八話 病院

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八話 病院

 八話 病院  姫倉の登場で分が悪くなり、逃げるように教室を後にした伏見は空き教室の前にある大きな窓から外を眺めていた。  真のことは姫倉に任せて自分は伏見を追うことにした美幸は、外を眺めている伏見の隣に恐る恐る近づいて声をかけた。 「ふ、伏見君」  美幸の声にハッとした伏見は美幸に顔を向けた。その顔はつい先程の怒りを顕にしていた男とは思えない程に、いつもの優しい表情をしていた。 「あ、野呂さん。さっきはごめん」 「え?」  突然の謝罪に困惑した美幸だったが、伏見は一方的に話を続けた。 「野呂さんのことを怖がらせちゃったでしょ? あんな一面見せたくなかったんだけど、アイツのことがどうしても許せなくて。でも、もう大丈夫だよ」  謝るのは私に対してじゃなくて見抜君に対してでは?と美幸は思ったが、その思いを口にすることはなかった。 「さっきも言ったけどさ。いたんだよね。僕が入院している時に神がどうだの信じる者は救われるだとか言ってる奴らがさ。野呂さんはそういうの信じてる?」 「えっと」  神様が本当にいるのかどうかは分からない。だが、赤い瞳の女、無数の手、触れた相手を不幸にする力。それらのことを考えると、それが神なのか霊なのかは分からないが、そういった普通ではないナニかは存在すると思っていた。  その思いを口にしようとした美幸だったが、伏見の口ぶりからしてそういう不思議な存在を認めていないのは確かだった。そんな伏見に自分の考えを伝えて良いのか迷った美幸は「あんまり」と曖昧な返事をした。  伏見はジッと美幸の目を見てから再び外に視線を戻した。 「別に野呂さんが信じていても信じていなくてもそれをとやかく言うつもりはないけど、僕は全部まやかしだと思ってる」 「まやかし?」  伏見は周りに自分の話を聞いている人物がいないか確認してから口を開いた。 「例えばだけど、幽霊が怖いと思われているのは何故だと思う?」  そんなこと考えたこともなかった。怖いモノは怖いモノ。それ以上でもそれ以下でも無い。 「み、見えないから?」  あまり深く考えずに思い付きで言った美幸の答えに伏見は「大体当たり」と言った。 「幽霊が怖いと思われているのは、正体が分からないから。要は見えないからだね。これは神にも超能力にも通ずる部分があるんだよね。正体の分からない存在や力を怖れるという部分が、ね。まぁ神に関しては人間の欲望が生み出した偶像、というより虚像だと思ってるけどね」  反応に困る話題だったため、美幸は頷くだけで場を繋いだ。 「今は科学の発展で色々な事が分かっているから怖いと感じるモノはだいぶ少ないわけだけど。正体の分からない存在や力だらけだった昔の人達はどうしていたと思う?」 「どうしていた? うぅん、分かんない」 「正体の分からない存在や力に名前や姿形を与えたんだ。そうすることで、人間は正体の分からない存在や力を共通認識にすることが出来るからね。『昔の人達は地震はナマズが起こしていると信じていた!』みたいな話を聞いたことは無い?」 「あぁ、それは聞いたことがあるかも」 「地震のメカニズムが分からなかったからそういう風に考えたんだろうね。自然災害のような人間にはどうしようも無い現象については、日本だけじゃなくて世界各地で様々な名前や姿形を与えたって話を聞いたよ。考えることは一緒なんだろうね」 「妖怪みたいなオバケも同じ理屈で生まれたのかな?」 「どうだろうね。鎌鼬(かまいたち)なんかはそうかもしれないけど、河童みたいな妖怪については子どもが危険な所に近付かないように大人が言った嘘から始まったんじゃないかと思うけどね。まぁとにかく、昔の人達は正体の分からないモノを認識するために名前を付けたのだと僕は思ってる。だから、その中にはただの偶然、もしくは人為的な奇跡、はたまたありもしない嘘が紛れてると思うんだよね。僕はね、特にありもしない嘘というのが大半を占めていると思っている」  伏見はそこまで言うと一度口を閉じた。そして口角を震わせながら続きを言った。 「困ってる人や信じている人を神は助ける? 嘘をつけ、馬鹿馬鹿しい。本当に神がいるのなら、何故罪のない子どもが悪い大人に殺される事件が起こる? 一生懸命皆のために生きてきた人を事件事故病気で命を奪う? 信仰心が足りないからだとでも言うのか? 大抵の場合は逆じゃないか? 耐えられない現実を生きていくために人は信仰に縋っているんじゃないか? 何かに縋ることが悪いことだとは思ってない。でもね、生きる希望をは現実じゃなくちゃいけない。嘘に塗れた幻影を希望と偽って広めることを善とする意味がわからない」  途中までなら伏見が何を言いたいのか何となく理解出来たものの、結論に関しては伏見個人の何らかの感情が刷り込まれているような気がした。  かなり踏み込んだ内容だったために、本当は何も答えずに沈黙を通したかったのだが、美幸の返事を今か今かと待ち望んでいる伏見を前にして長考する時間はなく「うぅん、どうだろう」とどっちつかずの返事をした。  伏見は満足そうに頷くと、もう一度周囲を確認してから小声で訊いた。 「ここまでの話が僕の考えだという前提で話を進めるよ。アイツは野呂さんに何を吹き込もうとしていたの?」 「な、何のこと?」  何の話かすぐに分からなかった美幸は聞き直したつもりだったのだが、伏見は眉間にシワを寄せた。 「僕には話せないけどアイツになら話せるってこと?」 「いや、待って待って。本当に何の話? 吹き込もうとしたって誰が何を?」  伏見は美幸の目をギロリと睨んだ後に一度目を閉じた。そしてゆっくりと目を開けて言った。 「アイツは言ってたじゃないか。不思議な力がどうとか力になれるかもしれないとか。あの話はアイツが一方的に言っていただけなのか? それにしては野呂さんは聞き入ってるように見えたけど」 「そ、それは」 「アイツもおかっぱ頭の仲間に違いない」  美幸は見抜真のことを全面的に信用しているわけではない。ただ、彼が嘘を付いているとも思えない。彼の言う通り、触れた相手を不幸にする力を彼ならどうにか出来るのかもしれないと美幸は思っていた。  その思いを伏見に言うのは憚られたため、美幸は話を逸らそうとした。  「入院中に何かあったの?」  美幸の問いに伏見は数秒停止してから思い出したように口を開いた。 「あぁ、ちゃんとは説明してなかったね」  伏見は長かった入院生活について思い返した。  正直事故に遭ってからしばらくのことは覚えていない。聞いた話だとトラックに轢かれてかなりの重傷だったようだ。  そんな大事な事を覚えていないのには理由がある。意識が戻った時、痛みこそ残っていたものの痕が無かったからだ。  凄腕の医者が手術をしたのだろうと最初は思ったが、話を聞いている限りでは違うらしい。担当医が言うには「手術前の検査の値が何度測定してもおかしくて手術が出来なかった。次第に値が正常に戻りつつあって手術の必要性が無くなった」とのことだ。  そんなことがあるのか分からないが、手術が必要なほどの重傷が自然治癒により治ったということらしい。  急に話が変わるが、僕には両親がいない。母は身体が弱く、僕を産んですぐに亡くなった。父は碌でもない人間だったようで、母が亡くなったと分かった途端に母の貯金を全て卸して何処かに逃げたと聞かされた。身寄りのない僕は叔父夫婦に引き取られ、今現在も叔父夫婦の元で生活をしている。  そのため、事故で病院に運ばれたという情報も叔父夫婦に届いた。  事故に遭った時、持ち物に学生証があった事から学校へと連絡が行ったようだ。  学校から事故の連絡を受けた叔母は血相を変えて病院へと駆け付け、後から連絡を受けた叔父も仕事を早く切り上げて慌てて病院へと駆け付けたそうだ。  約二日間意識が無かったようで、目を覚ました時の最初の記憶は知らない天井、全身に残る鈍い痛み、ボロボロと泣いている叔母の姿だった。 「無事で良かった。無事で良かった」  あんなに泣いている叔母を見たのは初めてだった。  約二日間。  叔母は面会が可能な時間はずっと側にいたのだと、叔母がいない時に看護師から聞かされた。  自分が腹を痛めて産んだわけでもない子供のためにずっと寄り添っていたという事実に、嬉しさよりも申し訳無さの方が勝ったのは言うまでもない。  全身に痛みは残っていたが、様々な検査を行った結果、数日安静にして様子を見たいという話になった。  経過観察に入ってから三日。美味しいとは口が裂けても言えない料理や病院特有の薬品のような臭い、寝心地の悪いベッドや枕にようやく慣れてきた頃、叔母と共に担当医の診察を受けた。 「健人は大丈夫なのでしょうか?」  叔母は縋るような目で担当医に尋ねた。 「えぇ、その、何と言いますか。今のところ問題は無いのですが」  担当医は何度も問診票のような書類を見ながらゴニョゴニョと言葉を濁していた。 「何か、あったのでしょうか?」  自分の煮えきらない態度のせいで不安にさせてしまったことに気が付いた担当医は慌てて笑顔を取り繕った。 「あぁ、すみません。それがですね、何の問題も無いのです。ただ、それが気になるんですよね」 「ど、どういうことですか?」  担当医は再び問診票とのにらめっこを始めたが、覚悟を決めたのか大きく深呼吸をしてから言った。 「その、ハッキリと申し上げますと、伏見健人さんはこの病院に運ばれてきた時点では自然治癒でどうにかなるような状態では無かったのです。一度旦那さんとご一緒されていた時にも話しましたが、折れた骨が臓器を傷付けていたはずなのです」 「はい、でも結局手術はしなかったと聞いてますが」 「そう、ですね。説明出来ないのですが、常識では考えられない程の早さで治ってましてね」 「常識では考えられない早さ、というのは?」 「言葉通りです。その、本当にあり得ないとしか言い様が無いのです」  担当医は興奮気味に言った。 「その、此処から先はご家族の方の了承が得られないと話が進まないと言いますか、とんでもないお願いをすることになるのですが、健康状態に問題は無いのは承知でもう少し入院していただけないでしょうか? もちろん費用は全てコチラで負担します」 「な、何を言ってるんですか」  叔母が反論しようとしたが担当医は手で制した。 「お気持ちは分かります。健人さんには一日でも早く日常に戻っていただきたい。それは私も同じです。ですが、今回の異常なまでの回復の早さについて何か分かることがあれば、現代医療を根本から覆すぐらいのとんでもない発見になるかもしれないのです」 「そ、それが入院とどう繋がるのですか?」 「健人さんには今までより精密な、そして様々な検査を受けていただきたいのです。通院となると毎日かなりの時間を病院に当てていただくことになり、かえって不便だと思うのです」 「はぁ、そう、なのですか」  あまりにも突拍子もない話に叔母は気持ちの整理がついていないようだったため、伏見が代わりに質問をした。 「もう少し入院、というのは具体的にどのぐらいですか?」  担当医は腕を組んで天井を見上げた。担当医が座る椅子の背もたれがギシリと音を立てた。 「どんなに長くても一ヶ月、ぐらいでしょうか」  長く見積もって一ヶ月。  高校に入学したばかりだというのに一ヶ月の入院。  これが大怪我や大病を患っているという理由なら仕方がないことだと諦めることが出来るが、検査のためだけにとなると迷いが生じた。 「それで何か分かれば、沢山の人を救う事に繋がるのですか?」 「も、もちろん! 沢山だなんてそんな。世界中の人間を救う事になるかもしれませんよッ!!」 「ちょ、ちょっと健人。断っても良いんだよ」  叔母は現実味を帯びないこの話に乗り気ではないようだ。自分自身も別に特別乗り気な訳でも無いし、世界を救えるだとか言われてもピンと来てはいない。  だが、短い入院生活の間に知り合った寝たきりの少年、車椅子の少女、苦痛に泣いていた少年。彼らの助けになるのならもう一ヶ月入院することになっても良いな、と伏見の中で覚悟が決まった。 「叔母さん。僕は大丈夫だよ。苦しい思いをしている誰かのためになるのなら構わないよ」 「で、でも」 「もちろん入院することが叔母さんや叔父さんの迷惑になるなら断ろうと思うけど、教科書とかノートを持ってきてくれれば勉強は一人でやるから大丈夫だよ。ざっと見た感じ授業に出れないからと言って置いていかれるような難しさは感じなかったし」 「本当に良いの?」 「良いよ」  心配そうな顔をしている叔母に伏見は笑顔を見せながら言った。 「健人がそう言うなら私も構いませんけど」  担当医はその言葉を待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。 「そ、それは有り難いです。東京の方から機材や先生をお呼びするから長引くことは無いと思うけど、もう少しだけ検査にご協力ください」 「分かりました」  結局、異常なまでの回復の早さについて何一つ判明することがなく一ヶ月が過ぎた。担当医と東京から来たという先生が泣きながら「もう一ヶ月入院を延長させて欲しい」と懇願したため、六月中旬まで退院が遅れることになるのだが、この時は知る由もなかった。  五月四日。  ゴールデンウィーク二日目。  世間では旅行に行ったり、鳴間祭りと呼ばれるゴールデンウィークに行われる大きな祭りに行ったりしている頃。  伏見は一時的に退院しても良いという話を断わって病院に残っていた。  特別入院ということで大部屋から個室に移された伏見だったが、暇を見つければ大部屋にいた頃に知り合った子ども達の元へ行くのが日課になっていた。  この日も色々な検査を終えた伏見は勉強道具を入れたナップサックを片手に大部屋を訪れた。 「あ、健人お兄ちゃん! 見て!」  ベッドに座って絵を描いていた少女が伏見が来たことに気が付くと満面の笑みを浮かべた。少女のベッドの横には子供用の少し小さめの車椅子が置かれている。 「今日は何を描いたの?」  伏見が笑顔で応えながら少女の隣に立って描いている絵を覗き込んだ。そこには男女が草原に立って笑っている絵が描かれていた。  伏見はベッドの横にある小さな丸椅子に座り、もう一度絵をじっくりと見てから言った。 「上手だね。この女の子はミアちゃん?」  ミアというのは少女の名前だ。ミアは初めて会った時から「私のことは名前で呼んで欲しい」と言っていたので伏見はその通りに呼んでいる。 「うん! 隣にいるのは健人お兄ちゃん!」  少女は顔を少し赤く染めながら言った。 「楽しそうだね」 「うん! 早く病気が治ると良いなぁ。そうしたら絵の中じゃなくて本当に外で遊べるのに」  絵を描くことが好きだという彼女が使っている色鉛筆はどの色も半分以下の長さになっており、よく使う色に関してはキャップを着けないと持てないぐらい短くなっていた。  病名は知らないが、すぐに退院が出来るような病気ではないことは、週に何度か見舞いに来る家族の表情や会話を見聞きしているだけで何となく察することが出来た。 「あ、そうだ! 健人お兄ちゃんが来る前にね、お姉さんが来たの」 「お姉さん? 看護師さんのこと?」  少女は首をブンブンと左右に振った。 「看護師さんじゃなかったけど、優しそうな人。知らない人だったけど、病気が治るおまじないを掛けてくれたの」  少女は下腹部を擦りながら言った。 「おまじない? どんな?」 「えっとねぇ」  話している途中で少女の視線が伏見からズレた。伏見が少女の視線の先を辿るように見ると、そこには五十代ぐらいの女性が無機質な笑顔を浮かべながら、重そうな手提げバッグを持って病室の入口に立っていた。 「ちょっと良いかしら?」 「どちら様ですか?」  伏見が眉をひそめながら言うと、女はニコニコと笑いながら答えた。 「八つ目の会を知っていますか? 八つ目の会はとても素晴らしい会ですよ。信じる者は救われます。わたくしもかつては身体が弱く」 「あの、そういうの結構なんで帰ってください」  伏見は勧誘話を止めさせようと口を挟んだが、女は相変わらずニコニコと笑いながら話を続けた。 「入院を繰り返していたのですが、その時に知ったのが八つ目の会なのです。八つ目の会の素晴らしい所は、信じる者は羅苦根亜(らくねあ)様に平等に救われるのです。羅苦根亜様は信じる者だけを救うのです。アナタ達もね、八つ目の会に」 「興味無いんで帰ってください」  伏見が女の言葉を遮るように大きな声で言ったが、女は気にする様子も見せずにニコニコと笑いながら二人の元へと歩み寄った。 「入信しましょう。そうしましょう。羅苦根亜様は貴方達のことも救ってくださいます。人間の力ではどうにもならないことも神になら救うことが出来るのです。良いですか。人は人を救えないのです。人を救うのはいつだって」 「聞いて無いことをゴチャゴチャ喋んなッッッ!! さっさと帰れッッッ!!」  伏見の怒号に少女は全身を震わせた。だが、女は怒号を喰らってもなおニコニコしていた。 「神なのです。羅苦根亜様はアナタのように今はまだ信じていない人も救います。羅苦根亜様は過去に拘らないのです。今です。今救いを必要としている人を救うのが羅苦根亜様なのです。病気、怪我辛いでしょう? 分かります。 我々はアナタ達の味方です。力になりましょう。助けになりましょう。八つ目の会は平等に」  伏見は女の首元を突き飛ばした。女はニコニコと笑いながら体勢を大きく崩し、病室の外の通路で派手にひっくり返った。その拍子に持っていた手提げバッグの中身がバラバラと散らばった。 「なんだコレ」  女の手提げバッグの中身を確認するために病室から出た伏見は一枚の紙とパンフレットのような物を拾い上げた。  紙の上部には大きく「八つ目の会入信書」と書かれており、パンフレットの表紙は無機質な笑顔を浮かべた老若男女の写真で埋め尽くされていた。パンフレットは表紙の写真だけでも気味が悪くてページを捲る気が起きなかったのだが、入信書と書かれた紙に書いてある内容は読む気が無くても目に入ってしまった。  名前、性別、住所、生年月日、血液型、生殖機能の有無、持病、家族構成、信仰、年収、入信理由、入信推薦者、入会金、寄付金、献上金、年会費。  名前や住所ぐらいなら理解出来るのだが、生殖機能の有無だとか家族構成だとか年収まで記入させるという気持ち悪さに伏見は絶句した。 「あらあら。あらあらあらあら」  女は暴力を振るわれたというのにニコニコと笑顔を浮かべたまま、床に散らばった入信書やパンフレットを拾い始めた。 「あらあらあらららららら」  散らばった物を全て回収し終えた女は立ち上がると伏見の目を見ながら言った。 「アナタは地獄に落ちます。羅苦根亜様は全てを知っています。許しを頂きたいというのなら」 「目障りだ。失せろ」  女は笑顔を止めて真顔になると、ブツブツと聞き取れない言葉を呟きながら階段の方へと歩いて行った。伏見は女の姿が見えなくなるまで睨み続けていた。  女の姿が完全に見えなくなると、先程まで少女に向けていた笑顔に戻してからミアの顔を見た。 「大丈夫?」 「う、うん。健人お兄ちゃんの方が怖かった」  少女が目を真っ赤にして訴えたのを見たことで、伏見は少々乱暴に事を進めてしまったな、と後悔した。 「ごめんね。怖かったよね」  少女は鼻をすすりながら首を左右に振った。 「うぅん。健人お兄ちゃんは私のために怒ってくれたんでしょ?」 「もちろん」  伏見は話が途中になっていたことを思い出した。 「話を戻すけどさ、おまじないを掛けてくれたのってあの人?」 「ううん、違うよ。もっと若くて、綺麗で、丸い眼鏡をしてたよ。髪型がこけしみたいなお姉さんだった」 「丸い眼鏡をしたこけしみたいなお姉さん、ね」  ミアに接触したという女もさっきの女の仲間なのだろうか。見かけたら問い詰めてやろう。伏見は少女に見えない所で痕が残るほど強く拳を握った。 「健人お兄ちゃん。今日は何を教えてくれるの?」  ミアは色鉛筆を端に寄せながら言った。  ミアに限らず、伏見は病院で知り合った子供達に曜日を決めて勉強を教えていた。  キッカケは、個室で一人で勉強していた時に部屋の掃除で訪れた看護師との会話だった。 「え? 高校一年生だよね? 授業受けなくても高校の教科書の内容が分かるの?」  何を言っているのだと一瞬思ったが、入院生活をする中で看護師と形だけでも仲良くしておいたほうが良いな、と思うところがあったので出来るだけオブラートに包みながら答えた。 「まぁ、書いてあることを理解するだけなので」  看護師は「そんなことある!?」と通路に聞こえそうなぐらい大きな声を出した。 「え、もしかしてスゴく頭が良かったりする? 私なんて授業聞いてても良くわかんなくて大変だったのに」 「そう、ですかね」 「大部屋の時に一緒だったあの子達。入院生活が長くて全然勉強出来てないのよね」 「え」  大部屋にいたのは数日だけだが、言われてみれば勉強をしているのを見たことはなかった。 「一応学校からプリントとかは届いているんだけど、入院生活って大変でしょ? それなのに勉強を頑張るって中々ならないのよね」 「まぁ、はい」 「そこで、お願いなんだけど」  看護師はウインクしながら言った。 「あの子達に勉強を教えてあげて欲しいなって。伏見君頭良さそうだから教えるのも上手でしょ?」  看護師の偏見に多少の苛立ちを覚えた伏見だったが、子供達に勉強を教えてあげるという話に関しては異論はなかった。 「勉強教えてあげるって話になってちゃんと聞いてくれますかね」  看護師はその言葉を了解と受け取ったようで「ありがとうね」と前置きしてから言った。 「聞いてくれるよ。伏見君結構人気なんだから」 「人気?」 「あ、それはナースステーションの話だった。って冗談は置いといて、ミアちゃんは伏見に懐いていると思うから、勉強教えてあげるって言ったら喜ぶと思うよ。タッ君とかユー君もね」  入院生活は治ればひとまず終わりだが、勉強を必要とする生活は個人差はあれど何年も続くものである。その根幹を担う小学校の勉強が疎かになってしまうのは良くないと思った真は引き受けることにした。 「そうですか。まぁやるだけやってみます」 「あ、マジのやつ? ありがとう! さすが伏見君」 「ただ教科書とか書く物が欲しいですね」 「えっと、全教科あるかは分かんないけど、教科書類は多分皆引き出しの中に入ってるよ。後は書く物か。紙は、どうしようかな。私がこっそりプリンターの用紙を持ってこようか?」 「話がややこしくなりそうなんでそれはコッチでどうにかします」 「大丈夫? 必要そうな物があったら言ってね」 「まぁ、はい。分かりました」  伏見の授業は好評で、看護師伝いに他の患者にも噂が広がり始めていたのだが、この事を伏見は知らない。 「この前足し算をやったから今度は引き算をやろっか」 「はぁい」  伏見はナップサックからルーズリーフとシャープペンシルを取り出すと、どんな説明が一番分かりやすいかなと考えながら、算数について教え始めた。  夕方になり、窓から差し込む夕日に思わず目を背けてしまう頃。  ミアとの勉強が終わり、自分の部屋に戻ろうとしていた伏見は通路脇にある自販機の前にいる人物を見て思わず足を止めた。  自販機の前には、おかっぱ頭の丸眼鏡をした女が立っていた。女は「何を飲もうかな」と呟きながら自販機とにらめっこをしていた。  伏見はミアの話していた『丸い眼鏡をしたこけしみたいなお姉さん』というのが目の前にいる人物ではないかと思い声をかけた。 「あの、すみません」 「ん、今選んでるんで」  女は伏見の方を見ずに答えた。どうやら自販機を使いたい人と間違われたようだった。 「用があるのは自販機じゃなくてお姉さんの方です」 「ん? 何それ。ナンパ?」  そう言いながら伏見の方を見た女は喉をヒュッと鳴らして後退りした。 「ビ、ビックリしたぁ」 「ナンパじゃないです。ちょっと人探しを」 「アンタ、随分とスゴいの背負ってるねぇ」  女は伏見の話を遮りながら、伏見の全身をジロジロと見た。伏見は何故背中にあるナップサックが女に見えたのか分からなかったが、女の口調が褒めているようには聞こえなかったので反論した。 「ナップサックのことですか? 別に小学生の頃に作ったナップサックを高校生が使ってても良いじゃないですか?」 「いや、ウチが言ってるのは君の」  そこまで言ってから女は一度口を噤んだ。そして言い直した。 「ん、何か気分悪いなぁとか身体の調子がおかしいなぁとか小さい時から続いてない? ウチが助けてあげようか?」  何を言っているんだこの女は。  勧誘女とはまた違うベクトルの気味悪さが目の前のおかっぱ女から滲み出ていた。 「病気が治るおまじないだとか言って女の子と話したのは貴女ですか?」  女は伏見の言葉を聞きながら再び自販機と向き合い、小銭を入れてから桃ジュースのボタンを押した。ガコガコンと音を立てて、取り出し口にジュースの缶が落ちた。女は取り出し口から缶を取り出すと、缶を開けて一口飲んでから答えた。 「ん、そうだけど」 「医療従事者ではないですよね?」 「もちろん。医療従事者なら制服っていうの? そういうの着てるでしょ」  医療従事者ではないということは、非番の看護師が少女に話しかけたという訳では無さそうだった。完全に無関係の人間が少女に接触したことになる。 「単刀直入に聞きますけど、何で女の子にそんな事を言ったのですか?」  女は中指で眼鏡の位置を整えて、再びジュースを口にした。 「何でって言われても困るなぁ。『病は気から』って言うでしょ? だから治るおまじないを掛けてあげた。何か問題ある?」  あるに決まっている。  この女は無責任に人に希望を見せるタイプの人間だ。無責任に人に希望を見せておいて、その責任を本人に擦り付けて自分は人助けをしたと気持ち良くなるタイプの人間だ。  伏見はそういう人間が心底嫌いだった。 「貴女はただそうやって無責任に希望を擦り付けているだけだと自覚してますか? ありもしない希望を見せられる側の気持ちになったことはありますか?」  伏見の語気が荒くなったことで、女はようやく自分が責められていることに気が付いた。 「ん? そんなに怒られるようなことなのかな? 確かにおまじない自体は嘘かもしれないけど、その嘘が頑張る力になるのならそれで良いと思わない? 気持ちの問題だから、ね」  プツン。  伏見を抑えていた最後の一線が切れた。 「良いと思うわけ無いだろ。さてはお前もあの『八つ目の会』とやらの関係者だな? 縋るモノの無い患者や家族の前にニセモノの希望を持って現れて、縋ろうとする人間の気持ちを利用して金を毟り取ろうとする極悪非道のクズ人間がッッッ!!」  伏見が殴りかかろうと拳を振り上げると、誰かに後ろから腕を掴まれた。 「おっとっと。暴力は良くないなぁ、暴力は」  伏見の腕を掴んだのは白髪が目立ち始めている五十代ぐらいのスーツを着た男だった。  男は伏見の腕をグイッと捻って関節を決めた。 「ッッッ!!」  痛みもあるが身体の構造的に足掻きようが無くなってしまった。伏見は二人を交互に睨んだ。 「おい、麻美子(まみこ)。関係者以外との接触はトラブルの元だから控えろって言ったろ」 「ごめんちゃい」  麻美子と呼ばれた女は頭をポリポリと掻きながら言った。 「どうせお前がちょっかいかけたんだろ。やめろよな本当に」  男は麻美子を叱ってから「離すけど暴れんなよ」と伏見に声をかけた。離してくださいと言う気にもなれず、かといって抵抗した所で抜け出せる様子は無かったので伏見は仕方なく頷いた。  男は伏見の腕を優しく離した。解放された瞬間に歯向かっても良かったのだが、女はともかく目の前の男に勝てる気がしなかったため伏見は拳を抑えた。 「悪かったな。コイツが何か失礼な事を言ったかもしれないが、ここは一つ大目に見てくれないか?」  伏見は男の全身を確認した。  スーツは決して新品のような綺麗さは保たれていなかったが、長年使い続けているのだと思わせる貫禄のようなモノが溢れていた。病院にいること自体が不自然という点を除けば、刑事なのか医療機器の営業なのか知らないが、スーツを普段から着る仕事をしているのだと感じ取れた。 「名前は?」 「俺の名前か? 俺は柿崎(かきざき)だ。そこの麻美子と二人で、まぁ、なんだ。外回りの仕事をやっている」  外回りの仕事?  何か隠しているに違いないと伏見は思った。 「会社名、それと何の仕事をしているか聞いても良いですか?」 「何だ何だ。随分と喰い付くなぁ。おい、麻美子。お前何をしたんだまったく」  麻美子は柿崎に向かって舌をペロッと出した。あまり反省しているようでは無いらしい。 「まぁ、なんだ。別に怪しいもんじゃない。そんなことよりも、俺としては早くこの場を収めたいんだよな。お互いにとって悪い話じゃないと思うが」  会社名も仕事内容も言わなかったことに伏見は不信感を抱いた。 「この場を収めたいのはそちらの都合では?」  伏見が苛立ちを隠さずに言うと、柿崎はクククと笑ってから言った。 「これ以上場を長引かせようって言うつもりか? そうなるとだな。俺としては非常に心苦しいんだが、君が麻美子を殴ろうとしていた件を第三者を呼んで蒸し返させてもらうよ」 「ッッッ」 「麻美子が君を怒らせるような事を言ったのかもしれない。麻美子が煽っただけで君は何一つ悪くないかもしれない。だがな、俺は直前の会話を聞いちゃいない。だから、君が一方的に殴りかかろうとした可能性だってある。もちろんそんなことは無いだろうがね」  柿崎は「後は分かるだろ?」と言いたげに伏見を睨み付けた。  要するに、コッチはお前の弱みを握っているから言うことを聞けということらしい。 「汚い大人だな」  柿崎はクククと笑ってから言った。 「これに懲りたらもう少し冷静に立ち回ることを覚えると良い。ある程度会話が成り立ったということは、君は手当たり次第に噛み付くような奴ではないということだ。だったら冷静に行動すべきだ。考えるより先に身体が動かないといけない場面もあるが、大抵の場合は頭で先に考えるべきだからな」  何も言い返すことが出来なかった伏見は奥歯が音を立てるぐらいに歯軋りをした。 「じゃあな、少年。おい、麻美子。一言謝るぐらいはしろ」 「ごめんね。君を怒らせるようなつもりはなかったんだけどね。結果として怒らせちゃったことについては謝るよ」 「僕じゃなくてミアに。彼女に謝ってください」  麻美子は「名前まで知らんかったな」と伏見に聞こえないぐらいのボリュームで呟いてから「ん、あぁ、分かったよ。ちょっと今からどうしても外せない用事があるから、また今度謝りに行くよ」と答えた。  言い終わった麻美子は伏見の個室とは反対方向に歩き始めた。 「まぁ、なんだ。出来れば俺達と会ったことはあまりペラペラと周りに言わないで欲しい。それじゃあ」  柿崎も麻美子の後を追うように小走りをした。 「何なんだアイツ等」  八つ目の会と関係があるのかは分からなかったが、二人も似たような奴らだろうと伏見は思った。  伏見は夕日が殆ど沈みかけていることに気が付き、自分の病室へと急いだ。  伏見は入院中の出来事を掻い摘んで説明をした。美幸は伏見があそこまで怒った気持ちをある程度理解した。 「へぇ、そんなことがあったんだ」 「うん。野呂さんがどう思うかは分からないけど、この世には不思議な力も無ければ神もいないよ」 「う、うん。そう、かもね」  怒った気持ちまでは理解出来たが、美幸はどうしてもその一点だけは同意出来なかった。  麻美子と柿崎が伏見と別れた後のこと。  二人は前から看護師達が噂をしている通路を歩いていた。 「だからさっきから謝ってるじゃんか」  柿崎のげんこつが命中してズキズキと痛む頭の天辺を抑えた麻美子に対して、柿崎は溜め息をついてから言った。 「いつも似たようなトラブル起こしてるからだろ」 「そんなことは無い、と思うけど」  どんどん声が小さくなる麻美子に「自覚あんだろ」と柿崎は突っ込んだ。分が悪いと思った麻美子は話を逸らすことにした。 「それにしてもよくもまぁあの子に手を出せたね。ウチには無理」 「何だいきなり。どういう意味だよ」 「柿崎さん見えなかったの? あの子の守護霊」 「いつも言ってるだろ。俺には霊感は殆ど無いって」 「尋常じゃなかったよ。雰囲気が似てたから多分母親なんだろうけど。何ていうのかな。愛というには重くて暗い印象を受けたから、多分産んですぐに亡くなったとかなのかな」  淡々と話す麻美子に対して柿崎の顔はみるみる真っ青になった。 「お、おい。俺は大丈夫なのか?」 「ん、大丈夫大丈夫。多分」 「多分って何だよ」 「少なくとも柿崎さんに悪さはしてないよ。それにいざとなったらウチがいるでしょ」  麻美子はここぞとばかりにウインクをしたが、娘と同世代の女子にウインクをされても寒気がするだけだった。 「お前なぁ。そういうのは男を勘違いさせるからやめろよな」 「え!? 柿崎さん、まさか!?」  柿崎のチョップが麻美子の脳天に直撃した。 「あたッッッ」 「お前みたいなガキンチョに今更心揺れねぇわ、アホ」 「酷いなぁ柿崎さん。『対策室』の面々で柿崎さんに優しく接してくれる女子なんてウチしかいないのに」 「やかましいわ。それよりも痕跡は残ってるのか?」  柿崎の「痕跡」という言葉を聞いた瞬間に、ヘラヘラと笑っていた麻美子の目に鋭さが宿った。 「うーん、気配はするんだけどなぁ」 「俺にはどうすることも出来ないからお前頼みだぞ」 「ん、分かってる」  麻美子は眼鏡の位置を中指で直すと、周囲のニオイを嗅ぎながら辺りを見回した。 「そういえばあの子がウチに向かって八つ目の会がどうのって言ってたんだけど、八つ目の会って何?」 「八つ目の会って言えば、まぁ、なんだ。あまり良い噂は聞かない団体だが。何だお前、八つ目の会の関係者だと思われて詰められてたのか?」 「そ、おそらくね」 「んんん、話が読めてきたぞ。お前、少女の穢れを祓ってやったことをアイツに説明しなかっただろ」  麻美子は頭の後ろで手を組みながら言った。 「言ったってしょうがないじゃん。それに、こんな世界があることなんて知らない方が幸せだよ」 「まぁ、それはそうだが、説明しないからお前が悪者になったんだぞ。今回は殴られそうになってるし」 「ん、別に良いよ。私が悪者になって丸く収まるなら」  柿崎は「おぉ」と感銘した後に「いや、全然丸く収まってねぇから」と突っ込んだ。 「手厳しいなぁ」  麻美子はジュースをグッと飲み干した。それを見ていた柿崎は思い出したように言った。 「そういや俺のコーヒーは?」  麻美子は「あッ」と呟いてから明後日の方向を見た。 「お、お前って奴は」  柿崎はわざとらしく大きな溜め息を吐いた。  その時、柿崎のポケットから音楽が流れた。  麻美子は「捜査に進展があったんじゃない?」と呟き、柿崎はすぐに折り畳み式の携帯電話を取り出すと通話ボタンを押した。 「はい、こちら柿崎」 『柿崎警部』 「もう警部じゃねぇって言ってるだろ」 『申し訳ありません。柿崎さん。実はですね』
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