終章 まだ人生に負けたわけではないから……

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◆◆◆  それから、しばらく紫英の狂乱の日々が続いていた。  自分に一言の相談もせず、英清を皇帝に擁立した宰相がよほど許せなかったらしい。  集めた神獣関係の書籍を破ったり、剣を抜いて宰相を討つと言い放ったり、大きな子供が暴れている状態で、どうしようもなかった。  結局、麗華は英清のいる白仙宮に移ることをやめ、紫英の半壊した屋敷に残ることにしたのだった。  確かにあのままだったら、紫英が罪人になるのは時間の問題だっただろう。  何故、このまま紫英と別れなかったのかと問う紅珠に麗華は「分かるときは、分かるものよ」とさらとり言った。  麗華らしくない慈愛に満ちた表情をしていたので、紅珠は感動するより薄ら寒くなった。  しかし、紫英が目標としていた指三本くらいなら、許してもらえるだろう。  そんな気はする。  その後、調子に乗った紫英は、紅珠に一緒に住もうと、声をかけてきたが、紅珠はすぐさま断った。 (これ以上、この夫婦に振り回される趣味はないんだ)  ――厄介事に巻き込まれる前に、さっさと屋敷を出よう。  出立の日については、誰にも話さずに決めたつもりだったが、なぜか見送りには隆貴も来てくれた。  隆貴の怪我はだいぶ良くなっていて、英清のことを何度も詫びた。  紅珠としては晴れやかな気持ちで、香陽を出立したのだが……。  ……しかし。  隆貴の妻が作ってくれた握り飯が良くなかった。   夫をぼこぼこにした女に、まともな物を食べさせたくないということなのか……。  兵器並みの味によって、すっかり体調を崩してしまった紅珠の旅は、行きよりも長くかかり、威彩に入った頃には、とうとう路銀も尽き、格好もくたびれ果てていた。  でも……。 (これでやっと、ようやく家に着く) 「長かったな。ここに帰ってくるまで、とてつもなく長かったよな……」  威彩(いさい)の活気に満ちた往来を、涙ぐみながら通りすぎ、見慣れた殺風景な道を真っ直ぐ歩いて行く。  望郷の念など、今まで一度も募らせたことがなかった紅珠だが、ここにきて少し分かるような気がしていた。 (きっと、私が急にいなくなって、みんな心配しているはずだ)  勢い勇んで、小走りになりながら家の門を通りすぎた紅珠だったが、ふと予想外の賑やかな笑い声が聞こえてきて、歩みを止めた。両親と兄夫婦の声だった。  ……とっても、楽しそうだ。  紅珠の歩きは、急に鈍くなった。 「……そうだった」  朔家にとっては、紅珠がいようが、いまいが、知ったことではないのだ。  税金を自分で払えと、手紙に書いてくるような家族だ。  門限に帰って来ないからと、心配されるほどの年齢でもなければ、むしろ、夜遊び大歓迎の家庭なのだ。朝帰りなどした日には、祝い膳が並んだこともあった。  ……あれだけ、帰りたいと思っていた気持ちはどこから発生したのか。  実家というものは、遠く離れていると、天上界のようにも感じることができるらしい。 「あれ?」  更に、紅珠は自分が部屋として使っている蔵から、薄明かりが漏れていることに気付いた。 (……とうとう、私の部屋もなくなってしまったのか)  部屋もない状態では、科挙の勉強どころではないかもしれない。  英清の顔が浮かんでは消えた。泣きそうになりながら、蔵の戸を開けると人がいる。  店の小男の部屋に模様替えでもされてしまったのか……。  紅珠が訝りながら近づくと、後ろを向いて、紅珠の勉強道具を眺めていた男は、ゆっくりと振り返った。 「遅いじゃないですか。紅珠さん」 「げっ」   開いた口が塞がらなかった。  その男……。  来年まで、その姿は絶対見ない予定だったし、できれば一生見ないでおこうと思った仙人がなぜか普通にそこにいるではないか。 「どうして? 一体何で、あんたがここにいるんだ。――宋林?」 「紫英殿と黄達が、貴方に働き分の報酬を下さるといったので、届けにきたのです。良かったですね。これで貴方も税金が払えるでしょう。家族も大喜びです」  それで、家族の談笑が外にも聞こえていたのか……。 (お腹……減ったな)  だったら、普通に居間に行っても、紅珠の存在程度は認識してもらえるだろう。食事くらいなら、気前良く恵んでくれるかもしれない。 「いい家族ですね。しばらく、僕をここに置いてくれるように頼んだら、快く承諾してくれましたよ。何度も貴方にふられていると涙ながらに話したら、お父様が貴方と同じ部屋に寝てみてはどうだろうかと、妙案を授けて下さいました」 「その妙案は、ただちに廃案にしろ」  寒気がした。こんな狭い部屋に二人きりなんて冗談じゃない。 「これを……」  宋林は今まで読んでいた分厚い教本を紅珠に突きつける。紅珠は仕方なく受け取った。  ……重いと思ったら、紫英が知ったかぶりをしていた「林海経(りんかいきょう)」だった。 「それは、英清君からの贈り物です。貴方一人の力じゃ、強がったって科挙には通らないのではないかと、二人で意見が合いましてね。こうして、僕が来たわけです。来年、貴方が科挙に通るためには、うかうかしていられませんからね?」 「何言っているんだ。うかうかしているのは、あんただろ。太傅の仕事はどうしたんだよ?」 「別に、太傅だからって、貴方にお金を届けにきちゃいけない法はないでしょう。青嵐は白仙宮に置いてきたので、問題はありません」  ――紅珠の方が問題大有りだ。 「貴方が林海経を苦手だという話は、紫英殿から聞きました」 「苦手というか、覚える価値があるものか分からないだけだ」 「確かに、時代に合わせた新しい試験問題が望まれますね。でも、すぐには変わらないでしょう。だから、内容を理解し、覚えるしかないんですよ。紅珠さん」 「こんな長いもの暗記ができるわけないだろ。そういうあんただって、科挙も受けたことがないんだろう。こんな難解な文章、分かるはずが……」 「うーん。僕に限っては、分かるとか、暗記するとか、そういう問題ではありませんからね」 「もったいぶるな」  軽く蹴飛ばすと、宋林は平然と告げたのだった。 「これ書いたのは、僕なんですよ」 「はっ」 「林というのは僕のことです。宋林が海のように深い知識を授ける本で『林海経』なんです」 「…………何……だって?」  紅珠は返す言葉も、気力もなかった。  どうりで、文章がややこしいわけだ。  それだけは得心がいった。 (しかし、この仙人は一体いつから生きているのだろうな?)  ぼんやりしながら「林海経」をめくる。  ――と、そこには小さな紙片がはさまっていた。 『――あの約束、ちゃんと覚えているからな』  拙いけど、しっかりした英清の文字だった。  紅珠が英清と交わした約束といったら一つくらいしか思い浮かばない。 「未来の皇帝の嫁か……」  紅珠は、にやりと口元を緩めた。 (こんな私でも、良いらしい)  せめて、英清に誇れる自分でいられるように、やっていこう。  ――まだ、人生に負けたわけじゃないのだから……。 【 了 】
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