Step 1 Cacao 30%

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Step 1 Cacao 30%

「明後日からパリ出張?」  響子は楽譜から顔を上げ、ダイニング・カウンターの向こうの母を見た。 「そうなの。お父さんがね、やっぱり内装も先に決めなきゃならなくなったって」  食器を片付けながら母が答える。カチャカチャという皿の音の間に、パタン、トン、と戸棚の音が混じってリズムを作る。 「もちろんデザインは渡してあるけど、向こうのデザイナーが実際に見て欲しいって言ってるらしいのよ」  建築士である響子の父親は美術館などの大型施設を主に設計している。国内はもちろん海外にもオフィスを構えていて、出張など日常茶飯事だ。父がパリ拠点のオフィスで新しいホテルの設計を任されたのは数年前のことで、建築の最終段階に入ったホテルの現場を見に日本を発ったのは数日前。今回インテリア・デザイナーの母が内装を依頼されたというのは響子も聞いていた。 「いいなぁ、私もパリ行きたい。サロン・ド・テしたい」  楽譜を机の上に置くと、響子はその上に肘をつく。五線譜に散らばる音符がなかなかうまく読み解けなくて嫌気が差し始めていた。両親揃って出張の時にはたびたび響子も連れて行かれていたし、初めて弾く曲にちょっと背を向けたい気分だった。 「だめよ、来週から定期試験でしょ」 「追試でも受けられるもん」 「何言ってるの、そのあと発表会も近いのに。一日弾かないと指が(なま)るって一番怖がるの、響子じゃないの」 「そうだけどぉー」  幼稚園の頃からピアノを習っていた響子は、高校に入って音大進学を決めた。音楽高校ではないだけに、放課後は和声その他の勉強にも時間をとられてしまうので、練習時間もぎりぎり確保している状態なのだ。さらに定期試験の二週間後にはピアノの発表会が控えている。確かに、この時期に指の感覚を鈍らせるのは恐怖でしかない。  そう考えていると、母がエプロンを外しながらダイニング・テーブルに近づき、響子の正面の椅子を引いた。 「それでね、いくらなんでもあなた一人じゃ危ないから、(たくみ)くんに来てもらうから」 「えったくちゃん帰ってきたの?」 「ええ、今日帰ってきたって」  匠は響子の家の真向かいに住んでいる家族の長男で、今は調理師専門学校に通っている。匠の父親は長らく有名ホテルの料理人を務めていたが、匠が高校を出て専門学校生になったのをきっかけに独立し、イギリスに店を構えた。そのため向かいの家には、今は匠が一人で暮らしている。  匠は一ヶ月ほど前から学校の研修でヨーロッパに行っていたはずだが、「そういえばたくちゃんち、電気ついてたっけ」と響子は学校から帰ってきたときのことを思い出した。 「そういうわけでさっきお母さん、頼んできちゃったから。でも匠くんもいま、来年からの専門決める大事な時期だから、居てもらうだけよ。響子も邪魔しないようにしなさいね」 「自分で頼んどいてそれぇー? お母さんも図々しいなぁ」  そう言いながら、響子は頬が緩むのを自分でも感じた。匠が高校生、響子が中学生の頃には家族同士で家を行き来し、よく食事を共にしたものだ。しかし専門学校に入学して匠が忙しくなった後はその頻度も減っていた。  ——そういえばたくちゃんと二人で会うの、いつぶりかな。  ふとそんなことを思いながら、響子は窓の方を振り返った。カーテンの向こうにある匠の部屋の窓は直に見るように頭に浮かぶのに、思い描いた匠はまだ高校の制服のままだった。
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