俺たちは〇〇だったらしい

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 まっさらな頭で目が覚める。思考が動き出すまでのあいだ、少しだけぼうっとする。それが長く続かなかったのは、天井にでかでかと書かれた文字に気づいたからだった。 『起きたらまず枕元のノートを読むこと! 読むまでは決して部屋を出るな!』  はて、なんのことだろうと思う。不思議なのはそれが俺の字で、書いた理由が思い出せないどころか、書いたことさえ思い出せないことだった。  小さなパニックが生まれ、きょろきょろと部屋を見回す。  ここはどこだ? なんで、俺はここにいて、俺は……??  なにも分からないことが怖い。明るい部屋なのに、黒いシミのような闇が視界の隅からじわじわと広がっていく気がした。  空間の右側に扉を見つけて、とっさにここから出ようと思った。とにかく、なにか情報がほしい。  見覚えのない……けれど身体に馴染んだベッドからそろそろと下り、扉へ向かう。その木の板の向こうからかすかに人の気配がした。  ドアノブに手を掛ける。でもちょうど俺の目の高さに、また目立つ色の紙が貼ってある。 『ノートは読んだか? そこには()()知りたいことが書いてあるし、読まずに部屋を出れば()()()()()()()()』  ベッドを振り返る。そこには簡素な表紙のノートが置かれている。  自分の字から伝わってくる必死さに背中を押され、俺はベッドまでの短い距離を戻ってノートを手に取った。文具屋だけじゃなく、コンビニでも買えるようなよくあるノートだ。  しかし何度も、何度も繰り返し読んだかのように、端が擦り切れ、浮いていた。    なにか恐ろしいことが書かれている気がする。一瞬の逡巡を経て俺はノートを開いた。 『俺へ  ちゃんと夏梅(なつめ)に会う前にこれを読んでるな? 訳が分からないと思うから単刀直入に書く。  俺は水瀬(みなせ) (あおい)。1995年生まれだから……今は何歳だ? 自分で計算しろ。  そして、――驚くなよ。お前は記憶が毎日消える病気だ。26歳のとき、俺は交通事故で頭を打った。その後遺症らしい。起きたとき、なにも思い出せなかっただろ?  だから毎朝このノートを読んで、俺は自分のことを、そして夏梅のことを思い出す必要がある。夜、眠ったらリセットだ』  書かれていたことを隅々まで読み切って、俺はノートを閉じた。無意識に詰めていた息をはぁ〜っと長く吐く。  他人が見たら信じられないような内容だけど……俺にはこれが真実だとわかった。まぁ自分の字だし、記憶にはちゃんと空白が横たわっている。    ――困ったな。厄介な病気だ。しかも、治るかはわからないと書いてあった。  けれどノートには自分によって書き足された情報があって、そこから俺は僅かに希望を得ていた。  今度こそ、寝室を出る部屋の扉を開けた。 「おはよう、夏梅」 「葵! おはよう。気分はどう? ノートは読んだ? 頭が痛いとか……ない?」  俺を見て、ぱぁっと明るい笑顔を見せるイケメンがいた。なんか……胸がぎゅうっとする。  イケメン、もとい夏梅はエプロンをつけてキッチンに立っていた。ノートに書いてあった内容によると、朝晩の食事は夏梅が用意してくれる。昼間は仕事があるから、その間に俺が家事を済ませるらしい。  家事といっても自分ひとりぶんの昼食と、掃除洗濯のみだ。専業主婦以下の体たらくである。まぁ、今の俺では働けるはずもない。  顔を洗ってダイニングに戻ると、夏梅がダイニングに朝食を運んでいるところだった。こんがり焼けたトーストに目玉焼きとサラダ、オレンジジュース。 「葵は朝ごはんしっかり食べる派じゃないって分かってるけど……健康のためだから。食べてくれる?」 「う……うん。がんばる」  そうなのだ。見た瞬間、ちょっと多いな……と思った。けれど毎朝、夏梅は俺に同じことを言っている確信がある。  白いシャツにグレーのスラックスを履いた夏梅は体格もよく上背がある。斜め上から見下ろされているのに、眉尻を落として「お願い」してくる様子には()()が見えた。  決して嫌な感じじゃない。むしろ可愛い。俺はまた心臓がドキンと音を立てるのを聞きながら、素直に頷いた。  仕事に行く夏梅を見送って家事を済ませたら、寝室からまたノートを持ってきて読んだ。前半は状況の説明で、後半は日記のような、俺から俺への情報共有だった。 「うぐ……うぐぐぐ、痛ぇ」  記憶を手繰り寄せようとするとズキズキ、頭痛が襲ってくる。しかしそれを止めるという選択肢はなかった。      * * *     「葵、ただいまぁ〜」 「夏梅、おかえり」  夜、帰ってきた夏梅を出迎えると目をぱちくりさせた。驚いている理由は、俺がエプロンを着けているからだろう。 「え! この匂い……料理したの?」 「おう! 久しぶりだろ?」  呆気にとられている夏梅に手を洗わせ、ダイニングに座らせる。  コト、と左手で目の前に皿を置いてやれば、夏梅ははらはらと涙を流した。    大きめの野菜がごろごろと入った、なんてことないシチュー。  一緒に暮らし始めた頃、カレーかシチューくらいしか上手く作れなかった俺の定番料理だった。料理が上手いのは夏梅のほうだけど、どうしても何か食べさせたくて。  飽きるくらい食べさせても、笑顔で美味しいと喜んでくれた。  左手の薬指には、夏梅の寝室から探し出したプラチナのリング。  パートナーシップ制度で夫夫となった俺たちが、まっすぐに買いに行ったものだ。  子どもみたいにぐちゃぐちゃの顔で、嗚咽をこぼしている夏梅を抱きしめた。 「遅くなってごめん」 『2022/11/22  今日も夏梅はかっこいい。たぶん、毎日忘れて毎日格好いいと思っている。それを夏梅に伝えたっけ? と思い夜に伝えたら、顔を真っ赤にして狼狽えていた。どうも俺は伝えていなかったみたいだ。めちゃくちゃ可愛かった。なんかこれ、毎日一目惚れしているみたいだ。    2022/12/24  思い出せ! 頭がどれだけ痛くても、思い出す努力を怠るな。どうやら俺の頭は事故のとき、大切な記憶を守ろうとして脳の奥深くに記憶を仕舞ったようだ。未だに記憶を守ろうとする自分と、それを取り出そうとする自分。俺と俺の戦いだ。  2023/3/14  徐々に記憶のピースがあてはまる。夏梅は俺の上司だった。そして好きな人でもあった。  2023/7/7  うわー! 最高の記憶を取り戻した。……けど、死ぬほど頭が痛い。内容だけ書いて、とにかく寝る。  2023/8/31  あらゆる行事、記念日を夏梅は楽しもうとしていた。だからそれがきっかけで重要なことを思い出す。野菜の日だから俺の作った野菜たっぷりのシチューが食べたいって……子どもかよ。歳上なのに、夏梅はどの思い出の中でも可愛い。  2023/11/  伝えよう。ちゃんと全部思い出したってことを。このノートがあれば、また忘れても大丈夫だ。俺が夏梅を愛していて、それ以上の愛を献身という形で表してくれた夏梅。  好きだ。大好きだ。  ――遅くなってごめん』
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