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八条院
烏丸御殿でのあけくれであるが、ある日花房は初めて寝ずの番をすることになった。
というのも、ここ最近、八条院の体調が思わしくなく、夜もよく眠れないそうであった。花房は八条院の寝室の傍に控えていた。
夜半過ぎても、八条院は眠りにつかれる様子はなかった。
熱帯夜とも言えるような暑い日で、薄衣を身につけている花房さえ、誰もいなければ上半身は裸になりたいと思えるような夜であった。
花房には信じがたいことだったが、八条院の寝室は奥まった所にあり、風の通りも悪い場所にある。せめて夏の間だけでも、池が近く涼風が少しでもやってくる場所で寝起きをされたらいいのにと思う。
これでは暑苦しくて眠れないだろうと、扇で風を送って差し上げようかと思案していたところ、「痛い・・・」という声が聞こえた。
これは大変だと思い、奥に控えている寝ている同僚たちを起こすと、ほのかな灯りをたよりに、寝室へ入っていった。とたん、むんとした匂いが立ち込めていた。
八条院の体臭らしく、思わず鼻をおさえそうになりながら、ふと山の宮様のお香を焚きしめた佇まいを思い出していた。
八条院は半身を起こされ、お腹をおさえている。
「痛い、痛い。」
声はさらにはっきりしてきた。
ただちに典薬医が呼ばれ、薬湯を煎じて、それを八条院に飲んでいただいた。そして痛みのあるお腹をさすって差し上げた。
ひどい便秘らしかった。
薬の効果が現れたのが、一刻もかかり、その間も激しい痛みに苦しんでおられた。
ようやく薬が効いたのか、御みつぼの中で、体の中のものを全て出されたのだった。暗くてはっきりとはわからないが、全身汗をおかきになって大変な思いをされたようであった。。
高貴な方は、下に関することは羞恥心はおありにならない。小さい頃から、着替えやお風呂など、周りものに全てさせているので、恥ずかしくはないが、痛みは大変なようだった。
花房も汗だくになりながら、はげまし続けた。
花房の機転のおかげで、頑固な腹痛はみるみるうちに収束し、八条院は楽になられたようだった。
空が白みかけた頃、ようやく花房は退室し、他の女房たちと交代したのだった。そして、昼過ぎまで眠りこけたのだった。
その日の夕方、花房は八条院に呼ばれた。
めずらしいことに、御簾が静々とあがり、真っ白い化粧をし、いずまいを正した八条院が姿を現した。はっきりと尊顔を拝するのは初めてで、長い顔をされていて、威厳があり、若い頃はなかなかの美女ではなかったのではなかろうか。
八条院は昨晩の花房の働きに対して、布地をほうびとして与えた。恐縮する花房に自ら質問される。
「そなたの名は?」「里は?」などと、初出仕の時に申し上げたことを再びお尋ねになった。
傍に控えている古参の女房たちは、八条院のふるまいをめずらしいと思っていた。
花房は一つ一つの質問に丁寧に答えた。八条院はふいに、久しぶりに双六がしたいと仰せになった。いつも黙りこくって、年々気難しくなるばかりの主人が何かをしたいと言うのは久しぶりで、気分が変われないうちに、と盤を用意する。
八条院は「強いか?」とお尋ねになる。「まあまあでございます。」
まあまあとは曖昧じゃのうと冗談っぽくおっしゃり、賽の目を振られる。着物の袖口から見える指は白く、美しい手をしておられた。
八条院はなかなかお強い。
夕餉を召し上がらる時刻まで、五回勝負をし、三勝二敗と勝ち越された。ほんのり頬を染める花房を面白そうにご覧になる。勝負が一段落すると、「そなたもお食べ、続きは灯をともしてからじゃ。」
と仰せになる。
夜更けまで勝負をいどまれて、途中化粧すら落とされて、時折周りの者のお世辞にも含み笑いで答えられる。化粧を落とされた八条院は、素顔の方が美しい方であった。
主人の機嫌が良いと、周りの雰囲気がからりと変わる。部屋中の灯が灯されて、部屋に控えたいた女房達も出てきて、物語を楽しむ者、おしゃべりをする者、琴をひそやかに演奏する者など、活気のある夏の宵となった。
「女院さんは久方ぶりにぐっすり眠られました。」
近習の一人、右近がそっと花房に耳打ちした。花房は寝室を変えられてはいかがでしょう、と進言したのを八条院はもっともなことだと、風通しのいい部屋に寝室を移された。
普段黙っているばかりの女房たちは『方角が悪い』だの、『身分の高いお方は場所が決まっている』などとひそひそ言い合ったが、右近は花房に肩入れし、是非にと八条院を促した。
「私は四十年来、女院さんに仕えておりますが、こんなになったのは最近のことで、加持祈祷の僧を呼んでも、良くならないのです。」
些細なことで機嫌が悪くなり、女房たちにあたりちらすことが増えているという。
花房はあきれた。
蒸し暑い部屋で眠ることが不眠の原因では?とやんわり、それくらいのことがなぜ気づかないのかと聞いてみると、
「それが・・・なかなか八条院さんは難しい方なのです。」
右近もほとほと手を焼いているという。今日のように機嫌がいいのは本当に珍しいことだったと花房に愚痴った。何を感じ、何を思っているのか、いつの頃からか乳姉妹の右近にも一言も漏らさなくなったという。日がな一日、簾内に坐って、ぼうっと過ごされるばかりだという。
むろん公的に身分の高い方ではあるので、宮中の行事に参加したり、仏事の催し物に参加するため、外出されることはあるという。それ以外は何をするわけでもなく、一点を見つめて、ただ坐っておられるだけだという。
「あんさんがお気に入りになって、少しでも反応を示して下さるといいのだけれど。」と右近は期待を込めて言うが、本音は半ばあきらめている様子であった。
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