【序】

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【序】

     【序】  空は夕刻から泣きだし―――。  更けて、四ツ半。  強い雨脚は依然衰えを見せず、境内を煙らせている。  あたりの一切を支配している雨音―――と思われたが、“それ”は微かに流れてきて……。  耳をそばだてれば自ずとゆき着いたであろう源流は―――神楽殿。  しかし、人影などあるはずもない境内。ゆえにその異様な音に気づく者はない。  が―――、  今、殿の裏手から、黒影(こくえい)が現れた。  影は身を叩く雨を気にするふうもなく、躊躇なしに濡れ縁を移動し―――。  歩をとめたのは、下手側面。境内に立つ古びた外灯からの明りの、そこは補いきれていない領域。  影の前の締め切られた板戸からは、ほの明りが一点、ごく小さなまるで洩れていた。  外灯同様、年季の入った板戸。経た年月が“死に節”を抜かしたか……。  すっと立ったままの影は、極端に傾けた顔を板戸へ寄せ、節穴に片目をあてがった。  慣れた動き―――。  今まで幾度となくくり返してきたことの、まさに証明。  絞られた光源の中の世界は、凄惨だった。  屋根を打つ雨音に邪魔されながらも、ここでなら、苦悶の音は遥かによく届いた。  むごたらしい景の終演を告げるように、 “ヲヲヲヲォ グウェェェェ……!!!”  一段激しい苦しみが、板戸のわずかの先から放たれた。  と、 “キィウェェェェェ! キィウェェェェェ! キィウェェェェェ……!!!”  常人なら間違いなく耳を塞ぐ―――それはガラスを釘で掻くよりも遥かにひどい―――不快音が間髪いれずに後を追い……。  身の毛立つ響きを鼓膜に受けとめても、影はしかし微動だにせず、ただ、眼球を横にずらし―――。  網膜が捉えたのは、横たわる深紅に染まった肢体を見おろす、異形(いぎょう)の激しい形相だった。  ゆっくりと節穴から目を外した影が、今夜この(とき)現れたのは、極めて薄弱に聞こえていた苦悶の()に惹かれてのことか、極めて微細に漂流していた血の臭いに(いざな)われてのことか……。  いずれにせよ、「無」の表情の中、惨劇を見届けた両眼にだけは、 「喜悦」 「安堵」  どちらの形容にも合致しそうな光が宿っていた。
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