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それから二時間ほど経った頃。宮原は四十を過ぎてから少し薄くなってきた白髪頭を掻き毟り、天井を見上げてため息をついた。
「それでね、愛子がにっこり笑って言ったのよ。私、作文コンクールで大賞を取ったよって」
老婆の口から何十回と紡ぎ出された愛子の話は、神山交番の内部を漂い、苛立ちとなって宮原の両肩に降り積もっていた。宮原は首を回し、再びため息を吐いた。今日中に書かなければいけない書類が机に置かれているが、どうしても書く気にはなれない。
誰でもいい、早くこの婆さんを引き取ってくれ。宮原はただ一心にそう願っていた。
それなのに純也はというと、苛立った表情を微塵も見せずに老婆の話に耳を傾けている。宮原はほんの少しだけ顔をしかめた。
宮原は仕事柄、正義感の強い善良な人間をたくさん見てきたが、純也はその中でも群を抜いていた。とにかく曲がったことが大嫌いで、弱きを助け強きをくじく。典型的なヒーロー気質である。
だから老婆への対応も、彼のそういった人間性に基づいているのだということは理解している。しかし時々こんな風に純也の行き過ぎた善性を見せつけられると、うすら寒いものを感じてしまうのもまた事実だった。
と、そこへ六十代くらいの女性が交番の扉をくぐって現れた。宮原が待ちわびていた救世主である。女は椅子に座った老婆に目をとめると、顔を歪めてため息を吐いた。
「お母さん、もういい加減にしてちょうだい。警察の人にまで迷惑かけて」女が老婆の腕を掴んで立ち上がらせた。「ほら行くわよ」女は老婆を引きずるようにして交番の外に連れていく。
「ちょっとちょっと奥さん。もう少し優しくしてあげてください。痛がっているじゃないですか」
女は歩道の真ん中に仁王立ちして純也の方を振り返った。「こうでもしないと、ついてきてくれないのよ。部外者は黙っててちょうだい」
「いいえ」と純也。「我々がお婆さんを保護したんだから部外者ではありません。お婆さんはあなたを待っている間ずっと、僕たちにあなたの話を聞かせてくれていたんですよ。あなたは私の自慢の娘だって。自分のことをそんな風に愛してくれる母親を雑に扱うだなんて、人としておかしいと思いませんか」
「自慢の娘」女は甲高い声でそう言うと、純也にむかって嘲笑を浮かべた。「どうせ愛子が愛子がって言っていたんでしょう」
「そうですけど…」
「あのねお巡りさん、私の名前は明子。愛子は私の妹の名前よ。母親の介護をぜんぶ私に押し付けて、男と逃げていった妹のね」
純也はなにも言えなかった。
女は、その様子だと私の名前は一度も出なかったようね、と言って歩き去って行った。歩道には二人の後姿を見送る純也と宮原だけが残された。
「僕、余計なこと言っちゃいましたかね」
「気にするな、お前は間違っていないさ」宮原が純也の肩に手を置いた。純也は何とも言えない苦々しい表情を浮かべている。宮原は、正義感が強いが空回りしがちな純也のことが嫌いではなかった。「どうだ、今日終わったら飲みに行くか」
「僕、お酒が飲めないので遠慮しておきます」
純也に優しく払い除けられた宮原の手はしばらくの間、宙をさまよい、そしてぴしゃりと宮原自身の太ももを叩いた。「そうか」
前言撤回。宮原は職場の付き合いよりもプライベートを優先させる純也が好きではなかった。
二人でそんなやり取りをしていると、背後から声をかけられた。
「おはようございます宮原さん、純也君」
彼らの後ろに立っていたのは、車椅子を押した痩身の男だった。車椅子には八十代くらいの、マスクをつけた毛の薄い老人が虚ろな目で座っている。ガラス玉のような老人の瞳には何の感情も宿っていない。枯れ枝のような指先の皮膚はささくれ立ち、右足の靴ひもはほどけかけていた。
「あ、溝口先生。おはようございます」二人は声を揃えてそう言ったあと、慌てて歩道の端に寄った。自分たちが通路を塞いでいたことにいま気がついたのだ。
「お散歩ですか」と宮原。
「今日はクリニックが休みなので、僕の運動もかねて近所をうろうろしていたんです」溝口卓は柔らかそうな黒髪を掻き上げて言った。
彼は溝口メンタルクリニックを経営している心療内科医である。純也は高校生の頃から不眠症の問題で彼のクリニックに通っているため、溝口とはもうかれこれ十年以上の付き合いだ。
宮原よりも年上のはずだが、溝口は彼よりもずっと若々しく、三十代半ばでも通用するルックスをしている。そのため宮原は彼と顔を合わせるたびに、少しだけ引け目を感じてしまうのだった。
「お父さん、今日は気分が良さそうですね」純也は車椅子の老人の前にしゃがみ、靴ひもを結び直してあげた。「ここのところずっと雨続きだったから、久しぶりに外に出られて嬉しいのかも」
老人は純也のことが見えていないのか、白内障で白く澱んだ目を前方に向けたまま微動だにしない。宮原には老人の感情の機微がわからなかったが、純也がそう言うのならそうなのだろうと思った。
「純也君に会えたからだと思うよ」溝口はそう言ってから顔を上げ、「あ」と呟いた。
交差点の信号がいつの間にか青に変わっている。
「それじゃあ僕たちはこれで」溝口は二人にむかって敬礼をすると横断歩道を渡っていった。
溝口らの後姿を眺めながら宮原が言う。「どの親子もあれぐらい仲が良ければいいんだがなあ」
二人の無線に、近所のマンションで大喧嘩している男女がいるからすぐに駆けつけてほしい、という旨の連絡が入ったのは、それから三分ほど経った後のことだった。
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