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出仕
末法の世と喧伝されて久しい月日が流れているものの、人の世は滅びもせずに続いていた。疫病や大地震、洪水に津波がうち続き、次々と襲い掛かる受難の月日であった。何とか生きながらえようとする人々の姿は、身分高きも下々も変わらなかった。
天災のみならず、政治も不安定で、治安も悪化の一途をたどっていた。
政治の乱れ、治安の乱れ、洛中には戦乱の空気がなお色濃くたちこめていた。兵士たちは都を守護せんがために、大路小路のどこかしこ、散在していた。
花房という娘がいた。娘という年頃ではないが、さりとて出家するくらいの年でもない。
和歌を詠み、琴を弾き、書をよくする才媛という評判があるわけではないが、手をこまねいて飢餓の中に死んでしまうことをあがらうだけの気持ちの強さはあった。
つてを頼って、八条院に出仕したのは、一つの大きな争いが終焉し、少しは落ち着いた頃を見計らってのことであった。
八条院というのは大変高貴なお方であった。お住まいは烏丸御殿といい、京で屈指の大邸宅である。帝の内親王に生まれ、寵愛の深かった母親の女院から莫大な荘園を受け継がれたお方である。
混沌とした世の中ゆえ、仕える女房たちは、土地を寄進して『八条院』の威光によって領地を安堵してもらい、実家の財産を守るためにも勤め先を確保していた。
花房の場合はさしたる財産もなく、代々都の守護を司ってきたという由緒正しい家系を頼りに出仕したと言っていい。
与えられた部屋は広かった。
以前使っていた女房(女の召使い)の諸道具が残っていて、そのまま使えばいいと、部屋を案内してくれた右近という古参の女房が言った。
寝起きをする部屋は相部屋ではなく、一人部屋というのは初めてであった。
驚いたことに、この部屋には一人の下女が住み着いていた。
右近が去った後、部屋の奥からひょっこり出てきたのであった。
「驚かせて申し訳ありません。私は犬丸と申します。」
床にへばりつくように、平服し、どうぞ身近に使って下さいと懇願してきた。
肌は日焼けて、髪も茶色く腰より長くはない。手が荒れているのを見ると、おおかた庭の掃き掃除や邸の拭き掃除をするような雑色女に違いなかった。
花房は下級とはいえ貴族である。帝の内親王のお近くで女房(女性の召使い)として仕える身分である。ほこりや垢をきれいにする者と一緒に寝起きをするなど、考えられないことだった。
「何を言っているの、お前は。」
花房はさすがに声がうわずった。なるべく居丈高にならぬように言葉を柔らかく使うようにはしているが、他の女房たちはどうしているのだろうかと思った。
犬丸は続ける。
「私は今まで、三人の女房さんに仕えてきました。髪ときや衣装の手入れ、身の回りのこまごまとしたことは何でもできます。役に立ちます。どうか、どうかこのまま部屋に置いていて下さい。」
花房にあてがわれた部屋を注意深く見渡すと、きれいに掃除はされて、しかも整頓はされている。
花房はふうっとため息をついた。犬丸は自分は数えで12歳であるという。親兄弟は代々、烏丸御殿で家司として仕えていたそうであるが、流行り病で両親や兄弟を失い、身寄りがないという。邸を追い出されたら、物乞いをするしかないと切々と訴える。
身分は違えど、花房にしても犬丸と変わりはない。夫も子供もおらず、ましては後ろ盾となってくれる両親はすでにこの世の者ではなかった。
部屋の調度家具もきちんと手入れされているようである。この少女が性悪であれば、こっそり売り飛ばしてもおかしくはないだろう。花房は犬丸を信用することにした。
「私はそんなに物持ちでも、金持ちでもないのよ。手当てを与えることはできないわ。」
犬丸の顔はみるみる喜びの表情となった。
「ありがとうございます。食べ物は、盤所とはつてがありますから何とかなります。ただ、着る物は、お古を下げ渡していただければ、うれしゅうございます。」
追い出されることがないとわかると、はきはき答える。花房は苦笑して、一日中、部屋に控えていて退屈ではないの?と聞くと、首を横に激しく振って、置いていただけるだけでも、助かりますと何度も繰り返すのであった。
八条院の烏丸御殿には、大勢の女房が仕えていて、初お目見えで、御簾ごしに言葉をかけてもらったきり、傍に召されることはなかった。新参者だから、と納得しようとしたけれども、数日もしないうちにこの邸は、あまりにも呑気すぎるということに気が付いた。
仕える女房たちは、和歌を詠み、琴をかなで、香を楽しみ、出入りしている公達としゃれた恋の会話をするでもなく、一日中、仲のよい者同士が固まって、おしゃべりをするか、うたたねをしているのだった。
花房は仕えるところによって、ずいぶん様子が違うものだと思った。
それよりも、邸中、ほこりっぽいのには閉口した。
贅をつくした邸なのにしまりがないのだった。だれが取りまとめるのか定かではなく、誰に言ったらいいのかわからない状態だった。
どこらからか飼い猫がまぎれこんでくることがある。主人が飼っているのではなく、召使いの立場で飼っている。廊下で粗相をして、その臭気がすることもあった。
犬丸は何とか花房に気にいられるように、控部屋をこまみに掃除し、食事時の配膳の世話、手習いをする時は墨をすったり、肩をもんだり、薬湯を運んだりした。犬丸が必要なのは確かだと、掃除のいき届かない邸を眺めつつ、
(あまり深く考えるのはやめよう)
と目をつぶることにした。これには花房の家の事情があった。
八条院への出仕を紹介してくれた中納言の君は
「気楽に勤められますよ。」
と言っていた。初見参の緊張がすぎると、やや退屈になってくる。
中納言の君は花房が以前仕えていた山の宮様のところとかけもちで仕えているので、なかなか顔を合わせる機会がなかった。朋輩ともまだ打ち解けられずにいた花房は、とりあえず宿下がりの日まで辛抱することにした。
犬丸は花房の実家についていきたそうだったけれども、実家には古くから仕えている召使いがいる。使用人同士で悶着を起こすとも限らないので、留守を守るように言った。
犬丸は天涯孤独の身であるので他に頼るところはなかった。早く戻ってきてくださいと、心配そうに何度も花房に言った。
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