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母と娘
仏事の最中、秋の長雨が降り始め、それが肌寒く感じられた。そろそろ冬になる気配がする。八条院はとうとう秋には寺社めぐりだけで、遠出はされなかった。あれだけ、張り切っておられたのに、母君からの静止があって、気の毒なことであった。
花房には変わらす優しくはしてくれていたし、家司として仕えるようになった隆房にも、目をかけてくださるようだったが、上に立つ者はえこひいきはしてはいけないという自制心もあり、何もかもがんじがらめであった。
仏事が終わった後、八条院は花房を傍らに呼び出した。
蒼い顔をされており、もしやお風邪を召されたのでは、と心配すると、周りの者を下がらせて、花房と二人きりになった。
「花房、わらわはもう仏事にうんざりじゃ。」
かなりはっきりとした口調で、花房は驚いた。
「法然とやらの仏事はどうであったかと、母君に手紙で知らせなければならぬが、筆を持ちたくもない。」
美福門院様のような身分の高い人に対して、代筆では失礼にあたるのは、花房もわかる。
「どうでしょう、そういったことも改めて、法然に素直に悩みや苦しみを打ち明けられたら。」
八条院はあまり気が乗りそうでもなかった。
「そなたは突拍子もないようなことを言うのう。」
「人々の悩みを聞いて、いい方向へ導くのが、僧侶の役目ではありませんか。」
「ならば、そなたを使いに出そう。」
花房は話が思わぬ方向へ行ったので、冷や汗をかいた。これは困ったことになったと思った。
八条院は花房へ法然のもとへお使いに行くのにあたって、牛車も用意して下さるという。「それは大げさすぎますわ。」と花房は言い、そんな目立つようなことをして山の宮様に見つかったらどうなるかと想像すると、考えるだけで恐ろしい。
花房は宿下がりをするふりをして、法然に連絡を取ります、と約束させてもらった。
仕える女房が男性と親しくなるのを嫌うお方であるのに、と思いつつ、八条院は法然に対してよりも、花房の言うことならば、と思って下さったらしい。
八条院は女房たちよりも、烏丸御殿に出入りする警備の者や、家司など、忙しく出入りする男の召使の方を大事にしているように見える。
うちつづく戦乱の中で、仕える主人をなくした者たちを引き取って仕えさせている。
さて法然の所在は、今をときめく僧侶であるので、すぐにわかった。黒谷というところを中心に庵を結んでいた。隆房を文を届けてもらったのをきっかけにして、宿下がりの時に、花房は甥を護衛に連れて、法然のもとを訪ねた。
法然の庵はさる貴族から寄進されたという、なかなか風情のある美しい家であった。法然は花房の話をじっくり聞いて、うなずいてにこにこしながら答えた。
「私の役割は、人々を仏の教えによって、極楽浄土へ生まれ変わるように手助けをしなければいけませんが、多くの人が誤解をしております。それは、この世でつらい修行をし、徳を積むことを“我慢”ということを強制するのは間違ったやり方です。それよりも日々、心穏やかに過ごすこと、親子、夫婦、主従仲良く、楽しく生きることが大事だということをお伝えください。」
「それが、八条院様が好きなことをなさろうとしたら、母君の怒りを買ってしまうと恐れておられるのです。」
「それは花房どのが、何とか工夫して、考えて差し上げればよいではありませんか。」
「ええ?何ですって?」
「双方、納得できるようなやり方、妥協点をお互い見つけるのです。今のままでは八条院様は生きる地獄を感じておられるでしょう。本来なら、あのような方は人々に希望を与える立場ではないですか。いつもご機嫌うるわしくしていただかないと、仕えるかいがないというものです。好きなこと一つできず、平気な顔をできるのは、心に何も感じることができない木偶の坊だけですよ。苦しんでおられるのは、生きておられる証拠、感じる心がおありになる証拠ですよ。さきほど話された宇治への旅行は、花房どのの機転でずいぶん楽しそうだち思いましたよ。」
「あの時は、美福門院様がしぶしぶ認めて下さったから良かったのですが、後から批判されてしまいましたわ。」
ふうっと花房はため息をついた。
「それではあきらめますか?」
花房はこの言葉にこつんときた。ここまで言われる筋合いはないと思った。
「いいえ、それはいやですわ。」
と花房ははっきりと答えた。法然はにこにこしている。
「やり方は一つに絞らない方がいい。これもだめなら、あれでいこう、とかいろんな方法を考えるといいでしょう。八条院様は身分がお高い。さまざまな制約がおありになる・・・がこの世の中で富をたくさんお持ちになっておられる。大きな力は持っておいでの方ですよ。しかし、根が真面目なお方なのでしょうね。我慢して我慢して生きてこられた。しかし我慢というのは忍耐というのとは違う。我慢ではなく、『修行する』というものに切り替えなさいと申し上げたらいかがでしょう。」
「我慢というのは、どこか嘘くさい、心に反するような感情ですわね。修行は、人間として成長できるといった感じがしますわ。」
「やはり花房どのはさっしのいい人だ。」
「そんなことありません。私は不器用で、つまらない女ですわ。」
とつんとして答える。具体的な解決策を示さない法然に少し腹を立てていた。まったくこの愛嬌のある笑顔を見せる僧侶のせいで、自分は山の宮様との関係がこじれてしまったのだ。
しかし法然とは話が合うので、いつしか違う話をしてしまう有様であった。かなり長い間話をしてしまった。
来客がひっきりなしにやってきているようなので、花房は礼を言って庵を後にした。
八条院様のことは後で実家でじっくり考えようと思った。いつでも文を寄こしなさい、と法然は言って、いいえ文など書きませんと冷たく言ってからかった時の当惑した法然の顔を思い浮かべて面白かった。
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