるにはとてもいいところだと思うわ。八条院さんは手のかからないお方ではあるし。同朋もそこまでいじわるな人はいないし。」 花房は中納言に紹介してくれたことをあらためてお礼を言った。 「いいのよ、花房さん。せっかく宮仕えを続けてきたんだもの、実家に引っ込むにはもったいないと思うわ。それより、花房さん。」 と中納言は別の話をした。 「私の弟が山の宮様の和歌の手ほどきをしているのは知っているわよね?」 「ええ、定家どのでしょう。取次ぎはしたことはないけれども、二三度お見かけしたことはあるわ。」 「こちらにほ出入りしているのよ。つまり姉弟でかけもちをしているわけ。もっともこちらの女房で和歌のやりとりをするような相手はいなけけどね。弟はねえ、是非あなたと和歌についてお話をしたいって言っているの。 あの時は・・・山の宮様も少しきつい物言いだったわねえ。あなたの必死の弁明に聞く耳もたないんですもね。でも、私は面白いと思ったわ。後で、あなたの和歌を思い出して書きつけて弟に見せたらこれは面白いって感心していたのよ。」 「・・・私には和歌を詠む資格はないって言われたわ。」 中納言はかぶりを振った。貴族の世界では歌詠みとして人に一目置かれるのを何よりも望む者は多かった。古今の歌の研究はもとより、新しい時代の息吹を感じる和歌を作り上げていこうという機運は高かった。そんな中、山の宮様はすばらしい才能を見せていた。 花房は・・・思いつきでしか和歌は詠めなかった。それを新しさと取るか、ふざけていると取られるか、どちらかであった。 「私はねえ、山の宮様がいままで、女房にあんなに怒ったことがないって、他の人から聞かされたことが一番つらかったわ。私たちが以前お仕えしていた建春門院様はそなたは少し言葉が過ぎると注意されたことがあったわ。大好きなお方だったからこの小言はこたえたわ。それでも私のことは可愛がってくださったから、心をこめてお仕えできた。でも山の宮様は本当に私のことを嫌っておしまいになったわ。」 中納言の君は世話好きでおおらかなところがあるので、つい甘えてしまったらしい。二人とも、本当は山の宮様が花房を憎んだ真相を知ってはいたが、さすがにそれは口にできなかった。 流麗で美しい和歌を作る宮様は、一方で激しいものを内に秘めておいでになるのであった。 山深み春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水  美しい調べの和歌を詠まれる山の宮様・・・花房は本当はとても尊敬申し上げていたのだった。その方に嫌われてしまったのは、つくづくも悲しいことであった。
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