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「何だ。紅珠さんも人が悪い。聞いていたのなら、出てくれば良かったのに」
「何となく、二人の間には入り込めない空気があるんだ。それにな、気づいていたのなら、もっと早く呼べよな。恥ずかしいだろ?」
「それを言うなら、僕も暁虎と紅珠さんの間には、入り込めない空気があります」
「やめてくれ」
暁虎も后のように、人間に変身するのだろうか。
もしも、人型を取ったとしたら、男だろうか、女だろうか……?
頬擦りされたことを思いだして、紅珠は寒くなった。
どちらの性別だとしても、想像したくない。
「なあ……。お后様は、このままここにいられないのか? お前だって、最初からお后様が関わっているって知っていたはずなのに、話さなかったじゃないか。それって、このまま后をやらせてやろうって親心があったからじゃないのか?」
紅珠は芝生の草をむしりながら、訊いた。
后は葬礼の続きのため本殿に行ってしまい、広い庭園には二人しかいない。
王宮のくせに衛兵の一人も配置していないなんて、不用心だと思ったが、そんなことまで考えてしまうのは、紅珠が宋林と二人きりでいることが気まずいからかもしれなかった。
「違いますよ。僕が青嵐のことを他言しなかったのは、契約上のことです。それに、随分な人が青后の正体について知ってしまいました。神獣は、人の人生を狂わせてしまう生き物です。これ以上の長居をしたら、また良からぬ騒動が起こることには明白ですから」
「誰が人生を狂わされたって言うんだ?」
「ああ、ほら。白涼に、興公、芳全。この三人は完全に惑わされてしまっていますね。それに紫英殿や隆貴殿、黄達だって危険領域かもしれません」
「……まあ、言われてみればそうだな」
紫英なんかは、神獣を目にする前から惑っていた。
「……ちなみに、芳全も、か?」
「そうですよ。僕も青嵐から聞いて、ようやく全部思い出したんですが……」
じゃあ、あのときは完全に思い出していなかったのか。
……芳全。
どこまでも憐れな男だ。
「芳全は暁虎を見て、僕に弟子入りを志願してきたんですよ。その時の芳全はまだ子供で、無下に断るのも可哀相だと思った僕は、弟子にできない代わりにって、仙界まで遊びに連れて行ってあげたんですよね。それであんなふうに僕を追いかけまわすようになってしまった」
「……神獣以前にあんたのせいじゃないのか?」
「何を馬鹿な。きっかけはあくまで、神獣ですよ。まあ、でも、僕も悪いなあと思いましてね。ちゃんと自分の弟子にして、修行の面倒を見てあげてますよ。奉界山を一万往復できたら、もう一度僕のところに来るように言ってあげたんで、いずれは僕の所にくるでしょう」
「かわいそうに」
芳全が律儀に偉業を成し遂げて、宋林のもとに来たとしても、果たして宋林が彼を覚えているかが分からない。
――つまり、どうでもいいんだろう。
宋林にとっての芳全の優先順位が極めて低いことを、紅珠は思い知った。
名前を覚えただけでも、上出来かもしれない。
「青嵐は死ぬわけじゃない。僕の神獣としてあるべき姿に戻るだけです。英清君は僕を手に入れたことで后も手に入れたんです。誰に入れ知恵をされたのか。賢帝になるかもしれませんね」
「……さて、どうだろうな?」
后を逃したくないから、宋林ごと取り込んでしまおうという考えは理解できるが、もしも、宋林を本当に太傅として必要としているのなら、この王朝も末期かもしれない。
「ね? 紅珠さんだって、これからも英清君に会いたいでしょう?」
紅珠はうなずくことはなかったが、目が泳いでしまったので、宋林にも気持ちがばれてしまっているはずだ。
本音を言おうとして、唇を噛み締めた。
「どうして、どいつも、こいつも、みんな私に断りもせずに、勝手に決めてしまうんだ」
「類は友を呼ぶ……」
「絶対、あんたは、私の類じゃないからな」
「――紅珠さん」
「何だよ」
「僕の妻になりませんか?」
紅珠はむしっていた草を風に流し、息を吸うのも忘れて沈黙した。
多分、こいつは本気ではない。
そんな言葉に騙される紅珠ではない。
それなのに、言葉がなかなか出てこない。
「どうせ、また戸籍がないとか……。そういう話だろ?」
「戸籍は作ってくれるんじゃないですか。太傅だし。位としては宰相より上です」
「本当、この国もおしまいだな」
改めて聞かされると、今のうちに、別の国に移住しておくべきではないかと、心配になった。
「僕の妻になれば、貴方は英清君と好きな時に会えるでしょうし、税金の心配もなくなります。お得なことこの上ないでしょう」
「……そういうことか」
よく分からないが、宋林は紅珠を餌で釣ろうとしている。
そして、紅珠は餌を用意されても、くらいつくことができない女なのだ。
「私は権利や権威のために、結婚できるほど人間が出来ていないんだよ。宋林」
「知っていますよ。……やっぱり駄目か」
「いろんな人に迷惑かけても、この年まで一人で生きてきたんだ。今更、何かのためなんて言い訳をして、結婚なんかしたくない」
「そう。そして、後悔するんですよね。あの時、引き受けておけば良かったって」
「…………だろうな」
―――図星だ。
紅珠は、すぐに後悔するだろう。
宋林の申し出は、紅珠にとって思いがけない玉の輿である。
過去においても、この先の未来においても、こんな縁談、紅珠には一生ないはずだ。
……それでも。
(私は駄目なんだよな)
何回も、何百回と繰り返しても、学べない。
格好つけたり、虚勢をはったり、現実を見ているふりをしていながら、誰よりも夢見がちなのは、自分なのだ。
「逆に私はあんたに聞きたい。あんたは私をどうして嫁にしたいんだ? 私を妻にしたって、何の利点もないぞ。自分で言うのもなんだが、金もなければ、容姿も十人並み、科挙にだって七回も落ちるほど馬鹿だし、手は出るし、足も出るし……」
「いいんじゃないですか。それはそれで」
「宋林?」
「僕、性格悪いんですよ」
「それは、よく知っている」
「……たとえば、神獣で人を傷つけたらどうなるのか、実験をしたくなったり」
「おいっ。ちょっと待て。それは本当か……!?」
「人が自分でも気付かないような、裏の一面を見るのが好きだったりします」
「……本当に、最低最悪な性格だな」
ここは殴れという合図なのか……。
拳の準備をしていると、いきなり微笑みかけられた。
「だから、僕は貴方が気付いていないだろう、貴方の一面を知っています。貴方は自分をこの程度と言いますけど、素敵なところは沢山あるんですよ。それを貴方が知らないかと思うと……とてつもない優越感に浸れて、ぞくぞくしますね。こういうのも、愛情の一種だと思うんですけど、違うんですか?」
宋林は不敵な笑みのまま、ずいっと紅珠との距離を縮めてくる。
「再三言っていますが、僕は本気です。仙人が誓ったことは、そう簡単に翻せないんですよ」
顔が触れるほどに、近い。
(これは、もしや……?)
両腕を掴まれて、初めて紅珠も自覚した。
逃げることも、受け入れようとする意思も追いつかないまま、紅珠は小動物のように小さくなっている。
こんなに甘い雰囲気は、十代の頃あったか、なかったか。
久しぶりなのか、未知の体験なのか、区別もつかないくらいの勢いで、心臓が高鳴った。
宋林の顔が迫って来る。
このままどうしようかと、瞬きもせず眺めていると、突然宋林の顔が赤毛に覆われた。
とうとう顔から毛が生えてしまったのかと思ったら、
――暁虎だった。
「ううううっ」
宋林が分かりやすく泣いていた。
今日は、見事に頭頂部を齧られていた。
「僕の青春が……」
「まだ、青春中だったのか?」
言いながら、紅珠は宋林の横から、そそくさと離れた。
「暁虎はよほど貴方が好きみたいですね……」
「懐いているだけだろ?」
「暁虎は青嵐がいる宮廷には、来たくないんですよ。この獣たち仲が悪いんです」
「でも、暁虎もお后様も、あんたの神獣じゃないか。私はもう大丈夫だからな。神獣がいるだけで、面倒事に巻き込まれそうだし。あんたが責任を持って暁虎もお后様も回収してくれ」
「まったく、貴方って人は」
宋林は嘆息を漏らした直後に、紅珠の袖を揺らした。
「あれ? 紅珠さん、見て下さいよ。あそこ」
「何?」
渋々、宋林に言われたとおり顔を上げると、橙色の空を、巨大なものが飛翔していた。
鱗が夕陽を浴びて、きらきらと輝いている。
――蒼い龍。
……青后だ。
「あれが、お后様なのか……」
巨大な龍は、宮廷の至るところに掲げられた龍旗の間を縫うように飛ぶ。
その飛び方は、何だか切なくて、まるで泣いているようだった。
「好き……だったんだな」
皇帝のことを、青嵐は慕っていたのだ。たとえ、本性が神獣であったとしても。
「ええ。妬けてしまうくらいにね」
宋林が肩を竦める。白涼がどうして、龍を自分の旗印にしていたのか……。
興公がどうして、青后を手にすれば皇帝になれると思ったのか……。
紅珠は、今にしてその理由を察した。
確かに、人の世にあっては、危険な存在なのかもしれない。だから人間としての青嵐は、今日が命日となるのだろう。
「きっと、この広い宮廷の何処かで英清も見ているんだろうな」
「紅珠さんは、実家に帰っちゃうんですか?」
宋林は、紅珠の袖を掴んだままだった。
まるで子供だ。
いや、こいつの場合、退化しているのかもしれない。
「もう一度、今度は本気で科挙を受け直して、英清に認めてもらえるような叔母になるよ」
「……来年ですか」
「例年通りだったら、そうだろうな」
「そこまで、僕、待てないんですけど」
「いや。待ってなくていいから」
元々、宋林と再会する予定も紅珠の脳内では組まれていない。
何の約束もしていないのだ。
しかし、宋林は肩を落としながら呟いた。
「仕方ない。待ちますか」
「何で、また待つんだ?」
「当然じゃないですか。僕は貴方がここにいるから、太傅なんて面倒なものにもなったんです」
そんなものになって欲しいなんて、紅珠は一言も頼んでいない。
だが、こうも毅然と言われると、思いがけず紅珠もどきどきしてしまう。
「宋林……。あんた、そこまでして、こんな私がいいのか?」
「ええ。だって紅珠さん、貴方って人は……」
宋林は空気を吸うように、柔らかい口調で言った。
「常に人生楽しようとして、茨の道に自ら向かう。自分で分かっているのに改善できない。こんな変人、他にいないでしょう」
「はっ?」
それは、好きと同義なのか……。
――不愉快だ。
まったくもって、告白された感じがしなかった。
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