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「先輩、あの…」
後輩のクナが、肩を叩く。
「窓口対応、お願いできますか?その…」
言い淀むその態度でよく分かる。
婚姻のルールが変わり、新たに婚姻関係が認められる対象が広がったけれど、婚姻届の記入がしにくいケースがあるのだ。
そのままでは受理できない場合、記入方法について案内が必要だが、デリケートな話題なので慣れていないと失言をする場合もある。
「分かったよ」
デスクから、1枚の用紙を持って。
窓口へ向かう。
平日の昼下がり。
1人で窓口に現れたのは、中年の女性だった。
「イチハラ様ですね」
「届を出したいけれど、
これでいいのか分からなくて」
妻の欄に書かれたのが、イチハラ氏の名前。
最終改暦から80年後の生まれ。
つまり今年47歳。
夫の欄に書かれたのは…
「ウルル様というのは」
氏がなく名のみ。
生年月日を見ると、改暦後122年の生まれ。
つまり15歳。
つまり未成年のようだが。
「…犬です」
なるほど、犬か。
「ではこの書式では記入にお困りの点も多かったかと思われます。
こちらの書式に記入いただけると良いかと」
差し出したのは、婚姻解釈拡大に関わる法務大臣通達対応婚姻届。
通称2番書式だ。
「ニンゲン以外との婚姻の場合は、左側にイチハラ様ご自身のお名前を。
右側にウルル様のお名前をお書きください。
右側の欄には氏名の別がありませんので、お名前だけで構いません。
署名や証人欄の記載もイチハラ様だけで構いません。
そして分類のチェック欄の“動物”にチェックを。
法務省のホームページに、犬種ごとのニンゲン換算年齢表が載っていますので、提出前にそちらで、ニンゲン換算で成人済みかどうかの確認をお願いいたします。
合わせて動物病院発行のDNA証明をお願いします。
犬種と年齢を確認しますので」
「分かりました。
年齢は多分大丈夫だと思います。
もう結構な老犬なので」
結婚しようというほど愛するペットなのに連れてこないのは、そういうことか。
差別解消に関する法律によって、定期検診と予防接種を受けているペットの場合は、認証されたケージやリードを使用する限り、公共施設への出入りを禁止してはならなくなった。
飲食店でも、ペットを断る際には相応の理由をあげなければならない。
それでも連れてこないのは、その愛犬自身があまり動けなくなっているということだったらしい。
「右のウルル様の欄は、両親欄が空欄でも構いません。
元々戸籍がないので本籍の欄はありません。
愛犬の場合、親の欄には譲り受けたブリーダーの名を書いたり、親犬の名前を書くこともあるようです」
「空欄のままで良いならそうします」
愛を誓うのは自由。
でも周囲の人間がどう思うかまでは変えられない。
見たところイチハラ氏は、礼儀正しく堂々としていて、おそらく働いて自立している。
それがなぜ、ペットと婚姻関係を結ぼうと思ったんだろうか。
試し書きした婚姻届を見て気付いた。
彼女には前にも結婚歴がある。
理由は、死別。
「婚姻にあたり、いくつかのご案内があります。
一方がニンゲンでない場合は、婚姻成立後も扶養家族として扶養控除を受けることはできません。
また遺産相続の対象とすることもできません。
ただしこれは然るべき団体に遺産を寄付すると言う形式を取り、自分の死後、愛犬の養育を委託するということは可能です。
生命保険会社が間に入り、遺言状の作成を同時に行える団体が安心です」
「…ありがとうございます」
イチハラ氏は少しの間、ポカンとして聞いていた。
「あの、多分大丈夫です」
それが彼女の口癖なのだろうか。
「私より先にウルルが死ぬことは、
ないと、
ないと思います。
だいぶ老いて、
私が看取るんだと思っています」
空欄だらけの婚姻届を見下ろす。
「夫とは病気で死別したんです」
今時珍しい。
まだ不治の病というものがあるのか。
生前診断により遺伝病は駆逐され、ゲノム医療による個人単位のがん治療も一般化し、現代社会の死因の1位は交通事故。
2位は自死だ。
「この子は私が世話をしないと生きていけない。
でも、それと同じくらい、私もこの子なしに生きていけないんです」
また死別すると分かっていながら、婚姻を?
口にしなくても、イチハラ氏はその疑問符を察したらしかった。
「この子に対する誠意を、誓いたいんです。
最後まで、一緒にいるために」
彼女は2番書式を受け取ると、笑顔で礼を述べて窓口を後にした。
夫との別れには、後悔が残っているのだろうか。
「死別のやり直しだ」
デスク仕事をするふりをして聞き耳を立てていた後輩へこぼす。
「大事なことです。
婚姻関係にあれば、愛犬の通院や世話のために職場の介護休暇が使えます。
忌引きも」
「…そうだね」
「結婚って、何なんでしょう」
「約束。
ヒトは忘れるから」
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