7人が本棚に入れています
本棚に追加
他人の生活は密の味
あたしの名前は北条奈々(二十五歳)趣味は望遠鏡で前に建つ同階の部屋を覗くこと。
ウチのマンションはコの字になっていて、部屋と部屋とが向かい合う。向かい合うのは玄関ではなくベランダ同士。
向かい側の部屋に住む住人はカーテンを閉めたことがない。レースのカーテンも閉めない。五階だから誰にも見られないと思っているのかな?
ふふふ、甘いな。ここに覗き魔がいるなんて想像もしないんだろうな。
この望遠鏡は値段が張るだけに性能が素晴らしく優れている。前の部屋に住む女性の顔が、まるで隣にいて話してるかのように表情さえクリアに見える。
女は三十代半ばという所か、黒髪の短髪で少しだけふくよかだ。容姿は中の下、そこら辺にうじゃうじゃ転がっているユーフォーキッチャーの景品のような女。
だが、キャッチされ運ばれて受け取り口に落ちたのだろう。照明が灯された部屋には、夜に帰宅する男がいる。二人は夫婦だ。翌朝、一緒に朝食を食べていた。平日は毎日、同じ光景がある。女は働いていない、買い物に出る以外は部屋にいる。特別な趣味もないようだ。
あたしは、観察する時間をだいたい決めている。
平日限定、朝の六時から八時まで。いったん家事を済ませてまた覗く。昼食は覗きながら食べやすい菓子パンかオニギリだ。十五時まで覗いて休憩タイム。なぜかというと、十五時過ぎにあたしの部屋のチャイムを男が押すからだ。
男の名前は、涼介(二十九歳)身長百八十センチ、痩せているがワイシャツを脱ぐと上腕二頭筋に筋肉の盛り上がりがある。顔は、目鼻立ちのハッキリしたイケメン。営業職の合間にあたしを抱きにやってくる。既婚者、子供はいない。
出会ったのは、あたしがキャバクラで働いていた一年前になる。涼介は妻と結婚したことを後悔していた。年上妻を「ババア」と呼んでいる。そして、あたしを「女神」と呼んで狂ったように性欲を満たし、十八時ごろ部屋を出て行く。
既婚者なので土日は来ない。かといって妻と出かける訳でもない。休日は接待ゴルフかパチンコに行くと言っていた。涼介は妻に完全に冷めているのだ。
涼介が部屋を後にすると、あたしはまた窓に設置した望遠鏡を覗く。部屋の間取りは自分の部屋と同じで八畳のリビングに六畳の和室、ふた部屋続きだ。寝室であろうベランダに干した洗濯物がない。リビングにも姿がない。奥のキッチンで夕食の用意をしているのだろうか?
夫は帰宅が遅いようで、いつも女はダイニングテーブルの椅子に座り一人で夕食を食べている。昼食も一人。何だか寂しそうだ。あたしは美容と健康に良いサプリメントを口に含むと水を飲んで胃に流し入れた。
観察は二十一時まで続く。この時間がタイムリミット。あたしはキッチンにブランド品のスリッパを進め、軽い酒のツマミを作る。二十一時五十分頃にパパが部屋に来るからだ。
パパは六十五歳。そこそこ大きな会社の社長。白髪が似合い、身長の低い小太り体型。顔はアンパンに似ている。眼鏡はパンの真ん中に振りかけられたゴマのようなモノ。
パパともキャバクラで知り合った。関係を結んで二年になる。パパは、あたしに必要なお金を毎月援助してくれる。家賃、高熱費、生活費、贅沢品、諸々、あたしはパパの愛人。パパがいないと生活できない。だからパパには最高の料理とワインで持て成す。ワインは正直、好きではないけど、パパが好んでいるからネットで注文し用意している。勿論、食材も高級品ばかり売っているネット購入だ。
パパはワインを呑みツマミを食べた後、風呂に入ってからあたしを抱く。年のわりに性欲が強い。昼と夜で、あたしの身体はヘトヘトだ。パパはあたしを誰よりも愛していると囁いてくれる。パパは午前一時に部屋を後にして本宅に帰る。土日、パパは家族サービスで部屋にはこない。パパも、部屋に通うのは平日のみだ。
これにて一日が終了。あたしはフカフカの羽布団の中で眠りについた。
どちらが好きかって?フフ、あたしはどちらも好きではない。パパは金で、涼介はただの遊び、遊びはイケメンに限る。
朝の六時、あたしは眠い眼を擦りながら望遠鏡を覗く。朝食はブラックコーヒーのみ。
ダイニングテーブルの椅子に座り、紺色のスーツ姿の夫が新聞を広げている。六時半頃、向かい合った夫婦の朝食タイムが始まった。毎朝だが会話をする様子は見受けられない。
夫が会社に出社して間もなくすると女は掃除機を転がす。ふた部屋しかないから掃除も楽そうだ。そしてベランダに出て洗濯物を干す。ここまでは毎日の日課。
しかし今日は違った。午前十時に、見たこともない男性が女の部屋に入ってきたのだ。ダイニングテーブルに向かい合って座り、何やら会話している。何を話しているのだろう?気になるが、あたしには望遠鏡で覗くことしかできない。
まさか不倫か?いや、でも隣の寝室に移動する様子も触れ合う仕草もない。ただ会話しているだけだ。見知らぬ男は、昼過ぎに部屋から消えた。
いつもの時間に涼介がやって来て、あたしを抱く。でも今日のあたしの頭の中は見知らぬ男の存在で一杯だった。涼介が出て行った後、すぐに望遠鏡を覗く。女はいない。だが、間もなくするとエコバッグを片手に帰宅した。買い物に出かけていたみたいだ。後は、いつもの通り、変化はなかった。
次の日は休日、あたしは一日中、ベッドやソファーでゴロゴロして過ごす。ジムやエステに行きたいが面倒臭い。ネイリストを自宅に呼んで爪を綺麗にネイルアートするのがやっとだった。
また月曜日から観察が始まる。午前十時過ぎ、再び女の部屋に男が現れた。まただ、何か会話している。こっそり忍び込んで盗聴器を仕掛けようか迷う。会話の内容が聞きたくてイライラするのだ。男は昼過ぎに消えた。それからは、いつも通り。
男と女の関係は何だ?あたしは毎日、観察を続けた。そうして一か月が経過した頃、また女の部屋に男が現れた。
ダイニングテーブルを挟んで向かい合う女と男。女が突然、両手で顔を覆った。男が立ち上がり女の後ろ側に回ると肩を抱く。姿勢を低くして、背後から女を抱きしめた。見たぞ!触れた!これは不倫に違いない!
女の夫は気づいているのだろうか?あんなに冷たい態度を取るから妻が不倫に走るのだ。妻に不倫されるような夫など何の魅力もない。
その日、あたしは涼介に別れを告げた。涼介は半泣きで「妻とは別れるから!」と足にすがってきたが、あたしは、それを蹴飛ばすように突き放した。涼介は泣きながら帰って行く。
あー、せいせいした!また昼の男を暇潰しに探さなくては……。
今日は気分が良い。スマホで時刻を確認すると、十六時と表示されている。まだ間に合いそうだ。
たまにはエステに行くかと、あたしは玄関扉を開く。そこには女が一人、立っていた。
「ひっ!」
両肩をすぼめるあたし。
女は俯き加減で口を開く。
「あなた、ウチの主人と不倫してるでしょ?」
様子が普通ではない。あたしは首を横に振った。
「ごっ、ご主人なんか知りません!人違いです!」
「嘘言いなさい!」
女は顔を上げる。凄く怖い形相だ。そして白い紙をあたしの足元にバラまいた。
かがんで恐る恐る紙を拾うと、あたしの目に涼介の姿が映った。扉を開き、和かに彼を迎えている自分が一緒に映っている。
「探偵の兄に依頼して、ずっと主人の動向を探っていたのよ!」
兄?あの男は兄だったのか!そして探偵!
紛れもない証拠を手に、上下の歯がガチガチと音をたてて鳴りだす。それは、女の手に包丁が握られていたからだ。
戦慄が全身を支配して足の小指ひとつも動かない。
瞬間、あたしは不倫の罪深さを後悔した。でも、もう遅い。遅すぎた。
あたしは今、うつ伏せで床に倒れている。腹から吹き出してくる鮮血は止まることを知らない。まるで水道管が破裂したようだ。
水道管の水は冷たい。でもあたしから溢れる血は生温い。
「きゃーっ!!」と誰かの悲鳴が聞こえる。女か男か分からない。
でも、一つだけ分かることがある。
心臓は、もうすぐ秒針を止める。
徐々に薄れてゆく意識。閉じてゆく睫毛。蜃気楼な視界。
完全な暗闇に変わる一歩手前、甲高い音をたてて包丁が落下した。刃先は光をなくし鮮やかなる赤と漆黒が入り混じる。
これが不倫の代償。代償はリセットだった。
全てが深くなる。月も街灯も届かない道になる。黒くなる。
あたしは瞼を落とした。
もう望遠鏡を覗いても、何も見えないんだろうな。
最初のコメントを投稿しよう!