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七話 復帰
七話 復帰
月曜日の朝。
『それでは今日のお天気の時間です。先週末まで梅雨らしい雨が続いていましたが、昨夜の内にほとんどの雨雲が東側に抜けたため全国各地で晴れ間が広がるでしょう。今週は晴れ間が続く模様で、関東地方や東海地方では例年よりだいぶ早い梅雨明けとなるかもしれません』
天気予報と共に画面左上に表示されている時刻を確認した真は急いで玄関へと向かった。綺麗に並べられた靴が真の出発を待ち侘びているかのようだった。
外に出た真は自転車の準備をしながら空を見た。文句無しの快晴。ここまで見事な青空を最後に見たのは文化祭の頃だろうか。
そんなことを考えながら自転車に跨った真は、道路の彼方此方に残っている水溜まりを避けながら高野台高校を目指してペダルを踏んだ。
「あっ」
それは想定外のタイミングだった。
本日の最優先事項である『野呂美幸は呪いについて知っているのか確認する』を達成するために、何処かのタイミングで美幸と接触する必要があったのだが、偶然にも昇降口でバッタリと顔を合わせた。
「お、おはよう野呂さん」
いきなり本題を振る訳にもいかず、まずは無難な挨拶を交わそうとした真。
しかし、美幸は真の存在に気が付くと目の前に蛇が現れたかのようにバタバタと後退りし、丸くした目と震える口を見せながら言った。
「な、何にも無かったの?」
美幸の視線は信じられないモノを見ているかのように、真の全身を隈なく確認した。
「どういう意味?」
一気に踏み込んだ方が良いのか。それとも様子見した方が良いのか。一瞬で判断することが出来なかった真は後者を選択した。
「いや、”何でもない”んだけど」
ゾワゾワと嫌な痺れが真の身体を疾走した。
真の力が発動したことで、美幸が何らかの事情を隠していることが判明した。
もう少し探りを入れてみようかと思うや否や、美幸は急いで靴を脱ぎ、真を押しのけるようにして下駄箱の前に割り込んでスリッパに履き替えた。
「そっか。うん。じゃあね」
「ま、待ってッ!」
その場を去ろうとした美幸を思わず呼び止めた真だったが、美幸の目は明らかに警戒を示していた。
「き、金曜日の階段の件なら大丈夫だよ。特に怪我したわけじゃないから」
十秒以上の間。その間は明らかに異常だった。
異常な沈黙の後に美幸は呟いた。
「うん。”そのことが心配だった”の。何にも無いなら良かった。それじゃあ」
美幸はそう言うとパタパタとスリッパの音を立てながら、真と同じ自分の教室へと走って行った。
「シュロロロ。女の扱いが下手だなお前は」
何時からそこに居たのだろうか。
下駄箱の上に座り足をプラプラと前後に揺らしながらナルマは言った。
「お、お前ッッッ!?」
真が声を荒げようとするとナルマは口元に人差し指を当てて静かにするよう合図を送った。
「おっとっと。ワシは優しいから先に教えてやるが、ワシの姿が見えているのはワシのことを認識したことがある奴だけだからな。端から見たら虚空に話しかける痛い奴だぞ」
ナルマの指摘にハッとした真は辺りを見回したが、真の異常な行動を気にするような視線は感じられなかった。
「何で此処にいるんだ」
真は周りの人間に白い目で見られないように、出来るだけ声を潜めながら訊いた。
「お前からの報告を聞くよりも直接見聞きした方が早いからな」
ナルマは自分の身長の二倍以上もある下駄箱からスッと飛び降りると、ペチッと可愛い音を立てながら裸足で着地をし、ペタペタと音を立てながら美幸の後を追うように歩き始めた。
「早うせんか」
「わ、分かってるよ」
真はスリッパに履き替えてからナルマの後を追った。
昇降口から正反対の方向にある教室まで向かうのに長い廊下を歩く必要がある。真とナルマは並んで歩いていた。
ナルマの言う通り、途中で何人かとすれ違ったが誰もナルマの存在には気が付かなかった。
「小僧が上手く聞き出すと言うから任せたというのに何だあの体たらくは」
「いやいや、朝一番で聞ける内容じゃないでしょ」
痛い所を突かれた真は頬をヒクヒクと震わせながら言った。
「お前のような男はそうやって目の前にある掴むべき未来をみすみす掴み損ねている現実を受け入れられないのだろうな」
「なんで朝一番で聞き出せなかっただけでそこまで言われなきゃいけないんだよ」
「言われたくないならしっかりせんか」
ナルマはそう言いながらバシッと強めに真の尻を叩いた。
「痛ッッッ」
気が付くと、ナルマの姿は何処かに消えていた。
教室の中に入ると、今朝は一段と騒がしかった。その賑やかさの中心にはあまり見慣れない人物がいた。
「誰だろう」
真は視線で見慣れない人物を追ったが、近寄るようなことはせずに自分の席に向かった。
「おやおやおや。クラスメイトの顔を忘れるだなんていけませんなぁ」
背後から馴染みのある声がした。男の声ではなく、ハキハキとしたよく通る明るい声色。それでいて真に気安く話しかける人物。それらに該当する人物は一人しかいなかった。
「その声は野々宮さん?」
「せいかーいッ!」
真が振り返ると、そこにはクラスメイトの野々宮(ののみや)あすかが立っていた。野々宮は誰にでも気兼ねなく話しかけるクラスのムードメーカーであり、真とは宿題やノートの写し合い、いや真が一方的に見せてあげている関係である。
「初めて見る人、ではないけど、あんまり見覚えが無いんだよなぁ」
野々宮は「見抜君は酷い人ですなぁ」と言いながら真の耳元に顔を近付けると「ホラ、交通事故に遭って入院してた伏見君だよ」と囁いた。
「え? ずっと入院してた人?」
真は伏見の姿をもう一度確認した。服の下がどうなっているのかは分からないが、少なくともパッと見た限りでは今現在も怪我をしているようには見えなかった。
伏見は真の視線に気が付くと、周囲のクラスメイトに何かを確認してから真の方へと歩み寄った。
「えっと、見抜君だっけ? 僕の代わりに文化祭実行委員をやってくれたって聞いたよ。ありがとう」
「え、あ、うん。先生と姫倉さんが僕のことを推薦したのもあってね」
まさか自分が話しかけられると思っていなかった真はぎこちない返事をしてしまう。
「姫倉?」
伏見は露骨に表情を歪めた。
「何を言ってるんだ? 女子の文化祭実行委員は野呂さんだろ?」
真は伏見の放つ強烈なプレッシャーに思わず息を呑んだ。今の会話の何処に伏見を不快にさせる要素があるのだろうか、と真は思考を巡らせた。
「えぇと、姫倉さんと野呂さんが委員会を交換したみたいなんだよね」
伏見の動きが停止する。
自分が二ヶ月入院している間に、自分だけが置き去りにされていることを痛感しているかのようだった。
「じゃあ、野呂さんは何の委員会になったの?」
「保健委員、だったと思うけど」
「うんうん。保健委員だよ」
自信無さそうに僅かに視線を泳がせながら答えた真の代わりに、野々宮は伏見の目を見ながら言った。
「へぇ、そうなんだ。それは、知らなかったな」
「伏見君、怪我は大丈夫なの? 二ヶ月ぐらい入院してたんでしょ?」
野々宮が既に何度も聞かれているであろう質問をしたが、伏見は特に気にする様子もなく答えた。
「怪我は大した事無かったんだけど、検査ばかりで退院させて貰えなくて」
「へぇ、そうなんだ。大変だったね」
「ずっと痛みで苦しい思いをしてたわけじゃないから、同じ部屋に入院してたあの子達と比べたら僕なんて全然大したこと無いよ。せっかくの文化祭に出れなかったことは残念だけど」
「そうだよねぇ。もう少し早く退院出来てればギリギリ間に合ったかもしれないもんね」
真を抜きにして話が膨らみ始めていたので、真はそっと気配を潜め、朝のホームルームが始まるのを待った。
昼休み。
友人の牧野が購買に昼飯の調達に行っている間に、真は校舎の端にある空き教室の一角を確保していた。
大体の生徒が自分の教室か友人の教室、広く清潔な部室を持っている人達は部室で昼食を摂るのが高野台高校のセオリーである。そのため、真のように空き教室に移動する人はあまり多くない。
普段の真なら自分達と同じように空き教室で昼食を摂るのが誰なのかなど気にすることはない。しかし、空き教室の入口に現れた二人を何となく視界で追った時に思わず椅子をガタッと鳴らしてしまった。
空き教室の入口にいたのは野呂美幸と柳沙耶だった。
「野呂さんと、隣にいるのは誰だろう」
真は柳と中学校もクラスも違うため、美幸の隣にいる人物に心当たりが無かった。
女子二人をあまりジロジロ見るわけにもいかず、真は弁当箱の中身を少しずつ食べながら様子を伺うように意識を二人に向けていた。
「別に私の教室で食べれば良かったのに」
「む、無理無理無理無理! いきなり伏見君と同じ教室は緊張しちゃうよ」
「別に一緒に机囲んで食べるわけでもないのに」
「もう! 美幸はそうかもしんないけどさぁ」
柳は笑いながら美幸の肩を叩こうとしたが、触れる寸前で手をピタリと止めた。
「ご、ごめん。癖で」
「良いよ。私は気にしてないから」
何だ今の。別に誰もがやるような戯れ合いだったような。
二人の不自然なやり取りが気になってしまったあまり、つい凝視してしまった真。その視線に美幸が気が付いた。
美幸の様子がおかしいことに気が付いたように柳は言った。
「どうしたの? 美幸」
「いや、えっと、”何でもない”よ」
真の能力が美幸の言葉に発動する。真は勘付かれたことに確信を持った。
「お、ちょっとごめんねごめんね。通りまーす」
真と美幸の間に流れた不穏な空気を打ち破るように、パンとジュースを抱えた牧野が空き教室に入ってきた。
「いやぁ、今日は一段と混んでてさぁ」
牧野は真の正面にある向かい合うように並べられた机の上にパンとジュースを置いた。
「へぇ、そうなんだ」
「まぁ俺ぐらいになると欲しい物はパパッと回収出来るんだけどな。時間がかかるのは会計の方だよ」
牧野がパンの包装を破って食べ始めたため、真もそれに合わせて箸を進めた。
数分後。
美幸に警戒されないように意識を二人に向けるのをやめていた真は、牧野とオンラインゲームの話をしていたのだが、突如として悲鳴のような女子の声が空き教室に響き渡った。
真と牧野が同時に声のした方を見ると、美幸と柳が座っている机の横に伏見が立っていた。
「やぁ、野呂さん。ちょっと教室に居場所が無くてさ。楽しそうに食べてる所悪いんだけど僕も一緒して良い?」
伏見は断られないことを前提にしているのか机と椅子を動かしながら言った。
美幸と柳が戸惑うように顔を見合わせた。
「私は、別に、良いけど。サヤはどう?」
「ッッッ」
柳は言葉にならない声を発しながら口元を押さえて何度も首を上下に振っていた。
「ごめんね。別に一人でも良いんだけど、何か周りからの視線が気になっちゃって」
「ふ、ふふ、伏見君、怪我は大丈夫なの?」
柳の質問に眉をピクリとさせた伏見だったが、声色も表情も明るいままに「大丈夫だよ」と答えていた。
「ケッ、復帰したと思ったら女侍らせてよぉ。良い御身分だぜ全く」
牧野がギリギリ真に聞こえるぐらいの声量で言った。
「いや、入学早々入院してたんだから同じ中学の人の所に行くのは普通でしょ」
「そうだとしてもさ。いきなり女子の所に行くか?」
牧野は気に食わないとでも言いたげに乱暴にコッペパンに齧り付いた。中身は苺ジャムなのだろうか。赤いソースが口元に付いていた。
「同じクラスに顔見知りがいたら行くんじゃないの?」
チッチッチッ、と人差し指を左右に振ってから牧野は言った。
「違うクラスでも俺なら行くけどね。何故なら、女の子と飯が食いてぇから」
「あっ、はい」
だったら何故突っかかったんだ、というツッコミが欲しかったであろう牧野を真は完全にスルーした。
「何だよその反応は」
「ごめん。くだらなすぎて」
「俺がお前と飯食ってるのは、お前との友情はそれ以上だからなんだぜ? もっと感謝してくれよ」
「わあい、うれしいなあ」
「棒読みすぎだろ」
「お前の相手するコッチの身にもなってくれ」
「最高じゃん」
「やかましいわ」
その後も牧野とくだらないやり取りをしていた真は、近くにいるのにも関わらず何の成果を得られないまま放課後を迎えたことに若干の後悔をした。
放課後を知らせるチャイムが学校中に響き渡った。
部活動に所属する者は部室へ、残って勉強する者は勉強道具を机に広げ、帰る者は荷物を纏めて教室を後にし始めていた。
移動するクラスメイトを眺めていた真は覚悟を決めるように深呼吸をすると、美幸の席へと近付いた。
「の、野呂さん。今良い?」
真の声にビクッと身体を震わせた美幸は警戒心剥き出しの目で真を見た。
「な、何?」
「出来れば二人で話がしたいんだけど」
この言い方だと告白だと受け取られないか?
言ってから気が付いた真は慌てて「いや、えっと、真面目な話なんだけど」と付け加えた。
「二人じゃないと駄目なの?」
「いや、駄目、ではないけど」
二人きりで話すことを拒否される事自体は可能性として十分にあり得た話なのだが、実際に断られることを想定していなかった真は返事に戸惑いが生じた。
「手短に概要を言って」
どう説明すれば良いのだろうか。呪いという単語を出して良いのだろうか。
いや、直接的な表現は避けたほうが良いかもしれない。信じたくはないが、目の前にいるクラスメイトが元凶だった時のことを考えれば、多少遠回しに言う方が良いだろう。
神を名乗る存在と専門家の二人の言葉と嘘を見抜く力がある自分が一歩リードしている状況を最大限利用すべきだ。
真は喉から音を発するギリギリまで思考を巡らせ、考えられる限りの最も無難な表現を口にした。
「何て言えばいいのかな。不思議な力に悩まされたりしてない?」
「えッ?」
美幸は目を見開いて真を凝視した。その目は警戒心も含んでいたが、それ以上に何かを期待する眼差しでもあった。
「不思議な力をどうにか出来るかもしれない人が知り合いにいるんだけど、もしも困っているのなら力になれるかもしれないと思って」
「不思議な、力」
美幸が息を呑む音が真の耳にも届いた。美幸は何かを考え込むように俯いて口を噤んだ。
「心当たりとかある?」
美幸の瞼がピクリと動いた。
「無いなら良いんだけど、もしもあったら相談してほしいな。力になれるかもしれないから」
美幸の目に光が差した。その目は助けを乞う目のように真には見えた。
美幸の変化に気が付き、続きの言葉を言おうとした真の身体は突如強い力で後ろに引っ張られ、理由も分からぬ間に左の頬に強い衝撃が疾走った。
体勢を崩した真は机にぶつかりながらガタガタと大きな音を立てて倒れ込んだ。
まだ教室に残っていたクラスメイトが音のした方向に目を向けたが、まさか人が倒れたとは思っていなかったため視線が下に向くことはなく、何があったのか気付かれなかった。
「野呂さんに何を吹き込んでんだお前は」
真の頬を殴ったのは伏見健人だった。
「痛ッ」
全身に痛みが疾走る。痛みそのものは階段で美幸を受け止めた時の方が強かったが、姫倉から事前に聞いていた階段の時と違い、完全なる不意打ちだったために精神的なダメージも大きかった。
立ち上がろうとした真の胸ぐらを掴んだ伏見は腕力だけで真の身体を持ち上げた。病み上がりとは思えない機械のような剛力。真はつま先が辛うじて床に届くぐらいの高さに持ち上げられていた。
「入院してる時もいたんだよ。お前みたいに『助けてやるから信じてみませんか』みたいなことを抜かしながら話しかけてくる馬鹿共が。馬鹿共のせいでどれほどの人間が苦しんでるのか分かってんのか? お前もそうなんだろ? ああッ!?」
言葉の節々に伏見の怒りが滲んでいた。怒号に威圧されながらも、真は誤解を解こうとジェスチャーをしながら答えようとした。
「ち、違っ」
伏見は真の言葉を待たずに、大きく振りかぶってから右手で真の左頬を殴った。
綺麗に拳が入った。強烈な痛みと共に視界がグワングワンと揺れている。
これが暴力か。
殴られているのは自分であるにも関わらず、真はどこか他人事のように思っていた。
「ふ、伏見君!」
制止を呼びかけた美幸だったが、あまりにも変貌してしまった伏見の拳が、何をキッカケに自分に向くか分からないという恐怖からそれ以上どうすることも出来なかった。
「陰陽師だか詐欺師だか陰謀論者だか知らねぇけどな。お前もおかっぱ頭の仲間なんだろッ!? 野呂さんを巻き込むなッ!!」
伏見がもう一度真を殴ろうと拳を振り上げたその時、真の目の前に誰かが庇うように割り込んだ。その誰かは長く綺麗な髪をなびかせながら言った。
「何をしているの? 入院生活の次は謹慎生活を送るつもり?」
割り込んだ人物は真の胸ぐらを掴んでいる腕に華麗なチョップを決めて無理やり剥がすと、今度は伏見の胸を突き飛ばした。虚を突かれた伏見は大きく仰け反った。
「ひ、姫倉さん」
姫倉は一瞬だけ振り返り真の無事を確認するとすぐに伏見の方に向き直った。
「誰だお前は。関係無い奴は引っ込んでろ」
「嫌。それとも私のことも殴って言う事聞かせようって魂胆? 殴りたいなら殴れば? アンタが暴力で物事を解決する人間だって野呂さんに見せつけてやれば?」
臆することなくズケズケと言い放つのを見た真は内心ヒヤヒヤしていたが、当の姫倉は腕を組んでふんぞり返っていた。
「チッ」
伏見は聞こえるように舌打ちをした後に「悪かった」と呟いた。
「私に謝らないでよ。アンタが謝るべきなのは見抜君にでしょ」
伏見はもう一度舌打ちをした後に真の目を見ながら「悪かった」と謝ると、真の返事を待たずに机や椅子にわざとぶつかりながら教室を後にした。
「ま、待ってよ伏見君」
伏見を追うように美幸も教室を出ていった。
野次馬が集まる前に事態は収束を迎え、真のいた辺りの机が乱れていること以外はいつもの日常に戻っていた。
「ご、ごめん。姫倉さん」
助かったという安堵と女子に助けられたという不甲斐無さから姫倉の目を見ることが出来なかった真は、目を逸らしながら言った。その言葉に姫倉は溜め息をついた。
「助けてもらった時は『ごめん』じゃなくて『ありがとう』でしょ? あと目を見て言うべき」
姫倉は真をジッと見ていた。訂正しろ、ということらしい。
「ッ!? あ、ありがとう」
照れと申し訳無さから段々小さくなる声で言ったものの、一応は納得してくれたようだった。
「口の中は切ってない?」
真は今もヒリヒリと痛む左頬の内側を舐めてみたが、意識して口内の味を確認したことが無かったため、薄っすらと鉄っぽい味がするのが正常なのか異常なのかを判断出来なかった。
「だ、大丈夫。多分」
姫倉は自信無さそうに答えた真に冷めた視線を送った。
「ふぅん。なら良いけど」
「な、なんか格好悪いところ見せちゃったな」
「格好悪いも何も、弱そうな見抜君が腕っぷしで勝てるわけないでしょ」
即答だった。あまりにも早かった姫倉の無慈悲な返しに、真は空笑いをした。
「あは、あはは。そう、かもね」
「別に良いんじゃないの? 見抜君の強さは腕っぷしじゃないでしょ」
「え?」
どういう意味なのか聞こうと口を開いた真に対して、姫倉が「聞かないで」と牽制した。姫倉の顔は僅かに赤くなっているように見えたが、姫倉がプイッと顔を背けてしまったために真相を確かめることは出来なかった。
「私、教室に忘れ物取りに来ただけで、この後部活があるからあんまり時間ないの。そろそろ行くね」
「え、あ、うん。姫倉さん、テニス部入ったんだね」
姫倉さとりは元々部活に所属していなかった。中学時代と同じようにテニス部に入りたかったと言っていたが、入学式の後に経験した自分が殺される未来のせいで部活に入っていなかったのだ。
何があったかの詳細は此処では伏せるが、無事に死の運命から脱出することに成功した姫倉は、文化祭終了後に二ヶ月遅れでテニス部に入っていたようだ。
テニス部に入ったことは姫倉本人から聞いたわけではない。ただ、登下校の際にラケットの入ったケースを持ち歩くようになった事から真が勝手に想像していたことだ。
姫倉は数秒黙ってから「見抜君のおかげでね」と、意味ありげに答えた。
姫倉は自分の席に行き、手帳を回収すると「それじゃあ」と真に別れの挨拶をして去っていった。
真は散らかった机の整頓をしてから教室を後にした。
部活に所属している者は活動を始め、所属していない者は校舎から出ている頃。真は一人で昇降口までの長い廊下を歩いていた。上の階から聞こえる吹奏楽の音色に耳を傾けていると、来ることが容易に想像出来たナルマがやってきた。
「シュロロロ。女に守られるだなんてみっともないのぉ」
何処からともなく現れたナルマは頭の後ろで腕を組みながら真の横に並んだ。
「うるさいなぁ」
「まぁ、多少の収穫があったからヨシとするか」
「収穫っていうのは野呂さんは元凶では無さそうって話?」
ナルマは不満そうに口を尖らせて言った。
「それは前から想像がついていただろ。ワシが言いたいのはあの背の高い男のことだ」
「伏見君のこと?」
「名は知らん。お前を殴ったヤツのことだ」
ユウ姉のことも自分のことも草薙の娘だの小僧だの呼ぶナルマは、果南以外の名前を覚える気が無いのではないかと想像した。
「その人が伏見って人だよ。それで、収穫っていうのは?」
「アヤツは面白いぞ。シュロロロ」
ナルマは一人で妙な音を立てながら笑った。
「何が面白いの?」
「呪いとは関係無い。いや、関係はあるかもしれんが、お前の御守りを破壊した呪いとは別の話だ」
ナルマが何を言っているのか真はいまいちピンと来なかった。
「まぁ良い。重要なのは乳女の話だ」
「ち、乳女ってのは野呂さんのことだよね?」
念の為、確認の意味を込めて口にしたものの、ナルマは無視して話を続けた。
「小僧の下手な探りのおかげで、乳女は誰かに呪いを掛けられていることが確定したな。自分に伝染型の呪いを掛けたという可能性は限りなく零だろう」
「ということは、野呂さんの呪いを祓えば解決ってことだよね」
ナルマはピクリと眉を動かした。
「お前の言う『呪いを祓う』っていうのがどういう意味か知らんが、ワシは草薙の娘と違って呪詛返しをすべきだと考えている」
呪詛返し。
この前ユウ姉が怒っていたやつだ。確か、呪詛返しをしたら誰かが死ぬとか何とか言っていたような。
あの時はユウ姉が怒っていたから聞けなかったけど、もしかしたらナルマなら教えてくれるかもしれない。そう思った真は「えぇっと」と話を切りだした。
「前にユウ姉が怒ってたけどさ。何で『呪詛返し』っていうのをするの? 普通に祓えば良いだけ何じゃないの?」
ナルマは真の言葉を最後まで聞いてから、何も知らぬ子供に物事を教える親のように優しく言った。
「良いか、小僧。呪詛返しも呪いを祓う方法の一つだ」
「でもユウ姉は呪詛返しをしたら誰かが死ぬとか何とか言ってたよ」
「まぁ、死ぬだろうな。呪詛は返すと強くなるからな」
「死なせないために呪いを祓うんじゃないの?」
ナルマはどこから説明したものか、としばらく考え込んでから話を続けた。
「呪いというのはだな。突き詰めていくと『誰かを◯◯する』という力のことだ。そこに色々な条件や効力を付与していくのだが、簡単に言えば『誰かを◯◯する』というモノだ。そこまでは理解出来るか?」
「まぁ、何となく。『アイツを殺す』だとか『アイツを不幸にする』だとかそういうことでしょ?」
「そうだ。これが呪いの原則だ。重要なのは『誰かを』というのは最初に決めた人物から変えることは出来ない。そして『◯◯する』も後から変えることが出来ない。例えるならば猟銃のようなモノだな。引き金を引いてから標的を変えることは出来ないし、撃って傷付けてから無かったことにすることも出来ない。分かるだろう?」
「じゃあ何で僕は助かったの?」
「小僧が草薙の娘に貰った身代わり小指という御守りはその辺に売っている御守りとは格が違う代物だ。呪いに伝染しそうになった小僧の代わりに身代わり小指が名前の通りに身代わりになったわけだ。ややこしい話になるが、身代わりというのは呪いの対象が変わったわけではなく、その呪いを一身に引き受けるモノだから成立する」
「ふぅん。まぁ、良くは分からないけどとりあえずそういうものってことなんだね」
ナルマは「小僧が本気で知りたいというのならまた別の機会に教えてやろう」と言ってから続きを話した。
「つまり、今の状況に照らし合わせるとだな。誰かが『乳女に伝染型の呪いを付与する』という呪いをかけたわけだ。呪いを掛けた人物が誰なのかまではワシにも分からんし、この時代に何処で呪いを学んだのかも知らん。とにかく、誰かが呪いを掛けたのは確かだ」
真は言葉を挟まずに頷きながらナルマの説明を聞いていた。
「ここでもう一つ呪いの原則がある。呪いは途中で相手を変えられないが、呪いを『返す』ことは出来る」
「それが呪詛返し?」
「その通り。そして、呪詛返しが呪いの祓い方として素晴らしい点が二点ある。一つは知識があれば誰にでも出来ること。もう一つは呪詛返しを『返す』ことが出来ない。この二点だな」
「知識があれば出来るってのは分かるけど、『呪詛返しを返すことが出来ない』のが素晴らしいってどういうこと?」
「分からんか? 呪いを返すことに成功した場合、呪いを掛けた奴は返された呪いから身を護る術は存在しない。これについては呪詛師だろうが陰陽師だろうが神だろうが一緒だ。つまり、呪詛返しが成功すれば呪いを掛けた奴は酷い目に遭うが、乳女と小僧達は助かるというわけだ。『誰かを傷付けようとする時、自分も痛い目に遭うかもしれないぞ』ということを『人を呪わば穴二つ』と言うだろう? これは元々は呪詛返しのことを伝える言葉だったのだ」
「で、でもさ、呪詛返しにしろ何にしろ、呪いそのものを消せば良いんじゃないの?」
「簡単に言ってくれるわ」とナルマは笑った。
「小僧が言うように呪いを根本的に消すような祓い方が出来るのは祓戸大神(はらえどのおおかみ)と歴史に名を残すような超凄腕の陰陽師ぐらいだぞ。ワシにだって出来やしない。呪う事は出来ても祓うのはワシの専門分野じゃないからな。当然のことながら草薙の娘にだって出来やしないし、源の若造にだって出来やしない」
ユウ姉にも出来ない? じゃあユウ姉はどうしようとしてたんだろう。
真が考え込んでいると、ナルマは一区切り付けようとしたのかコホンと咳払いをした。
「ここまでの話を纏めると、呪いは一度放ったら相手を変えられない。呪いに対抗するには呪詛返しをするか、呪いを消せる奴に助けを求めるしか無い。ここまでは良いか?」
「う、うん」
「あぁ、それと言い忘れていたことがもう一つ。呪詛返しは誰が呪いを掛けたか分からなくても出来る」
「返す相手が分からなくても良いの?」
「あぁ。昔は『呪詛帰し』と呼ばれていたぐらいだからな。呪いに対して発生源に帰れと術を掛けることで、呪いを掛けた奴の元へ向かっていく。そういうものだ」
「じゃあ、やろうと思えば野呂さんに掛かっている呪いをすぐに祓う事が出来るってこと?」
「そういうことになる。草薙の娘が何て言うかは知らんけどな」
真はナルマのことを随分と生意気な奴だと思っていたが、彼もしくは彼女は以外にも面倒見が良いのではないかと思い始めていた。
「まぁ、もう一つ呪いを終わらせる方法があるのだが、あんまり参考にならんな」
「ここまで来たら教えて欲しいんだけど」
ナルマは鼻から息をフンと出してから言った。
「呪いを完了させる。つまり、掛けられた呪いが『死ね』だったら死ぬ。『百人に呪いを伝染せ』だったら百人に呪いを伝染す。そうすれば終わる。呪いは『誰かを◯◯する』のが原則だ。つまり『◯◯する』を達成すると消滅する」
「今回の場合だと、どうすれば達成するの?」
「さぁ? 乳女に掛けられた呪いの条件までは分からん。呪いを掛けた奴を問い詰めるか、ワシがあの乳女を喰えば分かるだろうがな」
「く、喰う!?」
「御守り越しだと分からんかったが、呪いを掛けられた本人を喰えば、呪いの具体的な所まで分かるはずだ」
「髪の毛一本とかでも分かるの?」
「それじゃあ分からん。最低でも腕か足を一本喰らわねば」
ナルマは「それも悪くはないが」とチロチロと舌を出しながら言った。
「そんなの駄目に決まってるだろ」
真が語気を強めて言うと「分かっておる」とナルマは答えた。
「何か混ぜ物があるとはいえ、伝染型の呪いという所までは分かっているから乳女を喰う必要は無い。まぁその混ぜ物が厄介なことは確かだが」
「何にも出来ないってこと?」
「いや、そういうわけではない。ただ、気になるというだけだ。伝染型の呪いというのは、恨んだ相手の大切な者を傷付けることが目的で掛けることが普通だ。だから、大切な相手を傷付ければ終わるはずなのだが、小僧は乳女にとって何でも無いはずなのに呪いが伝染している。そこが妙なんだよな」
ナルマは口をへの字に結んで唸った。
「無差別に呪いが伝染しているってこと?」
「まぁ、そういうことだ」
そう言いかけたナルマは何かに気が付いたように黄色い目をカッと開き「そういうことか」と呟いた。
「小僧、乳女に最初に何と言われたか覚えているか?」
「最初?」
真は頭の中の記憶の引き出しを開けた。朝の出来事なのだからすぐに見つかるはずだった。
確か昇降口でバッタリと出くわして、朝の挨拶をしたら。
「『何にも無かったの?』だけど」
「つまり、朝の時点で。というよりも、階段の時点で乳女は小僧に呪いが伝染したことを理解していたことになる」
「あッ」
だから嘘を付いていたんだ。こんな簡単なことに気が付かなかっただなんて。朝の時点でかなり踏み込んだ所まで分かったはずなのに、と真は後悔した。
「そして決め手がある。昼食の時間だ」
真は再び記憶の引き出しを開けた。ナルマがここまで言うのだから何かあったはずだ。
ガチャガチャと関係無さそうな記憶の山の中から、違和感のあるピースを拾い上げた。
「野呂さんの友達が触ろうとしたけど、不自然に止めてたような」
昼食の時間。伏見が空き教室に訪れる前。戯れ合いの中で友人が急に触るのを止めようとしていた場面を思い出して言った。
「あぁ。呪いのことまで伝えているのかは知らんが、仲の良い奴には触れないようにと言っているのだろう」
「触らなければ呪いは伝染しないってこと?」
「言い方を変えれば、触れば伝染するということだ。友人に触れないように注意をしているのだから、乳女に掛けられた伝染型の呪いは、小僧の言う通り触れた奴を無差別に呪うようだな」
恐怖から思わず口が震える真に対して、ナルマはニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「なぁ小僧。一つ気にならんか?」
「無差別に伝染する呪いは危険だなって話?」
「違う。乳女は呪いを掛けられた人間だ。現世の凡人である乳女が、何故自分の呪いが触れることで伝染すると理解していると思う?」
「何故って、そんなの」
何故なのかだって? そんなの簡単じゃないか。
真の喉がヒュッと鳴った。誰もが簡単に思い付く、最悪の可能性が脳裏に浮かんだからだ。
「乳女は小僧以外にも呪いを伝染させた経験がある。それも一人じゃない。何人もな。そこから気が付いたのだろう。自分に掛けられた呪いの規則を」
「そ、そんなことって」
信じられない、というよりも信じたくない。だが、そうとしか説明のしようがない。
今まで何人にも呪いを伝染させた?
最初は分からなくても、そのうちきっと自分が原因だと気が付いたのだろう。その時に自分の力の恐ろしさが身に沁みたはずだ。それなのに普通に生活をしている。
それは一体どういう気持ちになるのだろうか。
真には想像もつかなかった。
「つい最近呪いを掛けられたのだとばかり思っていたが、何人にも呪いを伝染させていたとなるとかなりの期間かもしれん。あまり悠長にしていられないな。呪いを身に宿し続けていると人格を乗っ取られるぞ」
「え!? そんなことあるの?」
「ある。普通は呪いで死ぬか、呪いが完了するか、呪いを祓うかのどれかだ。だが、呪いをいつまでもその身に宿していると精神が壊れて、呪いに奪われる。今は被害を少なくしようと誰にも触れさせないようにしていても、人格を乗っ取られたら何をしでかすか分からんぞ。現代の呪詛師とは思えない妙な呪いなのだから」
寒気がするような話だというのに、真の額から玉のような汗が次々と溢れ始めた。
紫色の空。
赤い海。
あぁ、また此処にいるのか。
眠っている時だけ見ていた夢は、いつしか起きていても見るようになった。
目が覚めて現実に戻るまでの間、私は無数の手から逃げなければならない。
今までは何とかなっているが、この先もどうにかなるのかなど知る由もない。
海が斜めに傾いている。
いや、世界が斜めに傾いている。
美幸は傾いた海を泳いで上る。
浮かんでいる赤黒い悪臭を放つ肉塊や長い髪の毛を掻き分けながら、口や目にナニかが入っても懸命に泳ぐ。
海の傾きはどんどん傾斜を上げている。
美幸は滝のように垂直になっている海を泳いでいた。
世界はそれでもなお傾き続け、やがて海は上に在り、空は下に在る。
遥か下方の紫色の空から無数の手が伸びている。
もう、赤い海に潜ることでしか上ることは出来ない。
意を決した美幸は大きく息を吸い込むと、目を瞑って海に潜った。
そんな美幸を拒絶するように、もう一人の美幸が海中から美幸を空へ放り出した。
「あッ」
美幸は無数の手が待っている空に落ち始めた。
嫌だッ!! 誰か助けてッッッ!!
その時、光る糸のようなモノが目の前に見えた。
美幸はそれが何なのかを考える前に両手でしっかりと掴んだ。すると、落下していた身体が宙でピタリと止まり、原理は分からないが宙に立つ事が出来た。
「な、何これ」
光る糸の力なのだろうか。まるでガラスの床に立っているかのように、何も無い空間に美幸は立っていた。
頭上の海にいるもう一人の自分が何か叫んでいる。
足元の空の無数の手はコッチにおいでと手招いている。
美幸が辺りを見回すと、遥か後方に赤い海でも紫色の空でも無い、青く輝く何かが見えた。
美幸は糸を掴みながら、何も無い宙を青く輝く何かに走った。
ハァハァハァ。
現実ではないのに息が切れ、肺が痛み、足も痛い。
だが、無数の手が下と後ろからどんどん迫って来ており、頭上ではもう一人の自分が叫びながら追いかけるように海を泳いでいる。
追いつかれてはいけない。絶対に。
美幸は無我夢中で走った。
あともう少しで青く輝く何かに辿り着くというところで、美幸は無数の手に掴まった。
「嫌ッ!! 離してッ!!」
無数の手によって握りしめていた光る糸を奪われた美幸は、紫色の空へ落ちていった。
美幸は目を瞑った。
目を開けた時、現実に帰っていなければ私は終わる。
根拠はないが、そう確信させるナニかがあった。
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