法然

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法然

花房も山の宮様に古くから仕えている女房たちと接する機会はあった。向こうはつんとしたままで、よそよそしかったが、あえて声をかけることはしなかった。 世間では八条院は、結婚はされたことがなかったが、養子に迎えられた宮様方にはそれはそれは愛情を持って慈しまれているという噂であるが、実際はそれぞれの養育係りにまかせて、その教育方針に口をはさむことはなかった。 むろん何かの折には、集まって団らんをされることはあったものの、どちらかというと好きにさせているという感じであった。 そういう風潮に乗って、山の宮様は自分の社交を再開させた。 名だたる歌詠みであられ、師匠の定家に言わせると「当代一流の歌詠み」と絶賛されている。風流人、文化人をきどる公達が、常に集っていた。 「少し遠慮されたらいいのに。」 のんびり屋である八条院の女房たちでさえ眉をひそめるようになっていた。 そしてその小さなさざ波がやがて大きくなっていくのであった。 法然という若き僧侶に出会ったのは山の宮様の所であった。 山の宮様が体調を崩され、心が弱っていたところに、巷で評判になっているという僧侶を召されたのであった。 法然は宮様の話をよく聞き、仏の教えをわかりやすく、かいつまんで教えていた。 「我こそは随一の大僧正なり。」などといばりちらすような僧侶ではなく、その口ぶりは優しく、謙虚なところに好意を持ったのと、月に一度でも法然に話を聞いてもらうと気が晴れるような気がされたのであった。 ある時、たまたま山の宮様が御髪を洗っておられた時にやってきて、取次ぎをした花房が相手をしていた。 お互い武門の出ということで、実家の雰囲気や考え方が似ている気がした。 法然は父親を亡くして、その菩提を弔う為、叡山にのぼったという。 「父の遺言は、私に復讐をするなということでした。」 なぜ父親が死んだのか、詳しい死因はしゃべりたくなかさおうだったが、花房は何となく土地争いか、家督争いに巻き込まれて非業の死をとげたのだと推測した。 「仇を取るな。」 という最後の言葉は、利発で学問好きな愛息に人生の大半を血みどろの侍稼業のみで終わらせたくないという思いもあったのではなかろうか。 「私の父も・・・武家には男の子は貴重ですけれども、娘二人で良かった、いくさで亡くすことはないと生前言っていましたわ。お前たちはしっかり勉強をし、女子としてのたしなみを身につけよと小さい頃から言われていました。でも、おかげで一族の家系をおじ一家に奪われてしまいましたけれど。」 「今や武力の後ろ盾なしには、権門の家でさえ、安穏とはしておられませんが、当の武家は、子孫にはできれば刀を持たしたくないと思う家もあるようですね。」 法然は故郷の美作の話をしたり、京に出てくるまでの道のりで遭遇した人の情けや、出来事などを語り、花房も熱心に聞いて、ときおり冗談も入るので、笑い声を立てた。 「もののあわれ」だの「無常」といった宮中文化の風潮に花房はあまり染まっていない。それは最初にお仕えした女御様が、気性がさっぱりとしておられて、めそめそしたり愚痴ったりするお方ではなかったからかもしれない。 帝のお妃になるために育てられた姫君とは違い、自らも女房として出仕されていた経験のおありになったお方である。はきはきとしていて、負けず嫌いで、それでも大変優美でしっとりとされたお方であった。 深窓の姫君たちは、おっとりとして風情あるはかなげな女性に、世間知らずに育てるといったのが一般的であった。 しかし宮中で后争いをし、一族の期待を背負っておられたあまたのお妃は、女らしくなよなよとしたところは表面的なものだけで、しっかりしていなければ、すぐはじきとばされてしまうものだと花房は実感していた。 女御様はあまり裏表のないお方で、帝に対しても、堂々と接しておられたように記憶している。媚びを売ったり、へりくだったりすることもなく、その自然な姿は帝の心をとらえられていたと思う。 花房ももともとは裏表のない性格である。母や姉のように、言いたいことも言わず、全てにおいて気をもむといったところがなかった。女御様は広い心の持ち主ゆえに、花房のような危なっかしい召使いでも上手く扱ってくれたのだと、当の花房は気づいていなかった。 女御様を失って、心にぽっかり穴があいた頃、山の宮様のもとへ出仕したが、その環境にあまりなじんでいない花房であった。 が、出入りする公達と楽しく会話などして、雰囲気を明るく楽しくするのが女房の務めだと思っていた。 髪を美しく整えた山の宮様が、花房が法然と楽しそうに会話しているのを目にとめて、それをどのような気持ちで眺めていたか、花房はまったく気づかなかった。 それからも法然と宮様へ取りつぐ際には楽しくおしゃべりをしていた。 高貴な姫君が出入りする僧と恋に落ち、ぬきさしならぬ仲になるというのは、長い皇室の歴史の中で、たまにあることであるのは花房は昔語りなどで知ってはいたが、まさか山の宮様が身分の低い僧侶に好意を持っておられるとは気づかなかった。自分のうかつさがくやまれるし、人の妻である女御様と、一生独身で過ごす慣例に縛られる内親王の社交場では、おのずから空気さえ違うというのに、あの頃はなんと無防備で浅はかであったことだろうか。 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする 山の宮様の絶唱を目にした時、花房は空恐ろしくなった。あまりにも美しい歌ではあるがゆえに、その絶望感が花房の胸をついたのであった。 山の宮様はだんだん花房を疎んじるようになっていた。花房は最初、気のせいかと思っていたが、法然との取次も他の女房がするようになっていた。 そして他の女房たちの一人が、さりげなく法然と手紙のやり取りをしていることを花房から聞き出していた。 花房への嫉妬が堰を切ってしまったのは、女房たちの間で歌を詠み合う場であった。 花房はもともと和歌が得意だとは思っていない。山の宮様は自由な題でというおたっしであった中で、庶民の女性のあわれな姿を花房は詠んだのであった。 それが宮様の逆鱗に触れた。花鳥風月、帝を礼賛し、恋を歌うのが和歌であると信じていた中で、花房の歌は言語道断であったのだった。 「そなたの顔などもう二度と見たくない。」 大人しい宮様はみんなの前で花房を面罵された。白く美しい顔に青筋を立てて怒っておられた。 さらに悪かったのは、その花房の姿を見て、数人の女房が扇の中で笑い声を立てたことであった。 打ち震える花房はどうやって自分の部屋に戻ったかも覚えていない。その日のうちに宿下がりして、山の宮様の邸から去ったのであった。 定家の姉である中納言が山の宮様に取りなしてくれたようであったが、宮様はいっさい耳を傾けなかったそうであった。 疲弊と傷ついて終わった宮様への出仕であるが、中納言のように親切にしてくれた朋輩もいたし、今は八条院に仕えて、立ち直ってきているので、このままどうか何事もなく過ぎていってくれればと願っていた。 さて法然ではあるが、山の宮様の許から忽然と花房がいなくなり、残念に思っていた。男女の仲はただ楽しく文を交わし、おしゃべりをするだけの仲も存在するということを理解できない人はいるのであった。 法然は年々その学識の深さ、豊かさ、徳の高さが評判となっており、上つ方の間でもこぞって邸に招待するようになっていた。それだけでなく、市井にまじり、名もなき貧しき人々に仏の教えをといてまわっており、そういった姿もやんごとなき人々の心をつかむようであった。 八条院は母美福門院からのすすめで、法然を招き、大々的な仏事を開催した。 その時は山の宮様も列席していたが、御簾うちから花房の姿を見つけると、不快は表情を浮かべられた。山の宮様は法然が立派になっていくのを嬉しくも寂しく思っていたが、恋をされているせいか、内面から輝くように美しくなっておられた。 八条院は数週間前にも、母美福門院とともに、金剛光院へおもむき、共に写経されたり、念仏をとなえられたりしたが、心の中は殺伐としているということを誰が知りえるだろうか。 法然は薄々山の宮様の気持ちに気づいていたようである。烏丸御殿は仮の宿であるという理由で、以前のように気さくに訪ねて行くといういったことはない。段々、手紙のやりとりだけになってきている。 八条院では、花房と再会できて法然は嬉しかった。山の宮様の邸での出来事を人づてに聞いて心を痛めていた。それでも新しい場所で元気な姿を見せてくれたことに法然は安堵した。
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