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そいつは、階段をゆっくり上がってきた。
「……社長」
「もう社長じゃねぇよ、ただのじじいだ。ガキの頃みたいに稔って呼べよ」
「なんで俺がいるとわかった」
「さっき佳代さんから聞いた」
俺はちっ、と舌打ちする。妻には「病院のあと、散歩して帰る」としか言っていない。どうしてわかったんだか。
「隆行、どこから入った。
門は施錠してあったはずだが」
「……裏の金網が壊れてた」
いつもより病院が早く終わった三か月前のこと。ふらふらとこっちに足が向いて、気づいたら裏から入り込んでいた。扉のダイヤル錠は社長の誕生日に合わせたら開いて、それから病院通いを口実にここによく来ている。
「お前な、そんなこそ泥みたいな真似してまで、なんだってここに」
「何も悪さはしちゃいない。ちょっと昔を懐かしんでいただけだ」
しょうがねぇな、と言って社長――いや、稔は軽く笑った。
「通報される前でよかったよ。で、なんだその荷物」
「別に何も。普通の荷物だよ。タオルに水筒にせんべい。
ここで昔を思い出して、ぼーっとして、ちょっとお茶して帰るだけだ。あとはこれだな」
俺は白い紙袋を取り出す。病院からもらっている神経痛と血圧の薬だ。稔はにやりと笑う。
「俺も薬は飲んでる。お互い年をとったな」
稔と出会ったのは幼稚園だ。時が流れるのは早い。あっという間にじじいになってしまった。
それに、この廃工場も。
「……ずいぶんとさびれちまったな」
稔のつぶやきにうなずき、階下を見渡す。
稔が社長をしていた田川金属加工有限会社は半年前に閉鎖した。
職人技を売りにしていたが、ここ数年は作業の機械化が進む他所の工場に仕事を持っていかれていた。赤字になる前に稔はうまいことやりくりして、綺麗に家業をたたんだ。
比較的新しい機械は業者に引き取ってもらい、今はぽつりぽつりとスペースが空いている。前は二十数名の従業員が機械音に負けないよう怒鳴るように会話していた。
俺は加工の仕上げ、研磨、塗装などを担当していた。休まず、こだわりを持って仕事することに誇りを感じていた。
外には資材置き場、トラックや従業員の車が停まっていた駐車場がある、だが今はがらんとしていた。
「稔、ここ、どうするんだ」
稔にとっては、親から継いだ工場だ。俺より思い入れはあるに違いない。
工場を閉めた時には売却の話も何も出ていなかった。周辺一帯は工場だが、ここと同様、閉鎖しているところも多い。
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