和歌

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和歌

ある夜の宵、八条院にて管弦の宴があった。 御簾近くで、花房は定家と話をしていた。 藤原定家は中級クラスの貴族であるが、和歌に対しては並々ならぬ自信と自負があった。古今の和歌をよくよく研究し、日々研鑽にいそしんでいる。 そんな定家は姉中納言と共に八条院にも足しげく通っている。権勢の邸には必ずいるという陰口さえ聞こえてくるようであるが、権力を追い求める同じ情熱で和歌をも作っている。 気難しいところがあるという評判ではあるが、花房とは顔なじみであるし、姉と同じくらいの年ということもあり気安さもあった。 「姉も驚いていましたよ。花房どのは思いたったら、すぐ行動に出る人だって。」 「あら、定家どのが力になってくださったからですわ。大納言家へ話を通して下さったのは助かりましたわ。」 などとお互いを褒め合い、親しく口をきいていたが、肝心の和歌の話をすると花房は口ごもる。 姉に釘を刺された通り、一通りの挨拶と、用件をすませると、そそくさと離れなければならない。花房の宿下がりの日を狙って、花房の実家に文を送るかを思いを巡らせる。かたくなな花房の心を時ほぐすにはどうすればいいのだろうか。 山の宮様の邸に出入りし、和歌の指南をしているという定家に対して、自分の和歌に対してああだこうだと話をするには、気がひけるものがある。定家は和歌に関わらず、いろんな話を花房としたいと思ったが、名残り惜しい気持ちで、八条院の烏丸御殿を去っていった。 宇治の旅行では、山奥の聖にお布施を、お付きの者や、大納言家などにたくさんの謝礼をされた八条院であった。隆房にまでも心をくだいて、いずれ家司として出仕するがよいうという誘いもあった。気の強い隆房の継母でさえ、自分たち一族への過分な扱いを礼を言ってきたくらいだった。願わくば実の娘も八条院に出仕させたいと思ったが、そこまでは図々しい頼みはできないようであった。 秋はどこへ参ろうかと、また花房に芝居を打ってもらおうかなどと楽しく空想していた八条院であるが、一通の文を受け取った日から機嫌が悪くなった。 母君の美福門院からで、「軽々しいふるまいはおやめください。」という内容であった。いったい誰が言いつけたのだろうか。宇治へのお忍びの旅行は、物の怪を調伏するという名目にかけつけて、行楽であったと決めつけるような内容であった。しかも名もなき“無位無官のいかがわしい坊主”をお目通りしたのは問題があるとそこにはしたためられてあった。 巷では、比叡山を下り、さまざまな教えを展開する僧侶の数がひましに増えており、無知蒙昧な庶民を惑わすなどと、とかく悪評が立っているのに、その中に高貴な身分の娘が利用されるのはゆるされないという内容であった。 重ねて、次期帝の位につかれるであろう東宮の後見、内親王たちの養育の責務もあり、見本となるように身を慎むようにということだった。 八条院の心の中に寂寥とした風が吹くようになったのはいったいいつからだろうか。この世に生まれ、女と産まれ、最高の身分として生まれながら、ただ寝て起きて、食事を取り、がんじがらめの儀式に追われ、寝て起きて年を取り、そして死んでいくのだ。せめて自分の興味のあること、好きなことをしようとしても、身分がそれを許さない。この世の生きている充実感を感じている幸福な他人がゆるせなくなるのはいたしかたないことだった。 花房が宿下がりをしていた時、中納言から文が届いた。季節の挨拶と共に、この度烏丸御殿に主人と共に引っ越すという。 花房は驚いた。それでは山の宮様は、次の住まいは八条院を頼ってこられるのか。 美しく聡明で、感受性が豊かで、薫香たきしまた中で和歌を詠み、箏の琴をひくのを心の慰めにしておられるような宮様が烏丸御殿にやってこられたのは、八条院の心に溜まった鬱屈が堰を切ってしまいそうな時期だったのは双方ともに不幸なことであった。 山の宮様の宿移りはとどこおりなく終わり、噂では八条院はとても鷹揚なお方なので安心して暮らせるということだった。邸を火事で焼け出された宮様であったが、召使いの火の不始末なのか、あるいや放火なのかわからない不気味さと恐ろしさが残ったが、烏丸御殿に住めば、治安の面では安心できるはずだった。 新しい調度も整えられ、暮らしも落ち着いた頃に、山の宮様は駕籠の中に秋の幸をつめたものを八条院に献上し、和歌を添えたのだが、八条院は何の心にふれるものはおありにならず、通りいっぺんのねぎらいをしただけで、籠をすぐ近くの女房に下げ渡しただけだった。 山の宮様は八条院はおばにあたるし、すこし甘い気持ちがあったのかもしれない。お互いの母親が宮中で火花をちらしたことはあっても、血族同士であり、叔母上はきっと風流を愛する方に違いないと思いこんでおられた。というより、山の宮様自身がそういったやり取りを望んでいたのであったが。 和歌を贈答し合ったり、管弦の遊びをしたり、日々の無聊をなぐさめ合うという麗しい関係を築けると思っていた矢先であったが為に、八条院は冷たいお方という印象を持ってしまった。 こういった時、間に立つ女房がいろいろ誤解を解く手助けをするものではあるが、烏丸御殿に詳しい中納言は、八条院の気質をどう説明したらいいいかわからず、最近は気難しくなっておられるゆえにあえて差し出がましいことは避けた方が無難だと思っていた。
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