弱さの美学

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「ねえ、あそこの豪邸。舌切り御殿って呼ばれてるの、知ってる?」  助手席に太った体を押し込めている母が、車窓から地元のちょっとした名物御殿を眺めながら青山真也(まさや)に問う。総合病院への送迎の道は、ずっと地元で暮らす真也たちにとって、あまりに見慣れた退屈なものであった。 「気づいたときには、大きなお屋敷が建ってたわよね。あそこに住んでるおじいさん、元ヤクザで、舌が無いからしゃべれないんですって」  母は、顔も知らない舌切り御殿の家主の噂を、まるで知人のように話す。 「若いころの舌切り御殿のおじいさんは、うだつの上がらない下っ端チンピラだったみたい。それが、何かしらの制裁で舌を切られて、物言わぬ人になったんだって。でも、しゃべれないことで重宝がられて、彼にしかできない連絡係の仕事が舞い込むようになって、裏社会で成功をおさめて大金持ちになれたの。裏の社会で稼ぎながらも、表の社会でも、身体障がい者として公的な保護を受けられるでしょう。大儲けよね。体の欠損があったから成功できたの」  知らない家の物騒な住人の話をする母親の声音には、小さな高揚とささやかな羨望が含まれている。時速四十キロで走る車は、あっという間に舌切り御殿の横を通り抜け、地元で話題の豪邸は後ろの景色に溶け込んで消えてゆく。 「体を壊して何かを得ようとするもんじゃない。健康が一番だよ」  真也は静かに母に言って聞かせた。  近年、「虚弱思想」という弱さを賛美する思想が流行っている。宗教ではない。虚弱思想は、数十年前に日本の医療系インフルエンサーが発信したことで、SNSや動画サイトなどを媒介して少しづつ広がっていった。フラジール論とか薄弱思想とか、弱さの美学と言い換えられることもある。  真也は、貧乏や病気を努力で解決しよとしない、虚弱思想論者が嫌いであった。弱さを肯定して楽な方に進むより、努力をして高みを目指す方が尊い行為であると思うからである。  そんな真也の本音に構わず、虚弱思想にかぶれた実母は、車の助手席からサイドミラーに映る舌切り御殿を名残惜しそうに眺めている。 「私も、うつ病御殿とか建てられないかしら」 「母さんは、既にうつ病キャリア20年のプロだからね。その域に達していても何の稼ぎもないのなら、この先も無理だよ。諦めて病気治して、普通に仕事をした方がいいよ」  今日は、未来永劫完治しない母の精神疾患のための通院の付き添いだ。母は、還暦になる前から早々に運転免許を返納してしまっている。真也たちが住む田舎では自家用車が移動に必須であったが、どういうつもりなのだろうか。送迎を家族に頼って、平均寿命の約八十五才まで過ごすのは、不自由ではないのだろうか。真也には虚弱思想論者の行動が理解できなかった。 「真也もお腹の調子が悪いって言ってたじゃない。今日一緒に診てもらえば?」 「いいよ」  医者は嫌いだ、という言葉を真也は飲み込む。病院通いが好きな母と、無用な言い争いは避けたい。  人間は二種類に分けられる。虚弱思想論者か、そうでない者か。これは、弱き者か強き者か、と言い換えることもできる。母は自分が弱き人であることを自慢に思っており、真也は自分は強き側にいたいと日々努力している。強き者が弱き者を助けるのは道理である。だから真也は今日もこうして、仕事を半日休んで母の通院に付き合っている。真也と母は、価値観は違えど、弱き者を助けることを生きがいにしている真也と、支えてもらいたい母との間で、うまくバランスが取れているのだ。 「じゃあ、終わるまで俺はカフェで待っているよ」  真也は母と病院の総合窓口で別れ、病院内のカフェテリアに直行する。真也が使うトートバックには、国際的な難民支援団体のロゴマークが大きくプリントされている。一定以上の金額を団体に寄付することでもらえる非売品のノベルティだ。寄付をするという行為も、経済的に余裕がある立場の人間、すなわち強き側であるというステータスになる。  真也は病院内にあるカフェに入り、少し悩んでホットココアを注文した。本当はコーヒーが飲みたいのだが、胃の調子が悪くてカフェインを飲めないのだ。キリキリと痛む腹をさすりながら、母の往診が終わるまでの数時間、ぼんやりと本でも読みながらここで過ごすのである。  病院の付き添いを終え、真也は午後から出社する。真也の勤め先は、地元のパン工場だ。市内と近隣市町村にパンを出荷している。食料問題を背景に地産地消が奨励される昨今、食品工場は社会の重要インフラを支える大切な企業に位置づけられている。役所や銀行、大手企業と並び、地元でも偏差値が高い高校や大学を卒業した者たちが、食品業界を志す。真也はそんな地元の学生たちが憧れる食品工場の事務職の正社員として従事している。パンの製造を下支えする役割だ。早朝から稼働しているパン工場は昼になると終業となる。その日は、午前中に有給を取った真也が出勤する時間と、製造部で務めるパートタイムの主婦や還暦を過ぎたおじいさんたちが退勤するタイミングが重なった。労働人口が不足する世の中で、専業主婦やリタイア世代という言葉は死語になりつつある。働き者は生涯をかけて何かしらの仕事や役割を果たすものだ。 「青山さん、今日はまた病院の送迎?」 「いい親孝行だねぇ、お母さん喜んでいると思うよ」  食堂で、真也はパンの加工を終えた従業員たちと話をする。テレビ画面には、ちょうど昼時のバラエティ番組が放映されており、義眼の名物司会者が、電飾できらびやかなデコレーションを施した義足をつけた歌手と対談をしていた。 「青山さん、お昼ごはんは食べたの?」 「いや。それが、あまり食欲がわかなくて。腹の調子が悪いんです」  笑いながら話をしていた働き者の主婦が、一瞬表情を硬くする。 「あら、胃腸炎?食品工場でパンデミックなんかシャレにならないからやめてよね、熱はないの?」  真也はヘラリと笑う。 「はい、熱はありません。ご心配をおかけし申し訳ありません」  すると、別方向から二十代の女子従業員が、真也に錠剤を手渡してきた。 「あの、胃薬もっているので、もしよかったらどうぞ」  最近流行の、幼さを強調したファッションに身を包む女性だ。ストレートの黒髪にツインテールをし、丸く大きな目が印象的でかわいらしい。しかし、真也の好みではない。 「いえ、おかまいなく。放っておけば大丈夫ですよ」 「でも」  女子従業員は食い下がる。 「すぐに飲まなくてもいいんです。困ったときのお守りとして、取っておいてください」  彼女は無理やり、真也の手のひらに市販薬を握らせた。市販薬は医者からの処方薬に比べて品質が劣る。虚弱思想が世間に知られ始めた頃、「自分こそが虚弱体質、社会の負け組」と主張したい虚弱思想論者たちが市販薬のオーバードーズが流行した。意図的な体調不良を引き起こしたい多くの若者たちが市販薬を大量服用して昏倒し、緊急医療の現場をひっ迫させた。命を落とした若者の中に、やんごとなき皇族の血縁者がいたため重大な社会問題として大きく取り上げられることとなった。その結果、市販薬の存在が社会的に悪となり、規制が強化され、現在では薬効が低く抑えられた市販薬しか販売されていないのだ。本当に必要な薬は病院で薬を処方してもらわねばならない。真也が女子従業員から受け取った市販薬も、胃腸の働きをよくする栄養補助食品程度の効果しかないのだろう。真也は仕方なく「ありがとうございます」と言って薬を受け取る。 「青山さん、昼ごはんまだなんでしょ。薬を飲む前に、なにか食べないと。パンならあるけど、食べれそう?」  肝っ玉母さん風の女性が、検品ではじかれたために市場に出せないパンの山を指さして真也に問う。売り物にならないパンは、従業員に無料で配布されるのだが、ここで働く者はみなパンに飽きており、持ち帰る者は少ない。食品工場では食材の廃棄を最小限に抑えることを行政から義務化されており、真也が務める中小規模の工場でも、廃棄パンを減らすことが社内目標として掲げられているのだ。 「あぁ、ひとついただこうかな」  真也はパンの山からシンプルな味のロールパンをひとつもらい、食堂で食べ始める。パート従業員たちは三々五々解散していった。真也の目の前には、女性従業員がくれた胃薬がある。真也はそれを紙にくるみ、見えないようにしてゴミ箱に捨てた。薬には頼りたくないのだ。  あれから一週間ほど経つが、相変わらず真也の胃痛は治らない。胃痛の原因は食あたりか何かで、毒を出し切れば落ち着くと思ったのだが、その予想は外れた。胃がキリキリと痛むせいで、寝つきも悪くなり、日中の仕事にも集中できなくなった。無意識に腹をさすると、従業員たちが眉をしかめる。食品工場内で病原菌を巻き散らかされては重大事故になる。周囲から体調が悪い奴は仕事に来るな、と無言の圧力が送られてくるので、真也は健康でタフな男を演じる必要があった。自分の体なのに、こうも制御が効かないとはどういうことだと、真也はいら立ちを覚えた。適度な運動と良質な睡眠、過不足の無い栄養摂取を心掛けていれば、可もなく不可もなく順調に日常が回るはずではなかったのか。食べ過ぎや飲みすぎには普段から気を付けている。多少風邪をひいても、よく食べよく寝れば、自己治癒力で回復するのではないのか。しつこい胃痛を我慢しながら、真也はふと、以前女子従業員からもらった錠剤を思い出す。彼女の言う通り、お守り代わりに持っているだけでは罪にはならないのだから、捨てずに持っておけばよかったと少し後悔した。  真也の体調を一番心配したのは、母であった。母が、心優しく活力にあふれる自分の息子の異変に気が付くのは簡単だった。胃痛のせいで調子が出ない真也は、残業をせずに定時で退勤し、細かく切った野菜を煮込んだスープばかりを飲むようになっていた。母はしびれを切らして真也に病院を勧めた。 「真也、病院行ったの?」 「ううん、まだ」 「そんな情けない顔してないで、病院行ってきなさい。今の時間、総合病院はダメでも、町医者の内科ならまだ受付してるから。時間も遅いし、そんなに混んでないはずよ」  真也は病院に行くことに、まだためらいがある。総合病院じゃなくて、地元の小さな町医者ならどうだろうか。ちょっと顔を出して胃薬をもらうだけなら、知人に診られなければ大丈夫だろうか。科学が未発達な時代、人間は腹で物事を考えると信じられていたこともあるらしい。胆力なんて言葉もあるように、腹に力が入らなければ、何もできないのだ。その原始的な思想に基づいて、腹で物事を考え判断をするのなら、薬をもらって早く楽になりたいという選択肢しかないだろう。病院に行くだけで弱者に認定されるわけではない。真也は真剣に考えこみ、自分自身をなんとか納得させる。財布と保険証だけズボンのポケットにねじ込み、人目を気にして夕闇に隠れるようにして町医者へと向かった。  受付時間終了間際の町医者は、母の見立ての通りほとんど患者はいなかった。あんなに決死の覚悟で病院に行ったにもかかわらず、診療はあっけなく終わった。白髪頭の医者からは「お腹痛いの一週間も放置しちゃダメでしょう、とりあえず様子見ね」と、二週間分の胃薬を処方されて終わりである。子どもを諭すようなお小言だけで、真也は拍子抜けした。本当は怖かったのだ、もし病院に行って、医者に腹の中を調べられて、何か疾患が見つかってしまったらどうしようと、心配だったのだ。  真也は少しほっとして家に帰った。リビングで真也が薬を出すと、姉が「あーーっ」と声を上げた。 「いいなあ、真也。お薬飲んでる。なんの薬?」  姉は、小学生・中学生を対象にした学習塾で仕事をしている。姉は、仕事着のスーツを着たままソファでくつろぎ、カロリーオフのアイスクリームを抱えて食べながら、物欲しそうな目で真也を見つめていた。 「胃薬だよ。ずっとお腹が痛いのが治らなくて」  真也は自分の腹をさする。家では見栄を張る必要はないので、母と姉と三人だけの家族には、素直に話をする。 「まだお腹痛かったの?真也がお医者さんの世話になるなんて、めずらしこともあるものね。あたしにもお薬ちょうだい」  真也はムスッとして薬を姉から遠ざける。処方薬は決して安くはない。三十五歳の姉は、職場の若い女子従業員と同様、ストレートの黒髪をツインテールにまとめている。このような幼稚な髪型やメイクをしているのは、ロリ系の作品に出演する童顔AV女優か、ファッションで不健康を楽しんでいるにわか虚弱論者と相場が決まっている。姉も女性従業員も、いかがわしい作品には出演していないはずなので、後者だ。二人とも、かよわく脆弱な自分自身を演出する虚弱ファッションの流行に乗っているのである。姉にせよ女子従業員にせよ、いい年をした社会人が十代の少女たちと同じような恰好をする意味が真也には理解ができなかった。 「なんでだよ、アイス食べてるじゃん。痛いところないだろう」 「だって、お薬飲んでる方が、かよわく見えるじゃない」 「不健康を偽装するんじゃねえよ、ファッション虚弱め。どうせ学習塾には小中学生しかいないんだから、色気づいても意味ないんだろ」 「何よ、ケチ。別に色気づいてるわけじゃないわよ。子どもたちだって、かよわくて儚げな先生の方がいいじゃない」 「かよわい先生よりも、健康で知性と品位があるきれいな先生のほうが、信頼を得られるんじゃないの?」  姉のような健康体の女性たちが目指している弱さは、庇護欲をそそられるような幼さや可愛さから連想する弱さである。本物の病気や不健康状態になることは目指していない。そのため、ファッション虚弱の女性たちは、わざと健康を失うような自棄的でだらしのない生活とは無縁である。エイジングケアやボディメイクへの気の配り方は、健康志向そのものだ。 「今の世の中、儚さのある女性の方がモテるでしょ」  姉弟が言い合う間に、母が口を挟む。 「ほら、そこのファッション虚弱のおねえさん。はやく着替えてきて、夕飯の支度を手伝ってちょうだい」  同じ虚弱思想から端を発している弱さへの憧れでも、病気による弱者を目指す母と、幼さと可愛さによって弱者を目指す姉では、憧れる弱さの種類が異なるのだ。 「うるさいなぁ」  姉は小さく舌打ちをして二階に上がっていく。今の母の言いぐさには「精神疾患を患っている自分こそが本物の虚弱。ファッション虚弱の娘より自分の方が弱いのだ」という棘が含まれている。姉の敗北だ。弱さでマウントを取り合う家族の言動にげんなりし、真也はため息をついた。  真也は、母や姉に表情を悟られぬよう、自然な動作を心掛けて胃薬を服用した。  胃薬を服用し始めて数日経つが、まだ真也はしつこい胃の痛みに苦しんでいた。あの町医者の診断は、果たして正しかったのだろうかと、疑念が残る。終了時間間際の診察で、適当に胃薬を処方されただけではないだろうか。かかりつけ医がいればこんなことにはならなかったのだろうと後悔しても遅い。日々の健康管理だけでは胃痛を防ぐことができなかった真也が病気を治すためには、あの町医者の診断を信用して、薬を服用するしかないのだ。町医者からもらった薬は、一日三回まで服用していいというので、朝夕の二回、家で飲むようにしていたが、それでも胃の痛みは引かなかった。空腹感は感じるのに、胃が痛くて満足に食べられないことが辛かった。大好きなラーメンもカレーも、随分と長いことお預けを食らっている。夜中、腹が減ると眼が冴え、睡眠不足になる。水分を取って空腹を満たすと、尿意で中途覚醒してしまう。眠りが浅いから日中の業務に支障が出る。そんな悪循環の繰り返しだった。そんな生活を早く終わらせるために手を打つ必要があると思い、真也は思い切って昼食時にも食堂で薬を服用することにした。大丈夫、体調不良は誰にでもある。薬を飲んでいるからと言って、弱者になるわけではない。昼食を食べ終わった最後に、シンプルかつスマートに飲んでしまおう。一瞬で。真也は誰の目にもとまらぬように薬を飲むイメージを反復した。  昼時。職場の廃棄パンを食べ終わった後、真也は自然な動作でポケットから胃薬を出し、スッと口に含んで、一瞬でコップのお茶で飲み干した。薬の包装シートもすぐにポケットに隠した。大丈夫、誰にも見られていない。  食堂内での真也の様子を気にする者はいなかった――――――あの黒髪ストレートにツインテールの女子従業員を除いて。  真也の様子を背後から眺めていた女子従業員はため息をひとつつき、背後から真也に近づいていった。 「ねぇ青山さん」  真也はギョッとして、イスの上ですこしだけ跳び上がった。 「やぁ、どうしたの?」 「そんなに薬を飲むのが嫌なんですか」  しまった、見られたと、真也の頭の中は真っ白になる。次の瞬間には、自己弁明で高速で回転し始めた。薬を飲む行為は、弱った自分の体をコントロールするために必要な行為だ。強さ弱さに関係なく、誰でも行うことだ。弱体化ではない。彼女に薬を飲むところを見られていても大丈夫、取り乱す必要はないのだ。 「薬が嫌いだなんて、誰も言っていないよ」  平常心を装いながら真也は答えた。 「でも、隠れて薬を飲んでましたよね」  真也は彼女を疎ましく思う気持ちを隠し、ため息を押し殺す。ファッション虚弱は他人の弱さにも敏感になるのだろうか。 「隠して飲みもしないけど、だからと言って、誰かの前でこれ見よがしに飲む必要もないだろう」 「やせ我慢は正義ではありません。ちゃんとした病院に行ってください」  彼女の声は硬質だった。 「いい加減、認めたらどうなんですか。自分の病状を」  自分でも一番心配していることを言われ、真也はドキリとして体を硬直させた。 「なんで君に、俺の体のことが分かるんだ」 「自分体の中というのは、自分とは別物と思っていたほうがいいですよ。例えば、自分でガン細胞を作り出したり除去したりできる人間が一人もいないように、自分の体の中というのは、制御が効かないものなのです」  彼女はそこまで一息に言い切った。そして、もう一度息を吸い、再度しゃべりだす。 「青山さんの不調が続いていることは、私じゃなくても、誰だってわかりますよ。今まで大盛りのお母様の手作り弁当や、大盛りカップラーメンを食べていた人が、急に廃棄パンばかり食べるようになるんですもの。しかも、柔らかくて薄味のパンばかり選んで。最近は顔色も悪いみたいですし。みんな言わないだけで、青山さんの事を心配しています」  説教をされているようで不愉快な気分になった真也は、少し声を低くして応える。 「なぜ君にそこまで言われないといけないんだ」 「青山さんも、私も、大事な一人の労働力です。青山さんがいなくなったら、この工場にとっては大損害ですよ」  確かに、労働人口が減っている今の世の中では、真也のように心身ともに健常な労働力は重宝がられる。だが、最近の真也の顔には疲労が浮かび、寝不足と栄養の偏りのせいで、頬にニキビができていた。毎朝ひげを剃るたびに引っ掛かるので、赤く炎症を起こしている。女子従業員をだたのファッション虚弱だと思っていたが、他人のこんな細かいことにまで気が付くのかと、観察眼の鋭さに真也は舌を巻く思いがした。 「確かに、最近は寝不足が続いて肌の調子が悪くなっていたけど…人に迷惑がかかるほどの仕事のミスも、まだしてないから大丈夫ですよ」  分が悪くなってきた真也は、視線をそらしながら言う。 「仕事のミスをしてからじゃ遅いでしょう。小さくてもうちの工場は、学校や病院にパンを出荷して、市民の食のインフラを支える重要な役割を担っているんです。もし青山さんが食材の受注・発注ミスでもして食材の廃棄が出るなんてことになったら大変です。不名誉なニュースで新聞の地域欄に掲載されちゃいますよ」  彼女は呆れた顔で言い募る。 「悪いことは言わないから、ちゃんと総合病院を受診してください。青山さんが病気になったって、誰も気にしませんから。不慮の病気やけがは、ある程度は仕方がないこととして受け入れていかないと」  真也は、彼女の話を聞いているうちに自分自身の中で持て余していた「病気を認める覚悟」がだんだん固まってくるように感じた。本当は分かっていたのだ、この長引く胃痛は普通の腹痛じゃないから、ちゃんと検査をしなければならないことを。 「俺は、君から見て、そんなにひどい状態だったか?」  真也は背を丸め、小さくうなだれた。 「ひどくなる前に声を掛けました。間に合ううちに、病院に行きましょう」  彼女はにっこりと笑った。見上げた先にある彼女の笑顔がかわいくて、真也はどきりとした。 「わかった。今度、母親を病院に送迎するときに、俺も内科を受診してくるよ」 「それがいいと思います。いつですか?」 「来週の月曜日。それまでは、まだ薬が残ってるから心配ない」 「ちょっと先ですね…。まぁいいでしょう。それまで、倒れないでくださいよ」  真也が折れて、彼女は納得したのだろう。その場を去っていった。  真也は女子従業員のとの約束を守り、翌月の母の通院の日に合わせて内科の診察を受けた。予約を入れたにもかかわらず待合室で一時間近く待たされ、やっと入った診察室には、自分と同じぐらいの年の白衣を着た男性の医者がいた。澄んだ目をしたハンサムな顔立ちは、まさに男盛りといった風で、女性の看護師や患者から喜ばれそうな容姿であった。  真也は、数週間胃痛の症状が続いていること、町医者で処方された胃薬を飲んでも改善が見られなかったことを話す。医者からは最近の仕事や家庭の様子、気分の落ち込みやストレスが無いかを聞かれたが、真也には心当たりが一つもなかった。その後の検査で行った、初めての胃カメラは強烈であった。鼻から細いチューブを入れて、胃の様子を調べる。麻酔が効いているはずだが、カメラが体内の細くすぼまった箇所を通り抜けるたびに、耐えがたい異物感によるひどい痛みと苦しさに悶えた。牛のようにダラダラと溢れるよだれもそのままに、真也は醜態をさらし続けた。女性の看護師が背中を優しくさすってくれたが、まるで無意味であった。真也は憔悴し、一気に数年分年を取ったような心地になった。  一通りの検査を終えると、待合室に開放される。「まるでまな板の鯉じゃないか、だから病院は嫌なんだ」と、疲労感を顔面に貼り付けて、病院に来たことを後悔していた。自分に容赦なくチューブを突っ込んだあの医者は、自分が無様に苦しむ姿を見ながら、どんな気持ちで処置を続けたのだろう。病気の自分を弱者として哀れみ、見下していたのだろうか。真也はみじめな気持ちになり、あんな姿は金輪際誰にも見せたくないと思った。やがて、再度名前を呼ばれ、診察室に入る。診断はストレス性胃炎であった。町医者の見立ては、あながち間違いじゃなかったことが証明された。 「胃はキレイなものです。ポリープも無くてガンの心配もなし。ピロリ菌もいませんね。それなら、何が腹痛の原因かというと、ただの胃炎ですね。ほら、この辺り少し、荒れていますね」  医者は、胃カメラで撮影した画像を指さしながら病状を説明する。 「こんなに痛いのに、ただの胃炎ですか」  まだ麻酔が残ってしゃべりにくい真也は、無理やり口を動かしながら、ぼそぼそと問いかえす。 「胃に穴も開いていませんからね、心配するほどじゃないですよ。ストレスですかね、どんなお仕事をなさってるんですか」 「事務職です。食品加工工場の」  真也は自分がパン工場で働いていることを話した。この病院にも病院食用のパンを卸している。医者はその話に興味を抱いたようであった。 「そうなんですね、私も食堂で、サンドイッチをよく食べますよ。おいしいパンをいつもありがとうございます、私たちの生活を支える素晴らしいお仕事ですね」 「いいえ、たいしたことではありません」  真也は謙遜しながらも、自分の仕事が認められたようで内心嬉しかった。 「食品業界じゃ、苦労することも多いでしょう。仕事や家庭でのストレスに心当たりはありませんか」  医者は、何枚も撮影した真也の胃の中の画像を、代わる代わる液晶画面に映しながら問う。カチャカチャというマウスのクリック音が診察室内に響く。真也も粘性のあるピンク色の胃が映し出された画像を一緒に眺めていると、女子職員が言った「自分では制御できない自分自身の体は、もはや自分とは別物と認知すべきだ」という話が、ふいに胸の中によぎった。 「気になることと言えば、最近流行っている虚弱思想ですかね」 「虚弱思想ですか」  医者はオウム返しに問いかける。 「自分で制御できない体は、自分のものとは思うな、と言われました」 「なかなか哲学的なことを言いますね」  医者は穏やかな語り口のまま先を促す。 「自分の力だけでは不調を治せないことを認めて、早く医者に行けと、説教されました」 「それは、正論ですね」 「結果、町医者でも総合病院でも診断は同じ。やはりお医者様はすごいな、と思いました」  真也は素直に敬意を述べる。 「青山さんみたいにしっかりしている人は、病院や薬に頼りたがらない人が多いですけど、不調を放置してさらに悪くなることもありますからね。次からは気を付けてくださいね」  はい、と真也は返事をする。 「ところで、青山さんの身の回りには、虚弱思想の方がいらっしゃるのですか」 「はい。身の回りに虚弱思想にかぶれている人が多いです」  真也は、他人の思想に干渉するようなことは言わないように気を付けて生活をしている。特に虚弱思想に傾倒している人間に虚弱思想を否定するようなことを言うと、責められたことを激しく悲嘆され、あとから相手の機嫌を取りなすアフターフォローが大変になるのだ。一方で、自分の想いと反発する虚弱思想と隣り合わせの生活がストレスの源だと考えることもできる。穏やかに話を聞いてくれるこの医者に信頼を置きはじめていた真也は、普段は絶対に他人には言わないような本音を話してみる気になった。この医者なら真也の気持ちを理解してくれるような気がしたのだ。 「母や姉が、弱さで競い合っているのは、なんとも滑稽です」 「ご家族が虚弱思想なのですか」 「はい」  真也は医者の顔色を伺う。医者は一貫して穏やかな表情のままである。 「病気になったら幸せだ、なんて考え方は間違っていると思うのです。楽な方へ逃げているようにしか見えません。うちの母は長年精神疾患を患っており、通院と投薬治療が欠かせません。でも、病気であることで気が大きくなって、俺や他の人たちに依存して甘えて生きていこうとするのは、ずるいと思います。頼られるばかりの、俺の気持ちにもなってみろ、って言ってやりたいことも、何度もありました」  真也は医者の目を見て話した。医者はうんうんとうなずきながら、静かに話を聞いてくれている。 「本当は弱い人たちに対して、そんなことを言ってはいけないことは、分かっているのですが」 「なかなか難しいですよね」  医者も、真也の方に正面から向き合い、しっかりと真也の主張を受け止めてくれる。 「確かに科学や医療が発展して、治る病気やけがは格段に増えています。現在では予防医学も、だいぶ人々の生活の中に浸透していきました。それでも治らない疾患というのはあります。すなわち、現代医療では対処のしようがないところ、そこに虚弱思想がすっぽりとあてはまるんです」  医者の語り口は、感情的にならず理路整然として落ち着いている。真也は、この医者とはまともな話ができそうだと安心した。医者に対する評価を引き上げて、全神経を注いで医者の主張を聞く。 「不調を抱えて生きることは困難です。そんな人たちの心が少しでも軽くなる心のトレーニング手法が、虚弱思想やフラジール論なのです」  医者はあくまでも第三者の立場を崩さぬように、虚弱思想について語った。 「先生、ファッション虚弱はどう思いますか?」  真也は思い切って、心の中に巣くうモヤモヤとした疑問をぶつけてみた。この医者からは、建設的な答えをもらえるような気がしたのだ。 「あれも、人間の本能的には間違っていないと思いますよ。親がいないと生きていけない赤ん坊が、庇護欲をそそるかわいらしい姿をしているのと同じです。一人では生きていけないというのは人間社会の摂理です。しかし、この人口減少が続く社会の中で、若者の数も減り続けています。同じ年頃の男性とお近づきになりたくても、世の中には自分より年長の者ばかり。その上、強き側にいたら、この女性は一人でも生きていける立派な人だと認識され、誰も自分を気にかけてくれなくなります。そんな環境だから女性たちは、弱者を装うことでどうにかして自分に気を引き、構ってもらおうとしている深層心理があるのではないかと、私は考えています」  医者は淡々という。 「なるほど。そのように考えればいいんですね。さすがお医者様、懐が深いですね」  真也は、医者から回答を得て満足した。おそらく、理屈に納得したのではない。今まで誰とも共有することができなかった、虚弱思想の深層心理というタブーに触れるような話題を話すことができたことに対して満足したのだ。同時に、胃薬をくれた女子従業員の顔を思い出していた。彼女も、常備薬という弱さを象徴する小道具を使ってアピールすることで、自分の気を引こうとしていたのだろうか。彼女の関心が自分に向いているのだと思うとまんざらでもなく、背筋がむずがゆくなった。  結局その日の診察も、胃薬を追加で処方されるだけであった。もう少し投薬治療を続けて改善の見込みが無ければ、ストレスの軽減や環境の見直しをするべきだ、という説明を受け、二週間後に再診の予約を取った。胃痛の原因や抜本的な解決方法は見つからなかったが、聡明な医者との会話がきっかけとなって、病院に対する不信感をぬぐい去ることができた。真也の気持ちは少し前向きになっていた。  真也は医者の言いつけを守り、三食毎の服薬を継続した。食堂で他人の目にさらされながら薬を飲むのは勇気がいる事であったが、あの女子従業員の言う通り、真也が薬を飲むことに関心を示す者は一人もいなかった。二週間が経った頃、またあの医者と話ができるという期待感から、真也は次の通院が楽しみにもなっていた。 「その後症状はいかがですか」  医者は、今日も爽やかなイケメンだった。真っ白な白衣を着て、液晶画面を見ながら真也に問う。 「しっかりと服薬を続けましたが、良くもなく悪くもなく、という感じです。こんなにも長くかかるものなのですね」  真也の胃は相変わらずムカムカとし、気持ち悪さが取れずにいた。しかし、大きな病気が隠れているわけではないと先の検査で判明しているため、真也はいくらかリラックスした気持ちで診察に臨んでいた。 「これまでに積み重なった疲れやストレスが不調として表れているのであれば、治すのにも時間がかかるものです。日にち薬、とでも言いましょうか、このまま投薬治療を根気よく続けましょう」  そこで医者は真也に向き直る。 「しかし、ストレス源を除去しないことには、いつまで経っても治すことができません」  真也のストレス源は、家族や身の回りの虚弱思想論者たちだ。今日も虚弱思想について深い意見を聞くことができるのだろうと、真也は背筋を伸ばして医者の話に聞き入る。 「青山さんは前回の診療の際に、仕事でのストレスは無いとおっしゃっていましたね」 「はい」  そう、仕事は順調なのだ。 「そうすると、家庭環境や人間関係なのですが…やはり虚弱思想がひっかかりますか」  真也は前回の診察以降、虚弱思想について考え、まとまった自分の意見をこの医者に聞いてほしいと思っていた。真也は待っていましたとばかりに話し出す。 「現在、精神疾患を患った虚弱思想の母と、ファッション虚弱の姉と共に生活をしています。特に母は、日々の生活中で、体調を改善させようとする努力が一つも見受けられません。仕事にも出ないので、家族以外の人間との社会的な触れ合いもなく、情報源は統制されたマスメディアとインターネット上の陰謀論ばかりで、思考が凝り固まっています。散歩や筋トレなどの運動もせず、スナック菓子ばかりむさぼり食べて、ぶくぶく太ってあんな見にくい体形になっている。あんなだらしない人たちの、治療費や薬代のために、健常者である自分が社会保険料を支払い続けていると思うと、バカバカしくなります」  いざ言葉にすると、家族の悪口を言っているみたいで後ろめたさがあった。家族の弱さをフォローできない自分自身の弱さを吐露しているようで、情けない気持ちにもなった。それでも、やはり虚弱思想は真也の信条に反する、理解しがたいものなのだ。真也はそのまま自分の想いを吐き出し続ける。 「向上心が無い人は嫌いだし、不幸をアピールする人間も嫌いです。成功して共感を得るよりも、みんなで負け組に向かって走った方が共感を得やすいという安易な考えに、俺は流されたくありません。鬱屈とした社会で、自分こそが負け組と思いたい人たちに流行していった虚弱思想に虫唾が走ります。先生も、そうは思いませんか?」  真也は医者に同意を求める。医者は「そうですねえ」とつぶやき、まとう空気感を変えた。 「そもそも、青山さんの虚弱思想の考え方が、間違っているんですよ」 「えっ」  先に独善的な持論を披露してしまった真也はひるみ、医者の顔色をうかがった。 「まず、虚弱思想は悪ではありません。前回もお伝えしたように、治らない不調を抱える人たちの心を救済するのが、虚弱思想の発端です。弱さを肯定する思想ではあっても、弱さを賛美する考えではありません」  穏やかで温かみがあった医者の声色が、堅く重々しくなる。まさか反論されるとは思わなかった真也は、思わず周りに視線を泳がせる。だが、診察室には真也と医者しかいない。周りで雑務をする看護師たちはどこへ消えてしまったのか。医者と一対一で対峙する真也には逃げ場がなかった。 「虚弱思想の発祥が日本であることは、ご存じですか?」  医者の問いかけに、真也は「はい」と返答する。 「日本人はね、潜在的に、弱者や敗者に共感する力が高いんですよ。例えば、プロ野球で万年負け続きのチームがありますね。負け続きにもかかわらず、そのチームには固定ファンがおり、熱心に応援をしています。人間の心は面白く、強者に魅力を感じるだけではないんです。敗者だからこそ応援したくなる、そんな心理が人間の心の中にはあるんです。アニメや漫画の悪役や敵役もそうです。わかりやすい勧善懲悪の単純なストーリー展開で最後には負けてしまっても、悪役や敵役の魅力的なキャラクター像に惹かれて、人気投票で主人公たちよりも上位に挙がってしまうことがあります。敗者や弱き者に感情移入をしてしまうことは、歴史的な事実からも証明することができます。敦盛や義経のような弱さを併せ持つヒーローの話も昔から人気があります。他にも、武士道や滅びの美学という言葉も日本にはありますね。切腹は特に、日本オリジナルの価値観として海外でも認知されています。つまり、強き者が力を失うことに美学を感じる虚弱思想を、私たちは潜在的に私たちは持っているのです。弱き者にあこがれを抱くことも、日本人の本能的な感性に従った結果であるともいえるでしょう」  医者は、様々な事例を挙げて話をする。その語り口はスムーズで、まるで講義に慣れたベテランの大学教授のようであった。 「虚弱思想の発端は、五十年ほど前にさかのぼります。私たちが生まれるよりも昔、国際的に多様性が認められる社会が発展していく中で広まっていきました。発案者や最初に言い始めた人は詳しくわかっていませんが、初期の頃は障害者や難病を抱えた人たちに指示され、自己肯定をして自分らしく生きるための理論として広まっていきました」  その大まかな流れは真也も知っている。多様性を認め、人種や思想の制限なくひとりひとりが輝ける社会を追求した結果、公的な支援だけに頼らずに、強き健常者が自発的に弱き者を経済的にも精神的にも助ける社会構造が出来上がったのだ。そして、障害や病気も多様性の中で肯定されるようになり、その他大勢の健常者とは異なる強烈な個性としてアイデンティティを確立したのだ。特に、手足が無いとか失明しているとか、身体的な欠損がある人たちによる社会参画がめざましかった。一部の賢い障害者たちは、視覚的にも弱者であることが分かりやすく、共感を得やすい身体的なハンデを見世物にしながら、天から課せられた自分だけの困難を克服してゆくストーリーを共有することで多くの支援者を得て活躍の場を広げていった。弱き者が支援されるだけの立場に甘んじることなく、自分の特性を生かして社会で活躍することは、超成熟社会を迎えた日本においては、有益な人材の使い方であると、その点については真也も賛同している。 「虚弱思想の根幹は、自分の弱さを肯定することです。今の青山さんにとっては、胃痛と向き合い、胃炎を起こしている自分自身を認める事、それが自己肯定のために必要な要素になります」  いきなり自分の病状の話になり、真也は焦りを覚えた。 「青山さんは先ほど、努力をしない、向上心が無い人は嫌いだとおっしゃいましたが、私たちは自分自身の体の病気を、制御することができません。どれだけ気を付けていても、病気になるときはなります」  医者は、あの女子従業員と同じような話をしだした。 「青山さんの胃痛のように、世界にはその人自身の努力ではどうすることもできない困難がたくさんあります。例えば、経済的な貧困や、家族との人間関係など、人が健全に強くなれない要因は様々です。このような、自分ではどうにもできない自分自身の弱さを認め、うまく付き合っていくことが、民間に広まるべき虚弱思想の形だと思うのです」  真也は我慢できず質問を投げかけた。 「先生は、虚弱思想論者なんですか」  真也はぶしつけな質問をぶつけたが、医者は態度を崩さない。 「虚弱思想はね、面白いですよ。社会現象として、実に興味深い」  医者は自分の立場をはっきりさせない、あいまいな返答をした。 「虚弱思想の一番面白い特徴はですね、底辺の民草から生まれた思想であるということです。このような考え方は、為政者側からは、絶対に生まれてきません。なぜだかわかりますか?それは、税金を納めずに公的な支援が必要となる国民が増えることになるからです。国民がみな弱体化したら国家経営が立ちいかなくなります。強靭な軍事力、巨万の経済力、それらをまとめた国力が、国際社会を渡っていくための武器になります。国力を削ぐことにつながる虚弱思想を、国が擁護するはずがありません。だが、このような強い国家戦略を考える為政者側には、弱き人の立場の人間がいません。家庭環境や学習環境に恵まれ、順風満帆な人たちが集まって、高い志を掲げた政治を執り行っている。彼らは弱き人の立場や心情を理解していないのです。日本を動かす人たちはみな、口先ではきれいごとを言っていても、健康管理ができないのは自己責任、経済的に恵まれないのも本人の努力が足りないのだと心の底では思っています。さまざまな事情で頑張れない、努力ができない、やっても報われない弱き人たちの味方は、国の中心には無いのです」  医者の語調には熱がこもりはじめる。 「その結果、日本はどうなりましたか。経済格差は大きくなるばかりで、一握りの幸福な人々と、何をしても浮かばれない民草に二分しました。そして、地面に這いつくばった民草は、さらに弱き人と堅い人に二分します。自分の弱さを認められる人と、自分は弱くないと勘違いをしている堅い人です」 「堅い人…」  真也は無意識に医者の言葉を反芻する。 「そうです、弱さを認められない堅い人。堅い人というのは、私の造語ですがね」  堅い人とは、反虚弱論者、すなわち真也のことを指しているのだろうか。真也の困惑に構うことなく、医者は自論を続ける。 「医者である私も、患者さんと同じ立場、民草側です。どうせ同じ民草なら、少しでも生きるのが楽になる考え方をした方がいいと思い、虚弱思想が必要だと思われる患者さんたちに勧めています。事実、青山さんも堅い人の考えに縛られていたから、通院するのが遅くなり、胃炎の治療も遅くなったじゃないですか。遅すぎることはありません、いつでも自分の考え方は変えることができるのです。自分の弱さを認めることで、青山さんのストレスは軽減されるのではないでしょうか。逆にそれができなければ、虚弱理論が蔓延しているこの社会では、青山さんの胃炎は治りが遅くなるばかりです」  こんなにも直接的に虚弱思想を勧められると思わなかった真也は唖然とする。信頼を置いている医者から虚弱思想を勧められたこと、そして何より自分自身が胃痛で困り果てている事実が重なり、堅い真也の心の天秤が、わずかに動き出したような気がした。はやくこのやっかいな胃痛をどうにかしたい。食の楽しみを諦めるには、真也はまだ若すぎる。いっそのこと虚弱思想を受け入れてしまって、エスニック料理や韓国料理などの刺激的で美味しいごはんを食べられる健康な体を取り戻す方が、より豊かで充実した人生が送れるのではないだろうかと、誘惑が頭をよぎる。 「それでも」  真也はゆっくりと慎重に言葉を紡ぐ。 「やはり抵抗感があります。虚弱思想という宗教に入信して負け組になったことを、作為的に理論立てて、無理やり肯定させられるような気がして」 「宗教ですか」  医者は目をつぶって応えた。 「青山さんは良く物事を考える方なんですね」  ひと呼吸おいて、医者がまた話し始める。 「宗教も悪くないですよ。科学が未発達な社会における人々の心の支えは宗教でした。これだけ科学も医療も進歩し、情報化が進んだ現代でも、解決できない問題はたくさんあり、人々は悩み惑い続けています。でも、それでいいんです。悩み考える事こそが、人間の人間らしさの象徴ともいえるでしょう。考えなくなったら、他の霊長類と同じです。いまわれわれが抱える問題を科学や医療が救えるようになるには、もう十年分、もしくは百年分の科学の発展が必要になるかもしれません。それこそ我々が生きている間に、その解決方法が生まれ出てくる保証はないのです。それなら生き易さを求めるために、原点に返って、宗教や思想によりどころを求めても悪くはない。思考の転換によってストレスを軽減することができるというのも、人間の特権です。虚弱思想は、考えても現代の科学では解決することが不可能な無駄なストレスを抱え込まないための、思考の訓練だと思えばいいのです」  真也の目は病院の白い床を泳いでいる。真也の様子を観察する医者には、真也の心に迷いが生じているのが手に取るように分かった。 「弱さに舵を切ることは、悪いことではありません。むしろ、人類の進化としては、正しい判断なのですよ」  医者は畳みかけるように、それらしい話を真也にぶつける。 「虚弱思想が個人の思想では片付かない、もっとスケールが大きい話をしましょう。太古の昔、サルから猿人へ、猿人から人間へと進化する過程で起きた最大の謎があります。それは、なぜ人間は、動物の中で最弱の形態に進化してしまったのかということです。人間はなぜ進化の過程で鋭い牙や堅い爪を捨てたのでしょうか。分厚い毛皮を捨て、頭髪と一部の体毛を残して、薄い皮膚だけで体を覆ったのでしょうか。二足歩行になることで速度を出して移動することができなくなり、天敵から逃げるのにも、獲物を追うにも不利になりました。人類の進化を紐解くと、実は太古の昔から人類はみな虚弱の方へ向かい続けているという真実に気づくことができるのです」  真也はあちこちに飛ぶ話題に多少困惑しながらも、懸命に話に食らいついてきている。そもそもが、優しくて真面目な性格なのだ。親や先生や医者といった目上の者の面子を潰すことなく、説教を素直に聞き、自分の中に落とし込むことができる。これは真也の美徳でもあり弱点でもある。 「サルから人間に進化したのちも、人間は劣勢の遺伝子ばかりを残し続けているのです。それは何故だかわかりますか。戦争です。弱い方へ弱い方へと進化した人間は、強さを失う代わりに高い知能を得ます。高い知能を得たことにより、人間は道具を作り出しました。便利すぎる道具をたくさん開発してしまったこと、これも人間の不幸な進化と言えるかもしれません。なぜなら、人間同士が争う過程で、大量に人間を殺すことができる兵器を作ってしまったからです。我々は進化の過程で攻撃性のある牙や爪を捨てたにもかかわらず、同族同士を殺し合う種族になってしまいました。高い知能を得た人間が自ら起こす負の連鎖。高い運動能力と攻撃性を持った人間以外の動物、例えばライオンは、餌となる草食動物を狩るのに、その攻撃力を使います。ライオン同士でもケンカをすることはあるかもしれませんが、相手が命を落とすところまでやり合いません。ところが人間は、ライオンのような鋭い牙や爪が無くても、それに代わる高い知能を持つことで、道具を作り、コミュニティをつくり、争いを起こして同族同士で殺し合いをします。道具を使って攻撃をする人間が争うと、ケンカの範囲にとどまらず、殺し合いになってしまうのです。古代から近現代にかけて、人殺しの道具はたくさん発明されてきました。ガス室や核爆弾など、大量殺人兵器と呼ばれるものまで生み出されます。戦争は、必然であり宿命的な、なんとも悲しい人間の習性です。習性であるからこそ、人間同士の争いは歴史上何度も繰り返され、科学が発展した現代でも続けられ、これからも未来永劫無くならないでしょう。戦争を起こし続けた結果、人類はどうなるか分かりますか。健全で優秀な人間、強い男子から数を減らしていくんです。人間が戦争を続けるせいで、秀でた人間は、戦場に立ち、弱き者を守るために先に死んでしまいます。そのために、強き人たちの気高い思想は継承されにくいのです。戦いの後に残るのは、銃後の婦女子やけがを負った傷痍軍人、戦争に行けなかった弱き人たちです。弱き彼らの記憶には、戦争は怖くて恐ろしいものだと刻み込まれます。そんな弱き遺伝子ばかりを積み重ねた先に、我々が生きる現代があるのです。劣勢へ向かうことは、抗いがたい人間の本質と言えるでしょう」  医者は、噛んで含めるように、なるべくゆっくりと穏やかな調子で話した。真也は眉根を寄せて医者の話を聞いている。だんだんと理解が追い付かなくなってくる真也の表情を見て、医者は満足し、話を切り上げることにした。 「すみません、青山さんならきっと正しく理解をしてくれるだろうと思い、つい話過ぎてしまいました」  医者は話をしながら液晶画面に向き直る。本日分の薬の処方を出しながら、またお話しできるのを楽しみにしています、と雑に締めくくり、その日の診療は終わった。  診察ののち、真也は大変混乱した。虚弱思想をまくしたてられ、無責任に診察室から追い出されてしまった。突然突き放されたことに憤慨する気持ちは、疲労によって相殺されてしまう、思考するエネルギーを失いぼんやりとして、どのように車を運転して帰宅したのか記憶があいまいだ。医者の話を鵜呑みにすれば、弱い立場に身を置く正しさや気持ちの良さの理由付けができてしまう。強き立場を固辞して努力を続けることが虚しくなってきた。  テレビのスイッチをつけると、午後のワイドショーでは大都市に流入する労働難民の特集をしている。東京・大阪・名古屋などの大都市圏に、仕事を求める人が集まっているのだ。AI技術が発達した世の中で、同じことを繰り返す業務や簡単な仕事は、ほとんど自動処理に置き換わってしまった。人間に残された仕事は、高度で複雑な仕事か、機械に置き換えることはできないが誰にでもできるために給料が低すぎる仕事のどちらかである。しかし、世の中には高度な業務を行うことができる人間ばかりではない。団塊の世代が死に絶えた現在、地方の産業はどこも縮小傾向にある。仕事の種類も量も減っているため、ひとりひとりの特技や個性と仕事とのマッチングが厳しくなっているのだ。地方行政は随分前に、市民全員の救済を諦めている。わかりやすい疾患を持っている弱き人たちに対しては支援をせざるを得ないが、明らかな障害がない健常者の中に紛れ込んでしまっている弱者については、身を崩そうがのたれ死のうが自己責任で、救済の手を差し伸べない。行政側に立った物言いをすれば、税収が落ちているために全員を平等に救うことができないのだ。行政の手落ちを埋めるようにNPOなどが強き者の立場から支援を行っているが、それも十分ではない。支援を受けられることを知らない者もいれば、支援を受けることを拒む者がいることも事実だ。地方で仕事に就くことができなかった人は、大都市であれば自分にもできる仕事があるだろうと一縷の望みを抱き移住をする。だが、地方で仕事にありつけない人は、都市でも不要な人材なのだ。経済的にも能力的にも恵まれないスペックが低い人間ばかり集まった都市部は、民意も低く、治安も悪くなる。この世の中には、どこに矛先を向けたらいいのかわからない不満が満ち溢れているのだ。諦めが悪い弱者の不満が爆発し、いつ、どんなテロリズムが起きてもおかしくないような状況になっている。  真也は遠い都市部の問題を、自分の身に置き換えて考える。労働難民たちは、自分が強き人だと勘違いしている堅い人なのであろう。堅い人が自分の弱さを認められないと、こういう問題として噴出するのかと、労働問題を自分なりに咀嚼する。そして、医者の言葉を断片的に思い出す。ストレス性胃炎を抱える自分自身も、弱さを認められない自分の認識と、実際に弱ってしまっている体の状態が食い違っている堅き人であるという事実を突きつけられている。自分が堅き人であり続ける限り、テレビに映る不潔で顔色が悪い労働難民たちと同じように、社会のバランスを崩す原因になるのかもしれないと思うと、恐ろしくなった。弱さを認められないがために、自分がひずみの中心となり家族や職場の足を引っ張って周りに迷惑をかけるのは、生真面目な真也にとっては耐え難いことであった。  熟考した真也はその日の夜、意を決して愛用していた寄付の返礼品のトートバックをゴミ箱に捨てた。  世の中に無数にいるであろう堅き人たちの中から、自分だけが弱き人に転落したことが許せなかった。世の中のバランスを崩している堅き人たちに、自分自身は弱い存在だと気づかれねばならない。真也の心の中にそんな使命感が芽生えた。 四年後。  未曾有の食品テロ事件を起こした現場となったパン工場は、営業停止措置がとられた。  事件が発覚してから従業員たちには自宅での待機命令が出て、それ以来一度も出勤を許されていない。  パン工場の前には各テレビ局の取材班が押し寄せ、工場の外壁を舐めまわすように撮影する。  かつて真也に胃薬を渡した女子従業員は、昔のことを思い出しながら新聞の一面記事を残念そうに眺めていた。ファッション虚弱のブームは去り、彼女は大人の女性にふさわしい落ち着いた装いをしている。 「青山さん、まさか本当に、不名誉なニュースで新聞に載っちゃうなんて」  青山真也が起こした食品テロ事は、過激化した虚弱思想論者が起こした事件として、犯罪史に名を刻んだ。 【パン工場食品テロ 使用薬物は処方薬】 青山真也容疑者(34)は、約1年間にわたり、勤め先である〇〇食品加工工場にて、医師から処方された薬剤を製造ラインに混入させて不特定多数を狙った無差別食品テロを実行した。指定暴力団〇〇の犯罪拠点として使われていた住宅(地元では舌切り御殿と呼ばれていた建物内)に青山容疑者が逃げ込んだところを警察が身柄を確保した。犯行現場の〇〇食品加工工場は、近隣市町村を含め地域の食生活を支える中小規模の会社であり、市内小中学校や病院、老人介護施設等へもパンを提供していた。犯行期間が長期にわたるため、パンに練りこまれた薬物の種類・量は不明であり、健康被害の規模や死者の有無など、今のところはっきりとしない。 実行役の青山容疑者は総合病院に通院していたことが知られている。病院から処方されたと薬を使用したと供述していることから、病院にも協力者がいることが疑われており、捜査の手が及んでいる。この事件は地域の主食を狙った非常に悪質な手口の無差別テロであるため、実行役の青山容疑者だけでは無く、裏で支えていた協力者たちもあぶり出し、厳しい処断が求められる。 近所の人の証言から、青山容疑者は過激な虚弱思想論者であったことが分かっている。行き過ぎた虚弱思想が社会を混乱させている。これまでも虚弱思想論者は様々な問題を起こしてきたが、自傷行為を取り締まる法律はないためこれまで野放しにされてきた。今回の無差別食品テロのような、他人の健康を害した事例は初である。
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