水は流れているだけで美しかった

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 9月に入って僕は毎晩同じ夢を見た。  妻と結婚する前に付き合っていた彼女と会う夢。僕は軽自動車で名も無い駅の駐車場へ行く。彼女はその駅の近くのバス停で僕を待っていた。僕は助手席のドアをあけて彼女を乗せて木造の古民家のような彼女の部屋に行く。僕はただ畳の上でゴロゴロと寝ているだけ。日が暮れる頃になってまた車を運転して妻の元へと帰る。僕の車が駐車場から出て見えなくなるまで彼女は縁側に腰掛けてじっと見ていた。  9月に入って私は毎晩同じ夢を見た。  私をふって別の人と結婚した彼が私に会いにくる夢。私は廃線になって急行列車が通過するだけの名前が消された駅までバスで向かう。彼はバス停で待っていた私を軽自動車の助手席に乗せて、私の部屋へとやってくる。夢の中の部屋は実際に私が住んでる部屋とは随分と違って古民家のようだった。何もしない、ただ彼が畳の上で寝転がっている姿を見てるだけ。日が暮れる頃になると彼は起き上がって奥さんの元へと帰ってゆく。私は縁側に腰掛けて彼の車が見えなくなるまでじっとそれを見ていた。  もしかしたら? そんなわけないか。  仕事帰り、夜空の星を見た。  もしかしたら? そんなわけないよね?  仕事の帰り、夜空を見上げた。  彼女も同じ夢を見ているのだろうか?   そんなわけない。  彼も同じ夢を見ているのだろうか?  そんなわけない。  手を繋ぐこともキスすることもない。  ただ部屋で寝るだけの僕。  ただ部屋で寝てる彼を見てるだけの私。  ちゃんとさよならを言ってなかった。  ちゃんとさよならを聞いてなかった。  今日は9月7日、七夕から2ヶ月過ぎた。  今日は9月7日、七夕から2ヶ月過ぎてる。  妻が亡くなる前に僕に言ったことを思い出した。 「あなたをあの人へ返さなきゃ。私はあなたに彼女がいることを知ってても、あなたと一緒になりたかった」 「今さら? 返すってそれは彼女に失礼だよ。それにもう彼女も結婚してると思うんだ」 「私にはわかるよ。先生はせん妄って笑うけど、彼女は部屋に一人でいる。今だってあなたのことを時々、考えてる」  確か、そんなことだったと思う。妻が亡くなってからもう7年。彼女の連絡先も僕は知らず、ただ仕事に日々追われていた。妻が亡くなって恋をしなかったわけじゃない。それでも何かが違うような違和感があって付き合いかけては相手から『やっぱり違う』と断られていた。  だから、こんなに同じ夢を毎晩見て彼女のことだけじゃなく久しぶりに妻の言葉も思い出していた。  あまりにも繰り返し同じ夢をみるから、何か虫の知らせだろうか? 夢の中に出てくる名前のない駅がどこなのか私にはわからなかった。木造の古い古民家みたいな部屋も──。私が今、現実に住んでいるのは10階建ての鉄筋建てのマンションだった。  日曜日の朝も同じ夢を見て目が覚めた。  本当に意味がわからない。でも、こんなに夢を見るならうろ覚えの彼の実家まで行ってみようか……、インターホンは押さない。ただ近くまで行くだけ──、そう言い聞かせて私はスマホで電車の時間を調べた。  何度か来たことがあった彼の実家。そこに彼が住んでいるかどうかも本当はわからなかった。もしかしたら、近くのマンションに奥さんと一緒に住んでいるのかもしれない。そう思いながらお昼すぎ、彼の実家近くの駅に着いてそこから彼の実家へ向けて国道沿いの歩道を歩いた。  途中、横断歩道を渡って田んぼ沿いの道へ入った時、   車椅子を押してる男の人とすれ違った。 「こんにちは」 「こんにちは」  挨拶だけして私は気にもとめず、そのまま歩いていた。  ふわっと黄色い蝶々が私の肩にとまってふっと彼の顔が浮かんできた。 『もしかして? 』後ろを振り向くと少し先で車椅子をとめて男の人も私の方を見ていた。 「詩音(しおん)さん? 」  車椅子を押しながら彼が私の方へと向かってくる。夢で見た彼と少し違っていた。夢の中の彼は若い20代のままだった。今、私を見てるのはちゃんと歳を重ねていた彼だった。 「一葉(いちよう)さん? 」 「なんで? とにかく詩音さん、僕は今、仕事中だから、このまま僕の後を着いてきて── 」  私は夢の続きを見ているような気持ちで彼の後ろを歩いた。  特別養護老人ホーム三坂、大きな看板が見えてきた。さっき駅から歩いてきた時には見過ごしていた看板だった。  車椅子に乗っていたおじいさんは後ろを歩く私に向かって『今日はええ日和ですのう』何度か同じことを話しかけてきた。 「詩音さん、僕はまだ仕事中なのであと2時間、面会室で待ってもらうことはできますか? 実は今月になってずっと詩音さんと会う夢を見てて──」 「一葉さんも? 」 「ということは詩音さんも? ──とにかく仕事が終わるまで待っていてください」  私は老人ホームの入口直ぐ側の面会室で彼を待った。  面会室で待っていると、歌声や笑い声が壁の向こうから聞こえてきた。私がもし長生きしたら、どんなふうに老いてゆくのだろう? 彼は『もう少し待ってて』そう言って何度かお菓子や缶コーヒーを持って私の顔を見に来た。  昨日まで夕方6時半はまだ明るかった。ここは山間だからだろうか? 6時過ぎてから一気に日が暮れてきた。 「ごめん、長時間待たせて」  彼は首にタオルを巻いてジャージ姿のまま私のところへ来た。 「それよりも彼女は? 」 「ああ、彼女って妻の事? 」 「そう。晩御飯作って待ってるんじゃないかな? と思ったら、ここで15分程だけ話して帰ろうか? と思ってる」 「もっと長く話せるよ」 「それはどういうこと? 」 「7年前に亡くなくなった。しかも、詩音に僕を返すって遺言みたいに最期の方で言ってきたんだ。まさかとは思うけど、僕は9月に入ってから毎晩、詩音と会っては、詩音の部屋でただゴロゴロして帰宅するだけの夢を繰り返し見てた」 「同じだ!! もしかして、名前のない廃線になったような駅で待ち合わせてなかった? 」 「同じだ!! 」 「もしかして? 」 「もしかしてだよな、きっと。亡くなった妻にそんな力があるかどうかなんてわからないけど、妻があの世から仕掛けたとしか思えない。とにかく、僕の車に乗って僕の家で話そう」  職員専用の駐車場に停めてあった車は夢の中と同じだった。  車の中では無言のまま、あっという間に彼の家へ着いた。 「お邪魔します」 「もう詩音、僕しか住んでないんだ。両親も亡くなったから」 「なんか、懐かしい。この廊下の奥が一葉の部屋だったよね? 」 「ああ、そうだったかな……。そうだ、詩音、覚えてる? この家の裏に川が流れてること、その川の流れを見た時、詩音が言ったんだ。『水は流れているだけで美しい』って」 「そんなこと言った? 」 「20歳の詩音は確かに言ってその後で『だから人間も流されてるだけでもきっと美しいんだよ』って言ったんだ」 「ごめん。全然、覚えてない」  そんな話をしながら、彼の家こそが照明をつけているのに古民家のような薄暗さがあった。 「私、夢の中で名前のない駅で一葉を待ってたんだよね」 「多分さ、名前のない駅って詩音が今日、降りた駅だよ」 「えっ? ちゃんと三坂駅って名前があるよ」 「もうすぐ廃線になるんだ。駅はあのまま休憩所代わりになって電車の代わりにバスが代行してゆく。そのバスもきっと大幅に便が減ってゆくと思うんだ」 「過疎化が進んでるんだね」 「ああ、この僕でも若者って呼ばれてるからね。ところで詩音、本当にここに来た理由は? 」 「ちゃんと、さよならが聞きたかった」 「やっぱりかぁ。言わなかったもんな。どっちも手放したくなくて、詩音にも戻れるように、ってどこかで卑怯なことを考えていた」 「今だから、笑って聞ける」 「彼女が夢を見させて会わせたのかな? 」 「わかんないよね。本当のところ。生きてるから死んだ人の力なんて」 「これからどうする? まだ最終には間に合うよ」 「水の音を聞いてもいい? 」 「いいよ」  玄関から出て家の裏にまわった。  川の水が流れる音に鈴虫の鳴き声が重なっていた。 「本当に水は流れているだけで美しい音を出すね」 「僕は小さな頃から聞いてるから、そんなこと思ってもみなかった」 「また来てもいい? 」 「いいけど、早めに来ないと電車は廃線になるからね。じゃあ駅まで送るよ」 「うん」  改めて外に出て彼が暮らしている家を見た。 「じゃあ」  助手席のドアが開いて私は車の中からまた灯りがついてる玄関を見た。 「なんかごめん」 「何? 」 「せっかく待たせたのに話すだけで食事もせずに帰すなんて」 「いいよ。同じ夢を見てたって事だけでなんか嬉しかった」 「嬉しいよりも怖いよ。僕は──」  話してる間にあっという間に駅に着いた。 「じゃあね」 「じゃあ」 「あっ、そうだ、連絡先」 「教えない。きっと教えない方がいい。また夢を見たら会えると思うから」 「わかった。しばらくは僕はあの老人ホームで働いてるから」 「うん、じゃあ──」  券売機で切符を買って待合のベンチに座った。  『もうすぐ廃線になります。なんでもここに記してください』  ベンチの手すりにはノートがぶら下がっていた。 『バイバイ、私』胸が張り裂けそうな日があってここまで来たんだなと思った。  彼も胸が張り裂けそうな日を乗り越えてここまで生きてきたんだなと思って、あと1年後には券売機や時刻表、いろんなものがここから外されて最後に名前が消える時、それでも記憶だけは残るのだろうなと思った。  名前が消えてもそこに佇んでるだけで美しい。  そんなことを電車を待つ間、ノートに夢中で書いていた。本当は一緒にいたかったのかもしれない、きっと今夜はそんな夢を見ると思う。  彼女が僕を追っかけてこないか? と僕は車の隣でずっと何かを必死に書いてる彼女を見つめていた。  どんな理由があれ、僕は彼女の手を一度離した。だから僕からはもう彼女の手は掴めない。  本当は一緒にいたかった、きっと今夜、僕は彼女を諦めた夢を見るかもしれない。  そろそろ、電車がくる時間だった。    もう遅い──、走り出した僕がいた。    本当は一緒にいたかった、電車に乗れなかった私がいた。 『人は誰かを思えるだけで美しいのよ』  電車が走り出す音が消えた後、思いだけが美しくきっと流れてゆく──。                        
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