0人が本棚に入れています
本棚に追加
「ようやく咲いた。あの人が定年の時に買ったのだから、ええと、十五年もかかってのね」
棘に触れぬよう、そっと花弁をなぞる。居間の一角を陣取るはバスケットボールくらいの大きなサボテン、名前はキンちゃん。キンシャチという品種らしいが私は詳しくないし、詳細を訊ねられる人もいない。これを買って面倒を見ていたのは夫で、その人は既に亡くなったからだ。
昨日に夫の四十九日がようやく終わった。湿った空気の中に執り行われた葬儀に比べると、気候も雰囲気もからりと渇いたように感じる。当日は喪主の責任と忙しなさに追われ、今日に至ってはもはや涙や鼻水よりも噴き出すのは汗ばかりであった。この老体には涙を溢す余裕もなかった。
数少ない涙の湿度もキンちゃんに吸収されたようにも思えるが、実のところ溢れるほどの涙など最初から存在しなかったのかもしれない。関係が冷え切り離婚も間近、などということは一切合切なかったのだが私たちは乾いていた。
息子も娘もとうに巣立ち、共通の趣味の一つもない私と夫。互いに干渉せず、挨拶もそぞろ。嫌うほどの激しい感情もないが、愛を語るほど優しい感情もない。
夫は元々、口数の多い人間ではなかった。多くは語らず、本心もあまり見せず、寡黙な背中と瞳で語る。力強いその腕に引かれ、若い時分は私の恋心は大いに震わされていたものだ。
もう手は引かれない。私は一人で先を歩かなければならない。
ということは、このサボテンの面倒をみる人物も私になったということだ。夫が亡くなってからは私が適当に水をあげていたが、花をつけるほどに成長したキンちゃんを枯らしてしまうことは忍びない。
「そうだ。あの人はキンちゃんの世話をする時、よく本を読んでいたわ」
夫の部屋、夫の文机。椅子に腰掛けて見える景色は、例えるならば、秘密基地だった。アメコミヒーローの小さな可動人形は関節の塗装が剥げ、黄色い重機のおもちゃは机で走らせすぎて履帯がガタガタ。このロボットはガンダムなのかと私が聞いたら怒られたのも良い思い出だ。小さな頃からきっと性根が変わっていなかったのだろうなあと思うと、少し可笑しかった。
ブックスタンドに手を伸ばせば、サボテンの育て方。そう、この本だ。
引出しに仕舞われた老眼鏡を借りる。まるで夫の目を通して世界を見る気分。私はとっぷりと、夫とキンちゃんのことを思い返しながら本を読み始めた。
「あらあら、大荷物ですねえ」
「ん」
四十五年の会社勤めを終えた夫の顔は普段と殆ど変わらなかった。口数少なく、表情筋の動きもわずか。昨日までと違うところといえば、通勤鞄以外の荷物が大量にあるということだった。
「立派な花束。これは花瓶にさしておきましょう。この包みは……カタログギフトですね。こっちのビニール袋は、本屋に寄ってきたんですか? サボテンの育て方?」
夫の返事はなく、顔を見ても本心は伝わらず。さらに夫の背後へと目を向ければ。
「サボテンじゃないですか。どうしたんですか、こんなに大きなものを」
「買った。キンシャチのキンちゃん。私が育てる」
それだけ言うと満足したのか、居間にサボテンを飾りさっさと風呂へ向かってしまった。
まったく。どうせ世話をするのに飽きて私が育てるのだろう。まあ、サボテンならある程度は放っておいても平気だ。適当にやればいいか。
などと考えもしたものだが、飽きっぽい夫には珍しく毎日の世話をしていたようだった。土の渇き具合から日光を当てる時間まで、本を読みながら毎日丁寧に、慈しむように。
向ける目の優しさには偶に、ごく偶にだけれど嫉妬を覚えるほど。昔は私もよく視線を受けていたようにも思えたから。
「ああ、花の解説はここね」
パラパラとページをめくると自然に開いた。開き癖が付いているようで、夫はよく花に関する記載を読み込んでいたようだ。
「どうせ育てるんだもの。花を咲かせたいとも思うわよね」
その気持ちは自然なことだ。私だってどうせ咲いた花ならば適切に育ててあげたいと思って夫の本を読んでいるのだ。
「へえ。花をつけるのに二十年くらいかかるのね。うちのも十五年かかったし、手間のかかること」
それをあの夫が続けていたとは今でも少し信じられない。何が彼をそこまで動かしていたものか。
花の解説を読んでいると、赤線を引かれた箇所を見つける。それはサボテンの花言葉に関する記述だった。『咲いたら教える』というメモ書きも添えてある。
「燃える心、偉大、暖かい心」
そして。
「枯れない愛」
特に目立つよう印付けられた『枯れない愛』という言葉。
「そんなの、口で言ってくださいよ」
などと文句をたれるがあの男には土台無理な話だ。
口下手で、無愛想で、無表情で。
「私を愛してくれた人には」
夫が亡くなったことは心臓に穴が空くほどの心持ちだし、彼の愛を思い出したことはこの歳でも顔が熱くなる。
それでもやっぱり涙が出ないのはキンちゃんに水分を取られているに違いない。
きっとそう。だってこんなにも声をあげて笑ったのは久しぶりだから。
最初のコメントを投稿しよう!