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【六月三日(木)】
【六月三日(木)】
すみ渡った早朝の空へ向けた顔で深呼吸すると、アキはリードの先へ目を戻した。
すっかり足どりを落ち着かせているカラシは、ウォーキングコース脇に広がる芝生へ鼻を這わせている。
ふらふらと揺れる尻尾を眺めながら、アキは口の中でいった。―――あんたはわからないけど、私はこのコースが一番好きだな。
犬でも毎日同じでは飽きるだろうと思い、アキは曜日ごとに散歩順路を変えている。
木曜日の今日は、一周二キロ強のジョギング、ウォーキング、サイクリングコースを備える、この、都立隈沢公園を散策することにしていた。
今の時間、人影はまだ少ない。見かけるのはまず、同じく犬の散歩をさせている人間か、ジャージ姿でウォーキングに精を出す老人。
つと顔をなぜた心地よい微風が、アキの意識をカラシからそらした。
こんな気候がずっと続いてくれれば……。
叶う望みのない思いを、緩歩しながらのアキは胸の裡で声にした。
あと一月もすると、陽がのぼった途端、立ちどころに汗ばむ気候となる。
そろそろエアコンの掃除かな……。
これも心中でつぶやいたアキは、そして思う。―――一日のうちで、今が一番好きな時間。なのに、家内の心配事が自然と浮かんでしまう主婦体質に定着してしまっている自分が、うらめしい。
―――とはいえ、人生を巻き戻せることなどできるはずもない。
浮かんだ当然の帰結が、ため息を誘った。
高所の清掃は、より腰にくる。
夫に頼みたいのは山々だが、したとして、「ああ、やっとく」の返事はあっても、脚立が納戸から出ることは、まずないだろう。過去の経験から、アキはわかっていた。
「早くやってよ」
そうせっついたこともあった。それで夫は腰をあげたこともあったし、疲れているときにいってもらいたくはない、というような反論で会話をなくした日々もあった。―――お互い、喧嘩を厭わない体力があったころの話。
しかし結婚生活も二〇年を数え、気力体力の衰えをひしと感じ始めていた今日、無用ないさかいでの疲弊など、ごめんこうむりたい。
湿布のストックはあっただろうか……。
薬箱の中身を、脳裡に浮かべようとしたとき、
ん……。
つと浮かんだ不審感が、作業の手をとめた。
烏の声―――こんなに聞くこと、今まであったかしら……。
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