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プランB①
——彼が触れた背中の、この感触は覚えておこう——。
鮎川は階段を下りた。
早足だが、身体に負担のかからない速度で。
母親には感謝しかない。
心臓にも肺にも欠陥を持ち生まれた赤ん坊を、泣かさないよう、興奮させないように育てるのは、どれほど大変だったろう。
背中に残る余韻を大事にしていたら、掴んでいる手すりの質感にも意識が向いた。
冷たく、固い。
だが触れているうちに手馴染みがよくなってくる。
階段を下りる足にも注意を向けた。
一段、一段。
足裏の感覚を確かめるように歩く。
呼吸にも注意を払うと、埃っぽい匂いに気がついた。
——今を味わうとは、こういうことか。
三階には遅い時間までやっている歯医者と不動産屋が入っていて人の気配が感じられたが、二階は防火戸が閉まっていた。
フロアの様子はわからないが、鉄の戸の奥から奇妙な笑い声のようなものが聞こえた。
男とも女ともつかない、甲高い声——。
鮎川は通り過ぎながら、くすんだクリーム色の防火戸を見た。
突然、笑い声らしきものが止む。
鮎川は足を止めることなく階段を下りたが、ふと、エレベーターが二階で長い事止まっていたことを思い出した。
エレベーターで下りていく秀一たちを見送った時に感じた違和感も。
——なんでもない事なのかもしれないが……。
一階のエレベーターホールは、人でごったがえしていた。
このビルの四階は、カルチャースクールが入っている。
レッスンを終えて下りてきたところなのか、大声でおしゃべりを続ける女たちが通路を塞いでいた。
鮎川は、女たちをかきわけて外に出た。
外には多聞と未央がいた。
「——アユ、予定変更だ」と多聞の言葉は歯切れが悪かった。「俺とアユで、怜ちゃんの叔父さんに会うことになった」
「都筑さんのところには、僕だけで行く」と未央の顔も緊張していた。
「秀一たちは、どうしたの?」
言いながら鮎川は、いま出てきたビルを見上げた。
このビルの最上階、六階は鮎川の親戚でもあるオーナー一家の住まいになってる。
五階はファミレス。
四階はカルチャースクール。
三階は歯医者と不動産。
一階はイタリアンレストラン。
二階はテナント募集中となっていた。
「——捕まったみたいだけど、大丈夫。秀ちゃんが、なんとかしたって」
鮎川はビルから未央に、視線を移した。「捕まったって、どういうこと?」
「待ち合わせの時間に遅れてるから、僕はもう行く」と未央は細かい説明を避けたいのか、下を向いた。
「アユ、俺達も行こう!」と多聞。「もう一時間しかない。アッちゃんだって、いつまでも、石黒さんを止めてらんないだろ」
「秀一たちが危ない目にあってるのに、放って置くの?」
意味が分からない。それこそすぐに警察に通報するべきだろと、鮎川は訝った。
「秀ちゃんは、危なくないよ。危ないのは、相手のほうだ」と未央はきっぱり言い切った。「弘一さんのことは解決したから、あとは都筑さんとバスの運転手さんだけだよ」
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