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「貴方は威彩州から人を訪ねて、都にやって来た。違いますか?」
「…………あんた、どこから私を見ていたんだ。大門からか?」
だが、今では家族に寄生虫呼ばわりされているとはいえ、紅珠は元御殿吏である。
こんな奇抜な格好の男が自分を見張っていたのなら、さすがに気付くはずだ。
「見てなんかいませんよ。言ったでしょう。占いです。どうです? 今なら三稟で占いますが?」
「結構だ」
三禀。
大体、一食分くらいの代金だろう。五禀払えば、それに酒の一杯はつく。微々たる額かもしれないが、今の紅珠にとって金は貴重だ。一禀とて無駄には出来ない。
無視することに決め、立ち去ろうとした紅珠を見て、男が慌てたように再度呼び止めた。
「ああ。まったく! 分かりましたよ。仕方ないな。今回は特別に無料で見てあげますから」
「無料ほど、怪しいものはないと私は思っている」
「美人には、無料奉仕をしたくなる性質なんです」
「随分軽い性質だな。私は鏡の見方くらい知っている。何が目的なんだ。宗教の勧誘か?」
紅珠は童顔である。
それも、十代の娘時代で年齢が止まってしまったほどに、化粧っ気もなく、色気の欠片もない。
さらに、髪を一つに高く結い、動きやすいよう赤茶の長衣と足衣を着た今の姿は、むしろ少年のようだ。
そんな女に向かって美人と口にするような男は、特殊な性癖を持っているのを除き、褒め殺しで押し売りを企む商人くらいしか思い当たらなかった。
「僕はただ、貴方に自分の腕前を知ってもらいたかっただけなんですけどねえ」
「……腕前?」
「貴方、科挙を受けているでしょう?」
……当たっている。
「それも、見事に、落ちているようで……」
「まあ。豪快に落ちまくっているな。七回も」
「な、七回ですか。それは、凄……! ……って、すいません!」
いいんだ。――と、紅珠は力なく笑った。
見るからに怪しげな道士なんかに当てられているくらいだ。よほど薄幸に見えるのだろう。虚ろな目をした紅珠に、男は早口で慰めた。
「仕方ないことですよ。何だかんだ言ったところで、いまだに女性官吏は誕生していないわけですし、女性の身で、まさか塾に入れるわけでもないでしょうからね。貴方は世間の常識に流されず、自分の道を貫いている。それだけで、凄いことだと僕は思いますが?」
――確かに。
科挙制度は男女平等を謳っているが、施行されて八年も経つものの、未だに女性官吏は誕生していない。
それには当然理由があった。
科挙を合格するためには、戸籍を置く州において、五科目すべての試験で上位に入らなければならないのだが、その出題範囲は膨大であり、独力で学ぶのは困難を極めた。
そのため、科挙を受ける者は、引退した役人が開く私塾で学ぶのが基本であった。
しかし、女子が塾に入ることは出来ない。女は家庭を守るもので、官吏になどなるべきではないとする風潮が色濃く残っているためである。
役所は男社会だ。
たとえ皇帝が女性の生きる道を広くしたとしても、それに従う役人がいないのならば、そんな法律はないに等しい。
「でもな。さすがにその言い訳は、七回も不合格になると、通用しなくなるんだ。独身でいると税金は高くなる一方だし、結婚しかないけど、そんな気持ちで結婚するのもおかしいだろう」
「縁談、勧められているんですか?」
男は核心をついてきた。
紅珠にとって『結婚』は触れて欲しいような、触れてしまったら愚痴が止まらなくなるような、厄介な問題であった。
いつの間にか、紅珠は卓に乗り出すような姿勢になってしまっている。
「……ああ、まあな。こんな私でも、もらってくれるという奇特な人がいてな。性格は温厚で、趣味は庭いじり、それなりに金を溜め込んでいる」
「それは良かったですね」
「…………ちなみにその男性とは、三十以上、年が離れている」
「年上好きには、堪らない年齢ですね」
男はひきつった笑みのまま、答えた。
否定をしたら、紅珠が泣くとでも思ったのだろう。
しかし、それは甘かった。
紅珠はとっくに泣いている。
「結婚とは介護のことなんだろうか?」
「僕も結婚したことがないので解りませんが、貴方の話を聞いている限りでは大変そうですね」
男の口調は変わらない。相変わらず気安いものだ。当然だろう。他人事なのだから……。
紅珠は深い溜息を漏らした。酒も飲んでいないのに、真っ昼間から人に絡んでどうする。
「足掻いている……んですね」
ぽつりと、男が言った。
「足掻く?」
「厳しい現実に直面して、必死に足掻いている姿は素敵だと思いますよ」
ふと男に目を遣ると、彼は眉を寄せ気遣わしげにこちらを見ていた。そんな顔も出来るのか。
「一応、礼は言ったほうがいいのかな」
紅珠はきっと、誰かに同情して欲しかったのだ。
だが一方で、見ず知らずの女の悩みに真剣に悩むことが、この男にとってどんな利点になるのか。
瞬時にそういう冷静な思考が湧き出てしまう紅珠は、やはり可愛げのない女なのかもしれない。
(一体何なんだ。こいつは?)
紅珠は男の視線から逃れるように、男の足元に目を向けた。……と、そこには毛むくじゃらな動物が、ここが自分の居場所だとばかりに、爛々と瞳を光らせていた。
猫のようだ。
いつの間にそこにいたのかと、紅珠は少し屈んでから驚いた。
「……なっ?」
「おや? どうしました?」
「いや、あのな。その……あんたも、もう少し足掻いた方が良いような気がしてな?」
「ほほう。人に心配されるのは久しぶりですね」
「痛くないのか?」
「はっ?」
「――足、だよ」
紅珠は男の足元を指差した。ゆっくり片足をあげた男は、みるみるうちに涙目になった。
「あたたたたた!」
「ほら、痛いだろう。猫があんたの足に噛み付いていたから驚いたんだ」
「だったら、もっと早く言って欲しかったなって……いたた。本気で痛いんですけど」
男の足には赤毛の猫の歯がぴったりとくっついて……いや、激しく噛みついている。
「それにしても、あんたその猫に何したんだ。尋常な怒り方じゃないぞ。あんたの飼い猫か?」
「えーっと。そうですね。飼ってるような、飼われているような。この猫に聞きたいけど、喋ってくれないだろうな。僕の足、齧ってるし」
男はなぜかこちらが笑いたくなるような間抜けな悲鳴を上げながら、片足で立ち上がり、懸命に動いて猫を振り切ろうとする。だが、猫は決して離れることがなかった。
(凄い……)
いまだかつて、ここまで猫と激しく戦う男を見たことがない。
男の白い下穿きが赤く染まらないのが不思議だった。出血はしていないらしい。
紅珠はすっと前に出ると、躊躇することなく、猫の頭を撫でた。
珍しい赤目がぎょろりと、紅珠を見つめる。
猫とは思えない殺気のようなものを感じたが、次の瞬間には今までの獰猛な行動が嘘のように大人しくなり、男から離れていった。
「あー、痛かったな。一応、助けてくれてありがとうございます」
「いや、私も驚いたな。あれだけ激しく噛まれても怪我していないなんて。今まで道士に対して、胡散臭い目を向けてきたが、これからは少しだけ改めることにしよう」
「僕は、逆に貴方に驚きましたけれどね」
「ん? 隣の家が猫を飼っているから、扱いには慣れているんだ」
「…………いや、そうじゃなくて。……というより、本当にこれが猫に見えるんですか?」
「猫だろう?」
毛むくじゃらで、大きな目だけが毛の隙間から覗いているといった姿だが、二つの尖った耳に長い尻尾……紅珠には猫以外の何物にも見えなかった。
「へえ……」
一瞬、男は瞳を細めて、わずかに口角を上げた。意味深な微笑だ。
「……それで。この騒ぎですっかり忘れていたが、あんたは私に何の用があって、私が威彩から来たことや、科挙のことを調べたんだ?」
「調べてなんていませんよ。さすがにそこまで僕、暇じゃないです」
「じゃあ、一体?」
「うーん。仕方ないな……って、痛い、痛いよ。お前」
男は今度は指を噛まれていた。
「ああ、じゃあ、猫もうるさいし、先に謝っておきましょう。すいません」
「だから、わけがわからない! ……一体どういうことだ?」
男の胸倉を掴もうと手を伸ばした紅珠だったが、すぐに手を引っ込めた。
今度は猫ではない。
見覚えのある老人が、こちらの方にやって来るのを確認したからだった。
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