1.白魔

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やめろ、もどれ、という谷中さんの声はびゅうびゅういう吹雪の音にかき消された。俺はマフラーで顔の下半分を覆って歩き出した。目と鼻の先というんだからすぐ着くだろう。建物は一キロにひとつくらいしか見あたらないのだから、次に見つかった建物が社宅に違いない。  ショートブーツの履き口より深い雪をかき分けて進む。正直なところ数時間前までは、駅で見かけた地元の人たちの格好の田舎臭さを馬鹿にしていた。しかしこの気候条件を目の当たりにして、嫌と言うほど納得した。吹雪の雪国で俺の着ているものは何の役にもたたない。帽子を被っていない俺の頭はものの数分で真っ白になり、マフラーの隙間から吹き込む風で耳が凍り付いた。手袋をはめていても指先はかじかみ、ショートブーツの履き口から雪が詰め込まれて死ぬほど冷たい。そして目の前はただただ白いだけ。試しに振り返ってみるが、谷中さんの家の群青色のガレージももう見えない。足が雪にとられてもたつく。東京では数センチの雪で交通機関が麻痺するが、こちらのドライバーは平気でアクセルを踏み込み、子供も老人も涼しい顔で歩いていた。今、俺の足は太腿まで冷たく一歩踏み出すのも辛い。  ホワイトアウト。    まさか本当に、数メートル歩くだけでこんなことになるなんて。もはや谷中さんの家がどの方角だったか、自分がどこに向かっているのかもわからない。何がカシミアだ。何がイタリア製だ。現地の気候も調べず、東京のエリート風を吹かせた格好で来たことが、どれほど浅はかだったかを思い知らされる。谷中さんの言うとおりにすれば良かった。いや、むしろ駅前のホテルに泊まって、吹雪が収まるのを待てばよかった・・・・・・考えれば考えるほど、自分の馬鹿さ加減が嫌になる。  そもそも江美里にゲイだってばれなければ、今頃東京で結婚が決まっていたかもしれない。必死に仕事をして出世の為と覚悟して女を抱いた。一生安泰のレールに乗ったと思っていたのに。なんだって俺がこんな田舎にとばされなきゃならないんだ。それもよりによって猛吹雪の日に。雪がまつげにはりついて涙が勝手に流れ出る。ただでさえ悪い視界がどんどん狭まってゆく。  気がついたら、俺はうつ伏せに雪の中に倒れ込んでいた。立ち上がりたいのに手足に力が入らない。遭難の二文字が頭に浮かぶ。眠くなると聞いたことがあったが、眠いというよりはぼんやりして、さっきまで冷たくて痛かった指先や耳も感触すらない。麻痺しているんだろうか。  本当にこのまま死ぬのか。  谷中さんの言うことを聞けばよかった。吹雪が収まるまで、俺は誰にも見つけてもらえないんじゃないか。いや、さらに雪が積もってしまったら、春になって解けるまで見つけてもらえないのかも。   「おい!」  東京で成功できないなら、仕事なんかしたって無駄だ。こんな田舎じゃきっと友達も出来ないし、遊びに行く場所すらない。ゲイだって隠して生きてきたから、同性の恋人もいない。時々歌舞伎町で欲求不満を解消する程度だった。左遷された時点で人生の楽しみはゼロになった。島流しだ。   こんなことなら、このまま死んでしまいたい。  そう思った瞬間、その声は聞こえた。 「しっかりしろ! 死ぬぞ!」  力強い腕に雪の中から引っ張り上げられた。そして頬に鋭い痛みを感じて、急に意識がはっきりした。 「目を開けてろ!」  体ごと持ち上げられた。これでも身長は百八十近くあるし、そんなに痩せ形でもない。なのに、軽々と肩に担がれて脚が地面につかない。助けてくれた男はコの字型の俺を抱えて雪を漕いで歩き出した。  記憶がはっきりしているのは、そこまでだった。
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