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小夜子はそのまま帰ろうかとも思ったが、ふと手元に残ったグラスに気づく。これが紙コップとかなら、祭り会場に用意されたゴミ箱へ捨てていくのだが。さすがにこれは、返却するべきだろう。
そう思って、小夜子はもう一度青年に声をかけた。
「あの、これ、どうしましょうか。」
「……ああ。」
青年は、少し黙った後に、ポツリと言った。
「捨ててください。」
「え?」
「レモンの匂いがつくと、他の用途に使えなくなるんです。」
「はあ……」
よくわからない。しかし、青年が言うなら、そういうものなのだろうか。
小夜子は考えて、彼の指示に従うことにした。
「ガラスのものを回収するところって、ありますか。こういうのって、普通のゴミ箱に捨てるのは、御法度ですよね。」
青年は、しばらく黙ってから「……そうですね。」と頷いた。
そして、あっさりと屋台を置きっぱなしにして歩き出した。
「こちらです。」
「……あ、はい。」
案内してくれるんだ、とようやく気づいた。大事な屋台を離れていいのだろうか。心配にはなるけれど、青年の親切を無碍にするのも中々どうして気が引ける。
トットッ。トットッ。
砂利の道を、ゆっくり歩いてゆく。
屋台から漂うレモンの香りが糸を引くように薄くなって、静かな夜だけが降りてくる。土手の方へ上がって、地面が湿った土となる。
足音を静かに吸収する、天然のクッション。
ゆったりした青年の背中を追いかけて歩いているうちに、周囲がだんだん木々に囲まれてきた。
ブナの木だろうか。それから、松の木。……大きく広げた枝の下に、去年落ちてきて朽ちかけたどんぐりやら、松ぼっくりやらが地面に埋まりながら転がっている。
名も知れない古木や、岩。それらが濡れたように苔むして、水と土と緑の香りがふわりと漂う。腐葉土の中から突き出た巨大な根っこが行く手を塞ぐようなこともあった。
「……あ。」
また、知っている木を見つけた。これは、楓の木。これは星のような形に先が避けた葉っぱからわかる。
チョロチョロと水の流れる音がどこからか響いてくる。
それから……気のせいだろうか。海鳴りのような轟も。
大きな太い根っこを跨ぎこす。黒いマントの青年は、ふと立ち止まった。
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