帰郷

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 私にとっては、約四十年ぶりの帰郷となった。  帰郷とは言っても、もはや私の実家はそこには無い。高校を卒業と同時に東京の大学に進学した私は、そのままそこで就職し、以来何度かの転勤を繰り返しながら日本中を転々としてきたが、実家に戻ったことは殆ど無かった。そして、私がまだ二十代の頃にまず父が亡くなり、その後は実家をずっと一人で守ってきた母親を、東京の私の自宅に引き取ったのも、もうかれこれ十年近く前の話だが、その母も二年前の夏に体調を崩し、そのまますぐに亡くなってしまった。  特に形見分けにも興味は無く、実家の処分も兄に一任したまま、さっさと終わってしまい、もはや今の自分につながりのあるものは、この地には何一つ残っていないのだ。ところが、というか、そう思うと逆に、というべきか、昔の自分が過ごした場所というものが、ふと懐かしく思えたのである。こうして、郷里の近隣のホテルに宿を取り、週末を利用した一泊二日の日程を組み、久方ぶりに故郷の土を踏むことにしたのである。  ホテルをとった駅からローカル線で二駅ほど乗って、駅前から出ているバスに乗る。交通手段がほぼ昔と変わっていないのは、調査済みだったが、それにしてもこの小さな田舎町が、過疎化が進むこともなく、何とか昔と同じ頻度でバスを運行しているのに妙に感心してしまった。何と言うか、別の意味で時間が止まっていると言えるような気さえする。尤も、流石に駅舎やバスのデザインは変わってはいたが。  駅から十二個目の停留所でバスを降りる。そこがこの町の玄関口に位置しているのだが、そこから歩き出すと三分ほどで私の卒業した高校が見えてくる。卒業から四十年近く経っているのだが、校門も、校舎も殆ど変わりがないように見える。思わず卒業式の光景を思い出してしまったが、実際、全てがあの時のままのように見えるのだ。懐かしくもあり、同時に不思議な気もしたが、まあ、確かに鉄筋コンクリート造りの建物がそんなに変化することもないのだろう。  土曜日の午後とあって、校内は静まりかえっている。当然と言えば当然なのだろうが、これだけ人の気配が皆無だと少々寂しい気もしてくる。校門も当然ながら閉まっているし、校内に入ることも出来ない。そもそも、今時勝手に学校の敷地に入ったりすると、通報されかねない。あまりここに長い時間留まっているのもまずいかもしれない。  門の外から、校舎の外観を一渡り見渡してから、二、三歩歩き出した時。 「藤川君じゃないか」  突然、背後から呼びかけられて、思わず飛び上がった。  いくら故郷とは言え、何十年も訪れていなかった場所で、いきなり自分の名前を呼ばれたら、誰だってびっくりするだろう。慌てて後ろを振り返ると、校門の前に、痩せたひとりの白髪の男性が立っている。 「やっぱり、そうだ。藤川光一郎君だろ?」  下の名前まで言い当てられた私は、その人物の顔を凝視してしまう。誰だ?心当たりがない。必死に記憶の中を探し回る。 「あの、失礼ですが……」  名前を尋ねようとした瞬間。 「あっ」  眼前の人物の顔が、私の中で瞬時に微修正された。卒業時の記憶が蘇る。 「小野寺先生!」  今、私の目の前にいるのは、クラス担任であった小野寺夏彦先生その人だった。 「いやあ、久しぶりだねえ」 「どうも、すっかりご無沙汰しております。先生もお元気そうですね」  高校卒業以来、ろくに故郷に顔も出さず、当然、クラス会にも出たこともない。尤も、クラス会自体、殆ど開催されたことも無いのだが。それでもこんな自分のことを覚えていてくれたことに、私は何やら申し訳ないような気分になった。簡単に近況の報告なぞしているうちに、何やら妙に気恥ずかしいような、座りの悪いような気分になった私は、先生の現在の連絡先が卒業時と変わっていないということだけ、一応確認すると「また、ご連絡します」と言って、早々に話を切り上げてしまった。そそくさと立ち去る私に向かって、先生は微笑を浮かべながら、「元気でね」と頷いてくれた。  再び、実家のあった方に向けて歩きだす。歩きながら見渡す周囲の景色も、あまり昔と変わっていないように見える。やっぱり田舎は変化が少ないということなのだろうか。だからこそ、今、眼前の景色を見ながら懐かしい気分に浸ることも出来るわけだが。  高校の前の道を五分ほど歩き、信号の無い小さな交差点を右に曲がる。あと十分ほど歩くと、実家があった場所に出るはずだ。更地になって、新しい家が建っている筈だと兄からは聞いているが、一応、近くまで行ってみようと思って歩いていると 「コウちゃん?」  また、背後から声がかかった。聞き覚えのある声だ。振り返った私は、今度は瞬時に相手のことを認識した。 「ヨッシー!」  幼馴染のヨシオがそこにいた。 「おお、すげえ久ぶりじゃん。元気だった?」 「ああ、ぼちぼちやってるよ。お前こそ、元気だったのか?全然音沙汰無いから、たまにどうしてるかなあとか思い出してたんだぜ」 「いやあ、すっかりご無沙汰しちゃってたな。すまん」  ヨシオとは同じ学年で、家も近所だったこともあって、小学校からの付き合いだった。中学までは一緒だったが、高校はお互い別の学校に入り、それから段々と疎遠になってしまった。だが、別に喧嘩別れをしたわけでもなく、実際今こうして再会してみると、すぐに昔のヨシオの笑顔を思い出した。 「いやあ、それにしても懐かしいね。それにしても、またどうして戻ってきたわけ?」  なんとなく並んで歩き出したヨシオが尋ねる。 「うん、まあ、お袋も亡くなって二年経ったしね。実家も土地も兄貴がさっさと処分したんだが、そうなるとかえって懐かしい気分になってさ。それで、ちょっと訪れてみたくなったんだ」  私が正直に話すと、ヨシオが笑顔で頷く。 「ああ、そうか。なるほどね。もう少し行くとお前ん家だな。一緒に行こう」 「付き合わせちまって悪いな。まあ、俺ん家っていうか、もと俺ん家のあったところ、だけどね」 「今でもお前ん家だろ」  ヨシオがゆっくり私の方を見る。 「いやいや、だって家も土地も、もう兄貴が売り払って、代金も綺麗に兄弟で分けたぜ」 「だって、見てみなよ。ほら、もうすぐそこだろう」  ヨシオが道の前方を指さす。その方向に一軒の二階建ての家を見出した私の目は思わず大きく見開かれる。白い外壁、緑色の屋根、黒い鉄製の門……あれは……私の実家……いや、そんな筈はない。とっくに人手に渡って、他人の家が建っている筈なのに。 「昔のままだよ。コウちゃん」  ヨシオが前を向いて歩きながら、静かに言った。 「まさか、そんな……」 「だって、そうだろう?今日、ここに来てからお前の見たものって……」  今日、ここで見たもの……私は突然思い出す。まだ母が実家にいた頃、たまに電話で話していた時に知らされた……「そう言えば小野寺先生、亡くなったのよ。心筋梗塞だって。まだお若いのにねえ」……そうだった。もうかなり前に先生は亡くなっていたんだ……そして……そう、三日ほど前に何気なく聞き流していたテレビのニュース「運転していたK町の会社員、南原義男さんが、全身を強く打って死亡しました」……今、気が付いた。あれはヨッシーの本名…… 「みんな、待っていたんだよ。コウちゃん、ほら着いたぜ」  いつの間にか、私達は実家の前まで来てしまっていた。戸惑う私の目に、誰か既に玄関の所に立っている人がいるのが見えた。  「おかえり」  扉の前に並んだ両親が微笑んだ。 [了]
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