天色の瞳

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天色の瞳

 ヴァランタン家の屋敷に戻ったオディールは、使用人に命じて、客室の一つを拾ってきた男を寝かせる為に準備させた。  寝台に横たわり苦し気に息を()いている男の顔を、オディールは、湯に浸して絞った布で拭いてやった。  汚れを落としてみると、男が思っていたよりも更に若いことに、オディールは気付いた。  (やまい)の為か髪や肌の(つや)は失われ、やつれている上に薄汚れていた所為で()けて見えたものの、男はせいぜい二十歳(はたち)過ぎくらい――オディールと変わらない年齢のようだった。  寝間着に着替えさせる為に男の服を脱がせると、その身体のあちこちに、打ち身なのか青黒い(あざ)ができている。  呼び寄せた医師の診察によれば、男は栄養不足と寒さで弱っていたところに、呼吸器への感染症を起こしているのだろうということだった。  また身体のあちこちにできている(あざ)は、外傷――棒のようなもので殴られた(あと)というのが医師の見立てだった。 「喧嘩でもしたのでしょうか……この男、ろくでもない(やから)なのではありませんか」  オディールと共に医師の診察を見守っていたクレモンが、眉を(ひそ)めた。 「単なる被害者かもしれないでしょ?」  よく見れば、男は品のある顔立ちをしているように、オディールには感じられた。  熱に浮かされ朦朧(もうろう)としていた男に、医師から処方された薬を飲ませ、氷嚢や氷枕をあてがってやると、その呼吸は少しずつではあるが、安らかなものになりつつあるようだった。  執事のクレモンを始め使用人たちは、自分たちが男の様子を見ているので、オディールには休んで欲しいと言った。  しかし、この男を拾ってきた責任が自分にはあると考えたオディールは、一晩中、彼に付き添った。  ふと気づくと、オディールは椅子に腰かけたまま、男が横たわっている寝台に突っ伏していた。  看病しているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。  窓掛け(カーテン)の隙間からは、明け方のものと思しき光が漏れている。  オディールは慌てて男の顔を見やった。  荒く浅かった呼吸は落ち着いており、彼は深く眠っている様子だった。  その額に触れてみると、まだ平熱とまではいかずとも、屋敷に来た時より熱は下がりつつあるようだ。  オディールが、すっかり中身の氷が溶けてしまった氷枕を交換していると、男は薄らと目を開けた。  その瞳は、オディールが前日に描こうとしていた天色(あまいろ)の空と同じ色をしていた。  男は初めのうち、ぼんやりと宙を見ていたが、オディールの姿を認めると怪訝そうな、そして警戒するような表情を見せた。  次の瞬間、男は弾かれたように飛び起きた。  しかし、ふらつく身体を支えられなかったのか、彼は低く呻いて再び寝台の上に倒れた。 「寝ていなさい。まだ完全に熱が下がっていないのだから」  オディールは、乱れた毛布を男に掛け直してやりながら言った。 「あんた……誰だ? いや、ここは……どこなんだ?」  (かす)れた声で言うと、男は、首だけ動かして部屋の中を眺めた。 「私は、オディール・ヴァランタン女伯爵。ここは、私の屋敷よ。道端に、あなたが倒れていたから、ここまで運んできたの。あなたは意識朦朧とした状態だったから、覚えていないと思うけど」 「じょ……はくしゃく……って、あんた、貴族なのか」  オディールの言葉に、男は驚いたのか、目を見開いた。 「一応はね。ところで、あなたの名前を聞いていいかしら」 「すまない……自分が名乗る前に名前を尋ねたのは失礼だったな。……俺は、サシャだ」 「そう。とりあえず、何か食べられそうなものを作らせるわね。詳しいことは、食事の後に聞かせてもらうわ」  言って、オディールは男――サシャの口元に水の入った吸い飲みを近付けた。 「飲みなさい。熱を出した後は、体内の水分が足りなくなって具合が悪くなることも多いのよ」  サシャは少しの間逡巡(しゅんじゅん)していたが、無言で吸い飲みの口を咥えた。  喉が渇いていたのか、拳ほどの大きさの吸い飲みに入っていた水を、彼は飲み干した。 「他に欲しいものがあるとか、用を足したいとかがあれば、枕元に呼び鈴を置いておくから、それを押しなさい。使用人たちには、話をしてあるわ」  オディールが呼び鈴を押すと、間もなく執事のクレモンがやってきた。  スープや粥といった、病人でも食べられそうなものを持ってきて欲しいとオディールに言われ、クレモンは、承知しました、と部屋を出て行った。  少し経って、クレモンは、(うつわ)と湯気を立ち昇らせている鍋を台車に載せて運んできた。  オディールは、サシャの背中の後ろに枕を積み重ねて、起き上がった彼が寄りかかれるようにしてやった。 「これなら、起きていられるでしょう。食事は、自分でできそう?」 「たぶん……大丈夫だと思う」  言って、サシャは不思議そうにオディールを見た。 「貴族の人って、自分では何もしないと思っていたけど、そうでもないのか?」  彼の言葉に、オディールは、くすりと笑った。 「そういう人もいるかもしれないわね。でも、私の実家は貴族とは言っても貧しかったから、何でも自分でやるしかなかったの。それに、病人の世話は、亡くなった夫で経験済みよ」  かつて、病に倒れ床に臥せっていたヴァランタン伯爵の看病を、オディールは自ら行っていた。  もちろん、使用人たちや雇った看護婦もいたが、貧しい生活から抜け出させてくれたことに対する感謝の気持ちを、夫に少しでも伝えたかったのだ。 「貴族が、貧しいなんてことがあるのか?」  信じられないという様子で、サシャが首を傾げた。  平民が想像する貴族は、全ての者が自らは動くことなく毎日贅沢三昧をしているというものなのだろう。 「もう少し、口の利き方に気を付けなさい。このお方は、女伯爵閣下ですよ」  (かたわ)らで、ずっと渋い顔をしていたクレモンが口を挟んだ。 「生憎(あいにく)、育ちが良くないものでね。気取った口の利き方は分からないんだ」  サシャが肩を竦めて答えた。  皮肉とも受け取れる物言いに、クレモンは何か言いたそうにしていたが、小さくため息をついたのみだった。  「お金だって無限に湧いてくる訳ではないもの。無駄遣いすれば困窮するのは当然よ。……ほら、スープが冷めてしまうわ。ゆっくり食べるのよ」   オディールに促されたサシャは、渡された皿からスープを匙ですくって口にした。   目を覚ました時は、やや険のある表情を見せていた彼だったが、食事を終える頃には、人心地がついたのか穏やかな目をしていた。 「……そろそろ、あなたのことについて聞かせてもらっていいかしら」  そう言って、オディールがサシャの顔を見ると、彼も、その天色(あまいろ)の瞳でオディールを見つめ返した。  オディールは、改めて見るサシャの瞳を綺麗だと思いながら、何をどう話そうか考えているであろう彼の言葉を待った。
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