1話

1/1
14人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ

1話

夕日が地平線の彼方に消えようとしていた。 まっすぐ伸びた地平線に浮かぶ光の線が少し湾曲して見える。 ああ、大地とは本当に丸いのだなと、どこかの偉い先生の書いた本の内容を思い出していた。 「エンジュ! エンジュ!!」 遠くの方で叔母のカルミアが羊飼いの少女、エンジュを苛立った声で呼んでいた。 エンジュは慌てて指笛を吹き、野原に散らばっていた羊を集め、小屋の方へ走っていく。 夕日が完全に落ちて、空が真っ暗になる前に羊たちを小屋に戻さなければいけない。 一匹でも戻し忘れて、小屋の柵を閉めようものなら、カルミアにどんなお仕置きをされるかわからなかった。 日が落ちて真っ暗になると、村の中と雖も出歩くのはとても危険だった。 そんな状態で野原に羊を放置しておけば、間違いなく魔物にやられる。 カルミアや叔父のアキレギアにとってはエンジュよりも羊一匹の方が大切なのだ。 エンジュは小屋に戻って来た羊を指差しながら、数を数えた。 全ての羊が小屋に戻って来たのが確認できると、エンジュはほっと胸を撫でおろして、小屋の柵を降ろし、家の方へ駆けて行った。 その頃にはもう空は真っ暗で、一番星が力強く輝いていた。 重い扉を開けて、エンジュは家の中に入る。 中では既にアキレギアと従妹のアネモネが夕食を食べていた。 カルミアは相変わらず機嫌が悪いのか、火にかけた大きな鍋を豪快にかき回している。 そして、それを粗末な木の器に入れると器を荒々しく床に置いた。 エンジュが慌ててスープの入った器を取りに行くと、一緒に水分が抜け固くなったパンを投げてくる。 そのパンを落とさないように必死で受け止めると、エンジュはアキレギアたちから離れた部屋の隅で食べ始めた。 家族でもないエンジュが彼らと一緒のテーブルで食事をすることは許されない。 彼らの使っている器はエンジュの物とは違い、同じ木製でも蜜蠟が塗ってあり、つやつやと輝いていた。 パンもまだ十分に水分を含み、エンジュのパンのように嚙み切れないほど固くなどなかった。 器に入ったスープもエンジュの物だけ具材が殆どなく、鍋の底で焦げた野菜が数欠片入っているだけだ。 これではまるでそこいらの家にいる番犬の餌とさほどかわらない。 それでも食べ物を与えてくれるのだから、文句は言えなかった。 食事を終えると器を持って、部屋の隅にある木のバケツを手にする。 その中に器を入れて、同じようにテーブルに並ぶ食べ終えた食器も回収して、外に出た。 外にある沢から流れる水を引いてきた冷たい水場で、藁で丸めたタワシを使って汚れを落とし、洗った。 そのタワシで器に傷をつけたり、汚れを少しでも残したりすれば、カルミアにひどく怒られる。 だから、月明かりの淡い光の中、必死で目を凝らしながら、器がピカピカになるまで洗うのだ。 それが終わると、家に戻り、器を布巾で拭き、食器棚の上に並べた。 「あんたは仕事が遅いんだよ!」 カルミアはそう言って、棚に食器を戻すエンジュに藁のタワシを投げつけた。 そして、スープがすっかりなくなった鍋を指差し、甲高い声で怒鳴りつける。 「鍋も残っているんだからね。さっさと動きな!!」 カルミアはいつもエンジュにきつくあたることが多いが、今日は特に機嫌が悪そうだった。 恐らく隣に住むガランサスのおじいさんにまた畑の事で文句を言われたのだろう。 ガランサスのおじいさんは普段は物静かな人だが、畑の話になると人が変わったように神経質になる。 特に最近は、作物の育ちが悪く、収穫の前に枯れてしまうものも多かったので余計に苛立っているのかもしれない。 しかも、先日には山の麓の農家の畑が獣たちに軒並み食い荒らされていたらしく、村の作物は不況だった。 このままでは国に治める税金が足りなくなってしまう。 このような状況になると村中がどこかピリピリとした雰囲気を漂わせるのだった。 エンジュはその重い鍋を鉄の棒で竈から下ろして、布で取っ手を覆い、体に当たらないように慎重に家の外に運び出した。 そして、再び水場に行き、鍋を洗おうとした時、村の端から煙が上がっているのが見えた。 微かに森の手前、村の端の方が明るい。 あれは炎の明かりだとすぐに分かった。 エンジュは急いで家に戻り、カルミアに外の様子について知らせる。 「村の端で炎が上がってる! 広範囲で火事が起きているんだ!」 エンジュがカルミアにそう叫ぶと、彼女は椅子から立ち上がり、眉間に深いしわを寄せてエンジュを睨みつけた。 その表情だけでエンジュの身体は十分に震えた。 「あんた、掃除をサボりたいからって嘘ついているんじゃないでしょうね!?」 エンジュは必死に顔を横に振った。 カルミアもエンジュが故意にそう言っているのではないとわかると、エンジュを押しのけて扉を開ける。 すると、村の奥の方から村人たちの叫び声が微かに聞こえた。 煙もさっきより更に上がっている。 これはただ事ではないとカルミアも判断し、すぐに部屋の奥にいたアキレギアを呼び出した。 「あんた、あんた! ちょっと来ておくれよ!!」 カルミアの声にアキレギアが何事かと、煩わしそうな顔をして出て来た。 「うるせぇな。俺はもう寝るところなんだよ!」 「それどころじゃないよ! 村が焼けてんだよ!!」 「はぁ!?」 アキレギアはカルミアの言葉が信じられなかったのか、自らも家の外に出て村を見渡した。 確かに村からは煙が上がり、数人の叫び声や何か金属が擦れる様な音もした。 「おい、これはやばいぞ。山火事なんてレベルじゃねぇ。隣の国の兵が攻めて来たんだ!」 「攻めて来たんだってあんた、この村と隣の国との国境には関所があっただろう? あそこには大きな街もあったはずだ。それを抜けてここまで来たって言うのかい?」 「そうだ。そうとしか考えられない。あの街の兵士たちを倒して、ここまで攻めて来たんだ!!」 アキレギアの顔は真っ青だった。 そんな彼の腕にしがみ付きながら、カルミアはまだ信じられないという顔をしている。 しかし、このまま呆然としていても、家族もろともやられるだけだ。 カルミアは慌てて、部屋の奥にいるアネモネを呼びに行き、逃亡する準備をさせた。 それを呆然と見ていたエンジュにカルミアは怒鳴りつける。 「なにぼぉっとしてんだい! あんたも早く準備するんだよ!!」 カルミアの声は震えていた。 アネモネも不安そうな表情で鞄に荷物を詰めている。 エンジュは近くにあった麻の袋にとにかく最低限の食料を詰めて、家を出た。 家の前では、アキレギアが農具のピッチフォークを持って、早く家を出るように妻と娘の背中を押す。 エンジュはその3人について行くように、駆け出した。 しかし、事態はもう遅かった。 村の半分以上が焼け野原になっていて、村の反対側の出入り口にも既に兵士が数人立っていた。 目の前に倒れた血だらけの男たち。 それを見ただけで、カルミアたちは大きな声で悲鳴を上げた。 「お前たちもこうなりたくなかったら、大人しく投降しろ! 男は左、女子供は右側に集まるんだ!!」 異国の兵士は鎧をつけたまま、剣を振り回しながら叫んだ。 アキレギアたちもこの状態を見たら、もう従うしかない。 アキレギアは右の村の男たちのいる集団に、カルミアたちは左の女子供たちの集団の中に入っていく。 アネモネは恐ろしいのか、体を震わせながらカルミアに抱き着いている。 カルミアもアネモネの手を握りしめながら、これからの事を憂慮していた。 エンジュだけは誰に頼ることもできないまま、ただ集団の中で大人しく座っているのだった。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!