1.白魔

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1.白魔

「お客さん、悪いけど無理だわ」 「えっ、」  乗り込んだタクシーの運転手は、行き先を聞いて難色を示した。 「こ、困るんですよ、何とか今日中に着きたいんです」 「そう言われてもねえ。予報じゃこれからもっとひどくなるって言うからねえ」 「そこをなんとかなりませんか?」 「お客さん、内地のひとかい?」   ナイチ、という聞き覚えのない単語に俺は小首を傾げた。 「まあ、その格好は地元じゃねえよなあ」  その格好って。真冬仕様のカシミアのコートを着てきたぞ。足首までのショートブーツはイタリア製。レザーの手袋と、やっぱりカシミアのマフラーまで巻いてきたって言うのに。駅に降り立ったとき、周りは分厚いダウンコートに毛糸の帽子を目深に被っていたりして、確かに俺は浮いていたけれど。着いた時には晴れていた空は、電話をしているうちにみるみる暗くなってゆき、いつしか吹雪になってしまった。 「兄ちゃん、ホワイトアウトって聞いたことあるかい」 「ホワイトアウト?」  さっきから何を言ってるんだ、このおっちゃん。ホワイトアウトって、映画か何かで聞いたことはあるけど。 「今日は夜までに、風速三十メートル近くなるって言われてるんだわ。ホワイトアウトになったらもう、身動きできんくなるよ」 「で、でも、こっちで運転手してるんですから、平気ですよね?」 「・・・・・・あのねえ」  運転手はあきれたようにため息をついた。 「どんなに慣れた運転手だって、あれに遭ったら立ちうちできないって。吹雪は明日の朝まで続くって話だから、悪いこといわないから、今日はやめときな」  そう言って運転手は、申し訳なさそうに俺に会釈をした。有名大学を出て、誰もが一度は名前を聞いたことのある製菓会社に入社。いわゆる「勝ち組」だ。仕事は順調で、自分で言うのも何だがめきめきと頭角を現した俺は、同期たちの羨望の眼差しを一身に浴びつつ異例のスピードで昇進。入社三年で「重役の娘」と見合いをした。それはつまりさらなる出世を約束されたも同じ。   (ねえ・・・・・・これ何?)  重役の娘江美里(えみり)は事後、俺がシャワーを浴びて出てくると、シーツを胸まで引き上げてベッドの上で勝手に画像を垂れ流すスマホを指さしていた。 (え?) (これ、あさひ、だよね?)  江美里の声は震えていた。指している人差し指も小刻みに揺れている。スマホからは小さく音声が流れていて、携帯を手に取ろうとベッドに近づいた時、血の気が引いた。  裏返った喘ぎ声と、スプリングのきしむ音。AVさながらのセックスシーンだが画像は荒い。スマホのカメラで撮られたいわゆるハメ撮りだ。獣の交尾のように後ろから激しく突き上げている男と、受け入れているのもまた、男。女役の「ネコ」の男が、あさひ、あさひと喘ぎ声の隙間に叫ぶ。そしてその「ネコ」を嬉々として犯しているのは紛れもなく俺。必死に弁解しようとした声が、みっともなくひっくり返った。 (こっ、これは違う、違うよっ) (旭でしょ?) (違う、これは他人だよ、きっと友達がふざけて)  焦って画像を消そうとするが、手が震えてうまくいかない。 (メッセージきてた) (メ、メッセージ?)  バナーが表示されたのを江美里が勝手に開けたのだろう。たて続けに新しいメッセージが画面の上部に、ポコン、と間抜けな音を立てて表示された。 (この間の土曜日のハメ撮り送るね~、また会いたいな)  最悪だ。  なんでこんなタイミングでバレるんだ? せっかくここまで完璧に隠して来たのに。逆玉の輿にもうすぐで乗れるところだったのに。完全世襲のこの会社において平社員が上り詰める手段はただひとつ、重役の娘との結婚だ。江美里は社長令嬢ではなく、専務の娘。副社長は社長の妹で高齢、子供がいない。専務は社長の従兄弟だが、事実上次期社長ではないかと噂されていたから、江美里を狙ったのに。  動画の相手は行きずりで寝た男。連絡先だって教えていなかったのに、どうして。 (ホモ・・・・・・なの? )  そのとおり、俺はゲイだ。世の中では未だ、差別用語の「ホモ」と言われることの方が多い。自分の性的指向を押し隠してまで出世に命をかけたのに、土壇場で最悪のバレ方をした。   (この間の土曜日って・・・・・・同窓会だって言ってなかったた? ) (誤解だ、江美里、違うよ)  とっさに伸ばした手を力一杯振り払われた。 (何が違うの?! これ、旭でしょ? っていうか、男に挿れたやつあたしにっ・・・・・・?!)  状況を把握した途端、江美里はいやあああと大きな声を上げた。浮気されたことより、俺の体を通して見知らぬ男の尻の穴と繋がってしまったことのほうがショックだったらしい。そして俺は翌日には専務に呼ばれ、当然婚約は解消、周りの社員たちにも当然のように知れ渡っていた。それまで俺に一目置いていた上司も同僚も、尊敬してくれていた後輩たちも、手のひらを返したように蔑む視線を向けてきた。  そして一ヶ月後、俺は北海道の片田舎の支社に飛ばされることになった。前任の支社長が退職するというので、そこを任されるという。それも支社は道庁所在地の札幌ではなく、名前も聞いたことのない小さな町にある。近くに工場があり、支社長というよりは工場長に近い、と聞いた。営業畑でぶいぶい言わせてきた俺が、どうしてこんな片田舎に。それも着くなり吹雪だって? 明日から仕事が始まるっていうのに、最寄りの駅からはバスすら出ていない。タクシーには乗車拒否され、どうやって町にたどりつけっていうんだ? 諦めずに片っ端からタクシーを捕まえて、住所を伝えどうにかここまで今日中に着きたいと何度も詰め寄ったが、どの運転手も首を縦に振らない。JRの駅員に事情を説明しても、あきらめてホテルに泊まった方がいいと説得される始末。 「兄ちゃん、○○町に行くのかい」  駅の長椅子でうなだれていると、ひとりの男性に声をかけられた。日に焼けた肌をしたその男は、太股の真ん中くらいまでのダウンコートとニットのまるい帽子を被り、足下は工事関係者が履くようなしっかりとした長靴。五本指の手袋は分厚く、いかにも雪国の男といった風貌だった。 「そ、そうなんです、今日中には着きたくて・・・・・・」 「俺ん家、○○町のすぐ手前なんだけど、乗ってくかい」  男性は車のキーをチャリチャリと鳴らした。俺は一も二もなくその申し出に飛びついた。ほら、やっぱり車で行けるじゃないか。なにがホワイトアウトだよ。  しかし背後で駅員が大きな声を出す。 「谷中(やなか)さん、大丈夫かい。そうとう荒れるって話だよ」 「ああ、だから急いで行くよ。家に帰らないわけにはいかんからなあ」 「くれぐれも気をつけてな」  駅員とこの親切な男性は顔なじみらしい。それほど小さな町なのだ。俺はさっきから、ここに住む人たちの言葉の独特なイントネーションにげんなりしていた。田舎に来た、ということを実感せざるをえない。俺は都会が好きだ。さっさとこっちでいい成績を上げて東京に戻る。必ずもう一度上り詰めてやる。  と、まあ、そんないきさつで「足」を手に入れることが出来た俺は、谷中という住人の車の助手席に乗り込んだ。ワイパーが最速で行き来してもフロントガラスは真っ白で、先行車のテールランプが見づらくなってきた。谷中さんは眉間に皺を寄せて運転していたが、ぼそっと「こりゃだめだ」と呟いた。 「えっ?」    「兄ちゃん、今日はこれ以上進むのは無理だ。うちに泊めてやるから、行くのは明日にしな」  「こ、困ります」 「ホワイトアウトをなめちゃいかん。今はぎりぎりなんとかなるが、あと十五分もしたら一メートル先も見えなくなるぞ」 「そんな大げさな・・・・・・もう、すぐ近くなんですよね?」 「大げさじゃねえぞ。確かに目と鼻の先だが、たとえ数メートル先だって本当に遭難する。内地の人間にゃわからんだろうけど、悪いことは言わんから今日は泊まってけ」  またナイチ。そしてホワイトアウト。確かに危険だと聞くが、たったの十五分でそんなことになるだろうか? ひどい吹雪には変わりないが、まだかろうじて周りの景色は見える。谷中さんはハンドルを切って、自宅らしき一戸建てのガレージの前に車を停めた。俺を車内に残して谷中さんは外に出て行き、玄関を囲むガラスの風除室に入った。それをこちらでは「玄関フード」と呼ぶのを後から知った。中に立てかけてあった大きなスコップを出してきた谷中さんは、ガレージ前に吹き付けた雪を除け始めた。  本当に今日は無理なのか? 明日の朝一で支社長として初めての関連会社とのリモート会議がある。左遷されたからこそ、このタイミングをすっ飛ばしては信用問題に関わる。これ以上の田舎に飛ばされることはないだろうが、今はこの地位をなんとしても死守せねば。  会社の社宅がひとつ開いていて、今のところはそこに住むことになっている。資料写真を見たところひどくみすぼらしい建物で、仕事が落ち着いたら俺は新居を探そうと思っている。谷中さんが雪かきを始めて五分、俺は鞄を手に取った。横殴りの風と雪の中車を降りると、作業中の谷中さんに向かって叫んだ。 「谷中さん、ありがとうございました!ここからは自力で行きます!」 「え?! お、おい、あんた!」
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