一話 祈祷

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一話 祈祷

 一話 祈祷  時は半年程遡る。  一月一日、元旦。  年始にテレビを付ければ必ず聴くことになる、琴と尺八で演奏される『春の海』に早くも嫌気がさしていた野呂美幸(のろ みゆき)は、朝食と両親への新年の挨拶を済ませた後は自室に籠もって受験勉強をしていた。  美幸は中学三年生。  二月六日に控えた私立高校の受験に向けて最後の追い込みをしている時期だった。 「またこの問題間違えてる」  毎回別紙に解答を書き込むことで、何度でも本番さながらの状態で取り組めるようになっている予想問題集は、ページの端が折れていたり開いた癖がついている。  それは美幸がこの一年しっかりと取り組んできた証でもある。  復習の意味も込めて正答と解説を書き出していると、背中を向けている自室のドアがノックされた。 「美幸、朝も言ったが初詣に行くからな」  ノックの主は父親だった。美幸は振り向かず、解説を写しながら少し面倒くさそうに応えた。 「はーい」 「寒いからちゃんと着るもの着るんだぞ」 「分かってるって」  親という生き物はいつまで幼稚園児を相手にしているかのように、アレやコレやと言うのだろうか。  自分は絶対にそんな大人にはなりたくないな、と思いながら、美幸は問題集に栞を挟んでからクローゼットの前へと向かった。  今年の冬は一段と寒く、玄関の扉を開けただけで帰りたくなる程の冷え込みだった。  マスクから漏れた息が白く辺りを漂うのを見た美幸は急いで車の後部座席に乗り込み、シートベルトを締めると軽く背もたれを倒した。  少し遅れてから父が運転席に座り、母が助手席に座った。  全員がシートベルトを締めていることを確認してから父はエンジンをかけた。  冷えた車内に暖房の風が広がった。後ろの席に座った美幸が暖房の有り難みを感じるのは少し先のことになりそうだった。  冷え込みは厳しかったがフロントガラスは凍っていなかったため、父はすぐに車を発進させた。   「あれ? 何でココで曲がるの?」  いつも初詣に訪れていた神社に行くルートは一つしかなく、その道とは反対方向に進んだことに美幸は疑問を呈した。 「ん? あぁ、ホラ、言ったろ? 父さんの知人が紹介してくれたんだよ」 「紹介って何を?」  娘の反応に父は苦笑いをした。 「さては、朝の父さんの話聞いてなかっただろ。美幸の合格祝いの祈祷を受けようって言ったろ」 「そうだっけ?」 「そうだよ」  祈祷って正月でもやってくれるのだろうか、と思い浮かんだ娘の疑問を感じ取ったのか、父は話を続けた。 「大体の神社は三が日に祈祷は受け付けてないそうなんだが、蛇ノ目(へびのめ)神社は三が日でも祈祷を受け付けているみたいでな。試しに連絡してみたらそのまま予約が取れたんだよ。お前も初詣と祈祷で二回神社に行くよりも一度で済ませられた方が良いだろ?」 「一度で済むならそっちの方が良いよ」  父と娘の会話に母はしかめっ面を見せた。 「ちょっと。そんな神社に行くのが面倒みたいなこと言わないの。罰当たりでしょ」 「そんなつもりじゃないってば」  母の小言が始まったと思った美幸は、ポーチからワイヤレスイヤホンを取り出すと、残りの目的地に着くまでの時間は大好きなアイドルグループの音楽を楽しむことにした。  娘が話を聞く気が無いことに気が付いた母は「誰に似たのやら」と運転する父の顔をチラリと見ながら呟いた。父は母の視線に気が付いていたが、気が付いていないフリをしながら「久しぶりにこの道通るなぁ」と独り言を言った。  静岡県鳴間市北部の山間部。市街地北部から車で一時間弱の所に蛇ノ目神社はある。  蛇ノ目神社には鳴萬我駄羅(ナルマンガダラ)と呼ばれる白い大蛇が祀られているのだが、美幸は『蛇の神様がいる』ぐらいの認識だった。  美幸が祖母の家に行く度に、祖母は色々な伝承を教えてくれたのだが、あまり興味のなかった美幸の頭には残らなかったからだ。  凸凹とした道で何度も車体を揺らしながら、一時間程の時間をかけて三人は蛇ノ目神社の駐車場に到着した。  車のドアを開けると、思わず身を震わせてしまう冷たい風が美幸に吹き付けた。 「寒ッ」 「風邪引かないようにしなさいよ」 「分かってるって」  母の小言に空返事をしながら美幸は車を降りた。  どこかでこの駐車場を見たことがあるような、と美幸は思った。 「何となく見覚えがあるんだけど、此処って前に来たことあったっけ?」  娘の疑問に対して、父は少しばかり剃り残しのある顎を擦りながら言った。 「美幸が産まれる前に母さんと来たことはあるけど、産まれてからも来たかなぁ。母さん、覚えてる?」 「来てないんじゃない? 私抜きで来てるなら知らないけど」  少しだけ棘のある言い方をする母に父は間の抜けた愛想笑いを浮かべた。  境内へ向かう階段を登り、眼の前に拝殿が見えた時に美幸の脳内に閃光が走った。  BREAKERS(ブレイカーズ)の動画で見たんだ!  BREAKERSとは、男女五人でグルメ、観光、美容、ゲーム、オカルトといったあらゆるジャンルを経験しながら紹介する動画投稿グループのことである。  ビジュアル面に重点を置いていることと『つまらねぇ日常をぶっ壊せ』という合言葉が若い女性にヒットし、特に中高生女子から熱い支持を受けている。  美幸は親友のサヤの影響で動画を見始めるようになり、特別誰かを推しているわけではなくとも、最新動画をチェックするようにはなっていた。  そのBREAKERSが夏頃に出した動画『パワースポット巡りin静岡part2』にて出ていたのが蛇ノ目神社だったのである。 「わぁ、此処だったんだ」  動画で見た景色と同じ光景が目の前に広がっていることに少しばかり感動した美幸は境内をグルリと見回した。 「おや、野呂さんですか?」  知らない声が突然聞こえたことに美幸は身体をビクッと震わせ、声のした方に顔を向けると、そこには箒を持った一人の老人が立っていた。  老人の姿に気が付いた父は、ペコペコと何度か頭を小さく下げながら歩み出た。 「あ、どうも。電話で祈祷のお願いをした野呂です」 「あぁ、そうでしたか。初めまして。私は神主の蛇ノ目と言います。本日はよろしくお願いします」  凄い名前だな、と三人は思ったが、口にすることはなかった。 「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします」 「少しだけ準備がありますのでもうしばらくお待ち下さい。良かったらお詣りもどうぞ」 「そうさせてもらいます。ホラ、美幸、母さん。先にお詣りしておこうか」  父に促され、拝殿の賽銭箱の前まで来た三人。父の財布から小銭を受け取った美幸が賽銭箱に小銭を入れようとした時に、父がポツリと呟いた。 「あれ? どういう順番で何をすれば良いんだっけ」  いつもなら迷う事は無いのだが、神主が側にいるという状況に無意識に緊張していた父親は順番を忘れ、その様子を見た二人も自分の思い描いていた所作に自信を無くしてしまった。  その場を去ろうとしていた神主がゆっくりと優しい口調で言った。 「一般的に言われているのは、最初に御賽銭を賽銭箱に入れます。次に鐘を鳴らします。そして二礼、二拍手、一礼ですね。ただ、これは私個人の考えですが、何をどうするかよりも、気持ちを込めてお詣りすることの方が大事だと思うのです。所作の順番や意味を考えることも大切ですが、順番が合っていれば良いというモノでもありません。気持ちの込もったお詣りをされていれば、たとえ何かが間違っていようとも神様は温かく受け入れてくれますよ」 「あ、ありがとうございます」  父のお礼の言葉に続いて二人も感謝の言葉を口にした。  神主はニコリと微笑むと箒を持って拝殿の裏手の方に向かっていった。  お詣りを済ませ、神主が戻ってくるのを拝殿の前で待っていると、神主が申し訳無さそうに頭を下げながら三人の元へ小走りで向かって来た。 「こんな寒い所でお待たせしてすみません。さぁさぁ、コチラへどうぞ」  神主に案内されるがまま、三人は拝殿の裏手へと回った。  左側に拝殿、右側に本殿、正面には洞窟のようなモノがあった。その洞窟の入口は、大きな錠が二つ付いている金属製の観音開きの扉で閉じられていた。  その洞窟は神聖さと言うよりも、得体のしれない不気味な雰囲気を漂わせていた。 「足元に段差がありますのでお気を付けて」  入口に段差があることを指さしながら説明した神主は、昼間にも関わらず真っ暗な洞窟の中へと足を踏み入れた。  神主に続いて父も洞窟の中へと進んだが、美幸は足がすくんで立ち止まってしまった。 「ちょっと、ホラ、前行って」  母から背中を押された美幸は入口の段差で危うく転びそうになりながら洞窟の中へと入った。  土のニオイ、それと苔のニオイだろうか。湿っぽいニオイに少しだけ顔をしかめた美幸は、立ち止まっていた父の背中にぶつかった。 「あたッッッ」 「おっと。前見ておけよ、美幸」 「う、うん」  神主が入口近くの壁をナニかを探すように手でなぞり始め、目当てのモノを見つけたのかカチッと指で押した。  カチッという音がしてから数秒後。  ジジジジと音を立てながら、等間隔で土の壁に裸のまま設置された電球が橙色の光を放った。  洞窟は美幸が想像していたよりも奥まで続いており、その長さは学校の廊下を彷彿とさせた。  剥き出しのケーブル、稀に消えたり点いたりを繰り返す裸電球、所々生えている苔、洞窟の奥から伝わる湿気と生温い風。そのどれもが不快感を煽った。 「壁際の苔を踏むと滑りやすいので、横に並ばずに縦に並んで、出来るだけ真ん中を歩くようにお願いします。」  神主は一度振り向いて説明をすると、再び前を向いて歩き始めた。  祈祷を頼んだのであって、洞窟巡りなんか頼んでいない、と美幸は心の中で悪態をついたが、黙って後に続いた。  通路を進む間、何度か別れ道があったがそのどれもが鉄格子で封じられており、関係者であっても通れないようになっていた。 「すみません。何でこっちの通路は鉄格子で塞いでいるのですか?」  父が神主に尋ねると、神主は言った。 「昔はこの通路は色々な場所に繋がっていたらしいです」 「らしい?」 「私は十年程前に神主になったのですが、先代は鉄格子の向こう側については口を閉ざしていたものですから。本殿と繋がっていることは私も知っているのですがね」  神主は少し寂しそうに言った。 「そうなんですか。てっきり秘密の部屋に繋がっているのかと」  父が笑いながら言うと、最後尾を歩いていた母は父の背中を睨んだ。 「ちょっとお父さんッ! すみません。ウチのバカ亭主が失礼なことを」 「ハッハッハ。大丈夫ですよ。私も先代が口を閉ざしていたものですから、そんなことを考えたこともありますよ。それに、私も歳を取りました。もしも鉄格子が無かったら、どっちに行けば良いか分からなくなってしまいます」 「そんな。まだまだ若いですよ」  両親と神主の話を聞きながら、美幸は鉄格子の奥を睨んだ。  何処に繋がっているのだろう。  鉄格子の奥に電球は設置されていないため、鉄格子から数メートル先は殆ど何も見えなかった。  深い深い地下の闇の中をジッと睨んでいると、身体が鉄格子の向こう側に吸い込まれそうな感覚に襲われ、慌てて目を逸らした。  目を逸らす最中、視界が素早く動く最中に、美幸は鉄格子の向こう側に誰かがいるのが見えた気がした。  慌ててもう一度鉄格子の奥を睨んだが、そこには誰もいなかった。 「そろそろ外に出ますよ。眩しいかもしれませんのでご注意を」  先頭を歩く神主の身体の端から光が挿し込んでいるのを目だけではなく肌でも実感した。それと同時に、湿っぽい生温いを吹き飛ばす冷たい風が光の向こうから吹いていた。  洞窟の出口には鉄格子の扉があり、その扉は内側と外側両方に錠が掛けられていた。神主は内側の錠を外した後に、格子の隙間から腕を伸ばして外側の錠も外した。  扉をくぐると、左右と上は岩で囲まれており、唯一開けた正面には所々傷んでいる桟橋があり、桟橋のすぐ脇には昔話に出てくるような木製の船一艘がロープで繋がれて水の上に浮かんでいた。 「ここからは船で移動になります」 「船ッ!?」 「はい。蛇ノ目神社の祈祷は蛇ノ目湖の小島にて行うのです」 「”フネ”は大丈夫ですかって電話で聞かれたのはそういうことだったのか」  一人納得している父と、神主がいる手前言葉には出さないものの、そんなこと聞いていないと不満を顕にする母と娘。  神主に案内され三人は船に乗り込み、神主が櫓(ろ)と呼ばれる船尾に取り付けられた器具をゆっくりと動かすと、船は小さな波を立てながらゆっくりと進みだした。 「蛇ノ目湖は平凪の湖とも言われておりまして、どんなに風が強い日も波立つことは無いのですよ。だから船の上で暴れたりしなければ決してひっくり返るようなことはありません」  こんな真冬の受験を控えたタイミングで湖に落ちるだなんてありえない、と美幸は苛立ちながら思った。  岩に囲まれた区画を出ると、より一層陽の光を強く感じ、美幸は思わず目を細めた。 「ホントね、向こうの木々は風で揺れてるのに湖の上は全然風が吹いていないわ」  母の呟きに美幸は返事をしなかったが、母の言う通り気味悪さを感じてしまうほどに湖の上は無風だった。 「さて、もう少しで着きますよ」  美幸は前方の小島を見た。  僅かな陸地を奪い合うように沢山の木々が生えていたが、近付くにつれて木々の隙間から祠のようなモノが見えた。  美幸は無意識に唾を飲み込んだ。 「さぁ、コチラです」  小島に上陸した四人は小島の中央へと向かった。  まるで湖の外から島の中で何が行われているのか見えないようにビッシリと生えている木々に囲まれた島の中央には、祠と石で出来た台座、そして異様な雰囲気を漂わせる直径五メートル程の縦穴があった。 「縦穴には危ないので近付かないようにしてください」  神主の注意を聞いた父は少しだけ穴を覗こうと背伸びをした。 「おぉ、深そうな穴だなぁ。埋めるか柵で囲った方が良いような気がしますけど」 「仰る通りなのですが、その穴は『口』と呼ばれているとても神聖なものでして、埋めることも何かで囲うことも許されていないのです」 「あ、そうなんですか」  父はさらに一歩近付いて穴の中を覗こうとしたが、母に腕を引っ張られたので覗き込むのを諦めた。 「さて、寒いですよね。すぐに祈祷を始めましょう」  神主は石で出来た台座、祭壇のような台座の前に立つと、野呂家の三人に立つ場所を案内した。  祈祷が始まった。  先程までは神主に対して落ち着いて優しい印象を持っていたが、祈祷が始まった途端に目つきが変わり、場の雰囲気が引き締まるような感じがした。  神社に来てから美幸も父も一度も伝えた覚えが無かったため、父が予約の際に伝えていたのであろうが、神主の祝詞奏上(のりとそうじょう)は高校受験に関するものだった。  祝詞奏上が終わると、神主は美幸に台座の前に来るように手招いた。  美幸は自分が何かすると思っていなかったため、恐る恐る台座の前に歩み寄った。 「さぁ、口にしなくて良いので、心の中で願いを神様に伝えてください」 「は、はい」  美幸は言われたわけではないが、何となく目を瞑り、手を合わせた。  私の、野呂美幸の願いは。  願いを伝えようとしたその時、美幸の脳内にある日の光景が蘇った。 「あ、鞄の中に体操服入れたままだ」  十二月上旬の夜。  お風呂に入るために脱衣所に来た美幸は、体育で使った体操服をまだ出していないことを思い出した。  後から出したらまた小言を言われるな、と思った美幸が自分の部屋に戻ろうとした時に、リビングにいる両親の声が聞こえてきた。 「美幸は?」 「風呂に行っただろ」 「そう。だったら話すけど」  娘を抜きに何を話すのだろうと興味を持った美幸は、二人に気が付かれないように足音を抑えて、壁越しにそっと身を潜めた。 「美幸の志望校は聞いてる?」 「志望校? 星ノ浜だろ?」 「お父さんの方から星ノ浜じゃなくて鳴間西に変えたらどうか? って言ってみてよ。私が言うと逆に意地になりそうだから」  母のその言葉は美幸にとって衝撃だった。  少し前に母に志望校を聞かれた際に星ノ浜と答えた時は何も言わなかったからだ。 「何でさ。美幸が行きたいって言ってるんだから星ノ浜で良いだろ」 「ちゃんと学校案内見たの? 星ノ浜、学費がスゴいのよ」  母は溜め息をつきながら言った。 「そりゃあ、私立なんだから多少は高いだろ」  何を当たり前なことを、と父は言いかけたが、既の所で飲み込んだ。 「多少なんてモンじゃないのよ。ホラ、これが鳴学(私立高校の鳴間学院のこと)の学校案内。それでコレが星ノ浜の学校案内。星ノ浜は私立の中でも学費が高いの」  壁越しに聞いているので何をしているのか見えなかったが、ページを捲るような音とテーブルに何かを置くような音がした。 「んん、まぁ、確かに」 「美幸を私立高校に通わせたら、ウチにはもう大学に通わせるようなお金無いでしょう? それだったら、高校だけでも公立高校にして、大学行く時に使えるお金を増やすべきよ」 「うーん、まぁ、そうかもしれないけど」 「何? 私が間違ってるって言いたいの?」  父の歯切れの悪さに、母の声色に苛立ちが滲み始めた。 「そんなこと言ってないだろ。ただ、美幸には行きたい所に行かせたら良いじゃないか」 「だぁかぁらぁ、行かせるお金が無いって話をしてるんですッッッ!」 「ちょっと母さん、そんなに声を大きくしたら美幸に聞こえるぞ」 「ッッッ」  痛い所を突かれた母は言葉を詰まらせ、隠す素振りも見せずに舌打ちをした。 「そりゃあ、星ノ浜に通わせてさらに私立の大学に通わせるようなお金はウチに無いけど、そうなったら奨学金を借りるとか色々あるだろ。少なくとも今選択を変えさせる必要は無いと思うけどな」 「あの子に借金させるって言うのッ!?」 「足りなかった時は借りるしか無いだろう。だが、お金の話を今の美幸に話してどうなる。受験を目前に控えているんだぞ。美幸のことだ。お金を理由に私立高校をやめろと言えばその通りにするだろう。でもそれが美幸のためになるのか?」  数秒間訪れた静寂は、母の怒りの声で掻き消された。 「お父さんはいっつも綺麗事ばっかり言ってッ! 私は現実の話をしているのッ! お父さんはいっつもそうやって美幸の味方ばっかりして! 私はいっつも美幸に嫌なことを言う役ばっかりさせられるッ! 卑怯よッ!」  自分の進路をキッカケに両親の口論が勃発したことに、いたたまれない気持ちになった美幸は逃げるように脱衣所へと戻った。  体操服を取りに戻ったことなど、美幸の頭からすっかり抜け落ちていた。  美幸の意識は祈祷の最中へと戻された。  制服が可愛い、校舎が新しくてお洒落、修学旅行は海外、仲の良い友達達も目指している。  両親に言ったら怒られそうな理由ばかりだったが、それが星ノ浜を志望する動機だった。その気持ちに嘘偽りは無く、美幸の本心である。  だが、あの日の両親の言葉が美幸の心に深く刺さっていた。  行かせるお金が無い。  それは美幸の落ち度ではないし、努力ではどうしようもない。かといって両親を責め立てるような内容でも無い。  ただただ、どうしようもない現実。  そんなどうしようもない現実を前に、神に何を祈れと言うのだろうか。  熟考の末、美幸は心の中で唱えた。  高校に受かりますように。  その後、特に何か起こるわけでもなく祈祷は終了し、小島にあった祠にも参拝してから船に乗り込んだ。  相変わらず湖の上は不気味なほどに風が無く、梶を動かす音と僅かな航行音だけが聞こえた。  岩に囲まれた桟橋に到着すると、元来た道を戻るように、裸電球だけが頼りの地下道を歩いた。  地下道の生温く、湿った風が頬を撫でると、美幸は言葉では言い表せない気持ち悪さを感じた。  別れ道がある場所に着いたものの、鉄格子で塞がれているため道に迷うような事はない。  美幸は行きの時も気になった鉄格子の奥の闇を無意識に覗き込んだ。  そして絶句した。  身長約二メートル、膝の裏辺りまで伸びた黒髪、闇の中でも一目瞭然の真っ赤な瞳。見た目は人間なのだが、纏う雰囲気がこの世のモノと思えないナニかが、鉄格子の奥の闇の中に立って美幸を睨みつけていた。 「ッッッ!?」  美幸は思わず父の身体にぶつかりながら腕にしがみついた。 「ん、どうした美幸。さては幽霊でも見えたか?」  父は笑いながら言ったが、今この場においてその冗談は一切笑えなかった。  美幸の素振りに神主は「あぁ、もしや」と呟いてから言った。 「もしかして、女の人が見えたかい?」 「えッ!?」  神主の言葉に美幸は思っていたよりも大きな声を出してしまった。 「祈祷の帰りに鳴萬我駄羅様の姿を見られる方、結構いらっしゃるんです」  両親も慌てて鉄格子の奥を見たが、鉄格子の向こうには闇が広がるだけだった。 「鳴萬我駄羅様は子供が好きな神様だと云われているので、我々のような大人には姿を見せないこともあるんです」 「神主さんにも見えないのですか?」 「はい。霊感とは少し違うのですが、私にはそういうナニかを見る力があまり無いようでしてね。死ぬまでに一度ぐらいはお会いしたいと思っているのですが」  神主の話に衝撃を受けていた三人は、笑いながら話す神主の目が笑っていないことに気が付くことはなかった。 「母さんは見えた?」 「いえ、全然。でも、その、何と言いますか。大丈夫なのですか?」  母が心配そうに尋ねると、今度こそ神主は笑いながら言った。 「大丈夫ですよ。姿をお見せになったということは、ちゃんと見届けているよ、と伝えたかったのだと私は思います」 「そう、なんですか」 「なぁ美幸、本当に見えたのか?」 「見えたような気もするけど、気のせいだったかも」  美幸は恐る恐るもう一度鉄格子の向こうを見たが、そこには誰もいなかった。  その後は不可思議な事は何一つ起こらず、神主に別れを告げた野呂家の三人は、自宅へと戻った。
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