婚姻届

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「いやー、それにしてもアリサちゃん、やっぱいいですわ」  二杯目のオンザロックを空にした常連客の浜田が、だらしない笑顔を浮かべている。 「お、また始まったぞ。浜田さんのアイドル礼賛タイムが」  隣の席に座った、これまた常連の石原がにやにやする。  今宵、鳥飼の小さなバーには、三人の客が座っていた。九時台でこの人数は、このバーとしては入っているほうだ。常連の浜田と石原、そして一見の客が一人、身なりのきちんとした初老の男性が、カウンターの隅の方でおとなしく飲んでいる。  真ん中あたりに座った浜田は、上月アリサというアイドルの熱烈なファンで、酔うと彼女の魅力、そして自分がいかに彼女を愛しているか、を滔々と語りだすのである。 「浜田さん、本当に彼女のことがお好きなんですね」  カウンターの中の鳥飼も、苦笑いを浮かべている。これを聞かされるのは今月もう三度目だ。ということは、つまり、浜田の来店も今月三度目ということになる。 「当然ですよ。僕はね、いつだって彼女に身も心も捧げることが出来ます!あ、おかわりください。同じもの」  ほんのり赤くなり始めた顔の浜田が、もう一杯ウイスキーを注文した。 「でも、浜田さん、つい先月までは蔵元美香ちゃんのファンじゃなかったっけ?」  石原も少々呆れた顔をしている。 「いいんですよ。所詮、ファンなんて移り気なもんですから、へへへ。つい三週間くらい前に彼女の動画見てね。もう一目惚れですよ!もう、美香ちゃんなんてとっくに忘れちゃった。今はアリサちゃんに一途です」 「なにが一途なんだか。随分と軽い一途だな」  石原の辛辣のコメントにも浜田はめげない。 「いいじゃないですか。所詮は想像の世界なんですから。映像の彼女を見ながら、あれこれ想像を膨らますくらい、許されるでしょう」 「まあ、想像というか妄想だね」 「妄想、いいじゃないですか。妄想大いに結構です。僕も彼女のリアルに、あんまり興味は無い。むしろ知らない方が妄想を膨らませやすいくらいですしね。妄想の中で、僕は彼女と恋愛したり、さらには結婚して、家庭を持ったり出来るわけです」 「まあ、そこまで割り切ってるなら、幸せかもね」  もはや石原は呆れ顔をしている。 「なにかおつくりしましょうか?」  一見客のグラスが空になっているのに気付いた鳥飼が、声をかけた。 「あ、それじゃ私もおかわりで。同じものを」 「かしこまりました」  鳥飼が一見客のグラスを取り上げる。 「いや、いいんじゃないですか?私も妄想、大いにアリだと思います」  おかわりのオーダーを契機に、一見客が話に入ってきた。 「そう思われますか?そうですよね、やっぱ、アリですよね!」  浜田が単純に乗ってくる。 「ええ、アイドルとファンの関係はもともとそれでいいんだと思います」 「いやあ、嬉しいなあ。ねえ、ほら、わかってくれる人はちゃんとわかってくれるんですよ」  浜田が鳥飼と石原にドヤ顔を見せる。 「ところで、妄想は妄想として、さっき仰ったように、彼女と結婚されたいと思われます?」  一見客が、浜田を顔を見る。 「勿論です!僕はいつだって、彼女に身も心も捧げる準備が出来てます!」  酔いの勢いもあり、浜田の声は大きくなる。 「なるほど。では、ちょっとしたプレゼントといいますか、面白いものがあるんです」 「面白いもの?なんでしょう」  興味を惹かれた浜田の前に、一見客が傍らのカバンの中から、一枚の書類を取り出してみせた。 「どうぞ。差し上げます」 「え、婚姻届け?」  浜田が大きな声をあげた。  それは役所に提出する婚姻届けの様式を模した、一枚の書式だった。勿論、あくまでも遊びのためのものであり、宛先には”天使の出張所長殿”と刷り込んであり、傍らに可愛らしい天使のイラストが添えられている。 「なるほど、キューピッドに提出するってわけですね。なんだかほのぼのしますね」  鳥飼が笑顔でフォローする。 「ここに彼女の名前と、あなたのお名前を書いて、天使に提出するというわけです。まあ、シャレですけどね。それでもゲン担ぎにはなるかもしれません」 「なるほどねえ。いや、これ、いいですね!頂いちゃっていいんですか?」 「どうぞどうぞ、安いものですから。因みに、上月アリサちゃんの本名ってご存知ですか?」  愛想よく頷いた一見客が、浜田に尋ねた。 「いや、そこまでは知らないんですよ。ファンになって、まだ三週間くらいなんで」 「ヤマモトリサコっていいます」  一見客が笑顔で答える。 「ヤマモトリサコですか。へえ、割と普通な感じですね」  石原が意外そうな顔をする。 「ええ、音にするとそうですね。ただ、漢字は少しばかり難しいですけど。ヤマモトの山は普通の山ですが……」 「あの、それ教えてもらえますか?」  浜田が膝を乗り出す。 「ええ、お安い御用です。というか、もう、この欄に書いてさしあげましょうか?」 「お願いします!あ、ペンならあります」  浜田から受け取ったペンを使って、一見客は、婚姻届けの「妻になる人」の欄に「山元璃瑳子」と記入した。 「なるほど、これは発音だけ聞いても、すぐにはわからないですね」  鳥飼が頷く。 「それにしても、よくご存知ですね。あの、ひょっとして、芸能関係のお仕事ですか?」  石原が尋ねると、客は少し照れたような表情で「ええ、まあ。そんなようなところです」とお茶を濁した。 「いやあ、なんだか嬉しいなあ。善は急げだな。もう、僕も名前書いちゃおう」  鼻の穴を膨らました浜田が「夫になる人」の欄に、自分の名前を大きな字で記入した。 「やった!これでアリサちゃんと夫婦になれる!」 「よかったですね。後はこれをお持ちになっていればいいんです。きっといいことがあると思いますよ」 「浜田さん、ご結婚おめでとうございます」  すかさずフォローする鳥飼に、石原も苦笑いしながら調子を合わせた。 「なるほどね。浜田さん、ご結婚おめでとう。お幸せに」 「皆さん、どうも有難うございます!いやあ、今日は本当にいい日だ!」  結局、その日は浜田は日付の変わるまで飲み続けていた。  それから一か月ほど後。  まだ誰も客のいない店の中で、鳥飼がぽつねんとグラスを拭いていると、扉が開いた。 「いらっしゃいませ」  入ってきた客の顔に鳥飼は見覚えがあった。二か月ほど前に来店した、例の初老の一見客だった。 「今晩は」  相変わらず上品な物腰で、遠慮がちにカウンターの端の方に腰掛ける。 「……確か、一度ご来店頂きましたよね」 「はい、もう前月のことですが、お邪魔させて頂きました。確か常連の方が二名ほどいらっしゃいましたね」 「ああ、そうでした。あの時浜田さん、若い方のアイドル好きの方ですが、その浜田さんに、”婚姻届け”をくださったんですよね」 「ええ。そうなんです。なんだか子供だましなものを押し付けちゃったみたいで、後から気になりましてね。浜田さん、あれから何か言ってらっしゃいました?」 「いえ、特に何も。喜んでいたと思いますよ……あれ、と言うより、そう言えば、あれから浜田さん、見えてないな」 「そうですか。お忙しいんですかね。いや、特にご不快な思いをされてなかったならいいんですが」 「それは無いと思います。大丈夫ですよ」 「もうお一方もお元気で?」 「ああ、石原さんはたまに見えます。一昨日もいらっしゃいました」 「なるほど」  頷く客の前に、鳥飼は静かにメニューを置く。 「お飲みものは如何されますか?」 「うーん、そうねえ。ちょっといいことがあったんで、少し奮発しようかな」  そう言うと、客は日本のウイスキーメーカーの、値の張るブランドを注文した。 「ストレートで。あと、チェイサーもお願いします」 「かしこまりました」  グラスの用意をしながら、鳥飼が尋ねる。 「何かいいことがあったんですか」 「ええ、実は、この度娘が結婚しまして」 「ああ、そうですか。いや、それはどうもおめでとうございます」 「有難うございます。いやあ、やっと片付きました」  客は穏やかな笑顔を見せた。 「お相手はどうやって?やはり、恋愛結婚ですか?」  鳥飼の質問に、客は少し戸惑ったような表情を見せた。 「うーん、何と言いますかね。あえて言えば見合い結婚ということになるのかなあ……」 「お見合いですか。最近では珍しいかもしれませんね」 「うーん、まあ、お見合いのような、お見合いとも言えないような……何て言えばいいのかな。なんだか、要領得ないですね。すみません」 「いえいえ、そんな。こちらこそ、立ち入った話を伺いまして、すみません」 「いや、いいんです。目出度いことには変わりがないですからね。私としても、誰かに話したい気分なんです。あの、もう一杯おかわりを頂けますか。同じもので」 「かしこまりました」  いつの間にか高級ウイスキーを空けていた客が、同じものを注文する。これは本当に機嫌がいいんだな、と鳥飼は思った。 「冥婚って知ってますか?」  グラスの準備をしているところに突然尋ねられて、鳥飼は一瞬面食らう。 「メイコン?いえ、知りません」 「冥王星の冥に、婚姻の婚と書きます。若くして亡くなってしまった人、まだ未婚の状態であの世に行かざるを得なくなってしまった人。そんな人にも、せめてあの世では幸せな家庭を持たせてやりたい。そんな思いから、亡くなった人に、死後に配偶者を見つけて婚姻を上げさせるという風習があるんです。やり方は場所によって様々ですが、世界各地にあります。ここ日本にも、昔はあったようです。ごく限られた地域になりますがね」 「そうなんですか」  鳥飼にとって初めて聴く話だったが、彼の中では俄かには理解が追い付かず、目眩のするような違和感だけが心の中に澱んでいた。死後の婚姻という概念自体、十分に薄気味悪い感じがするが、何よりも、そうやって一人の人間の死後の生活にまで生きた人間が干渉しようとする、その感覚。そこまでして”結婚”というものをさせようとすることに何の疑念も持たない、善意と愛情に溢れた物凄く強固な信念。そういうものに、何やら底知れない不気味さを彼は感じていた。  鳥飼の若干引き気味の表情を敏感に感じ取ったのか、客は照れたような顔をすると、帰り支度を始めた。 「あ、これは妙な話をしてすみません。ぼちぼちお暇します。お勘定を」 「かしこまりました」  鳥飼の渡した伝票を見た客は、少し多めの金額を払うと「とっておいてください」と言って立ち上がった。 「あ、これはどうも恐れ入ります」  慇懃に頭を下げる鳥飼に、勘定を済ませた客が笑いかける。 「いやあ、今日は本当に美味しいお酒でした。こちらこそ有難うございます」 「是非またお越しください。あの、そう言えば、まだお名前をお伺いしておりませんでしたが、もし宜しければ」  尋ねる鳥飼に、ほろ酔い機嫌の客が、ぽろりと答えた。 「ああ、ヤマモトと申します」 「ヤマモト様ですね。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」  ありふれた名前だなと鳥飼は思った。そう思いつつ、どこかで聞いたような気もしたが、どこでそれを聞いたのか、彼はすぐには思い出せなかった。 [了]
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