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2.黒っぽいバナナ
被告人と初めて会ったのは、8歳の冬だった。
故郷の秋田はその年、記録的な寒さだった。
路上に現れた天然スケートリンクにはしゃいだ私は、きょうだいと家の前で滑って遊んでいた。しかし、勢いよく転んで泣いてしまった。
「あれえ、なした」
涙の向こう側から声がした。
「膝どご擦りむいたんでねが。見せでみれ」
私が余計にビービー泣くと、声の主のおじさんは困ったように唸った。そして「待っでれ」と言うと、薄汚いアパートに入っていった。
しばらくして戻ってきたとき、おじさんは右手にばんそうこうとバナナを持っていた。
「ほれ、ける。大丈夫だがら、あど、泣ぐな」
私は驚いて、泣き止んだのを覚えている。
骨や皮膚の痛みの中で、突然バナナが現れたのだから。
皮がぐじゅぐじゅと柔らかくて、表面に無数の黒いぽつぽつがあったのを覚えている。黒ずんだ先端部分は乱暴に千切られた跡があった。
この時から左手はしわくちゃの唐草模様の手ぬぐいに包まれていた。
布の下から漂う悪臭は学校の古いトイレに似ていた。そこには武器が隠されているものだと思い込んで、「ピーター・パン」に出てくるフック船長を想像した。
とにかく子どもの私には、ひどく恐ろしいものに見えた。
受け取るしかなくて、ばんそうこうとバナナをもらった。
そばにいた姉と弟が小声で「怖い、逃げよう」と言った。私たちは一目散に走り出し、おじさんをその場に残して自宅に帰った。
玄関で立ち尽くす私に母親はヒッと悲鳴を上げて、黒っぽいバナナを取り上げた。
「古いバナナは食べてはいけません」、「あのおじさんは怪しいのだから関わってはいけません」と言った。
内気で友達の少ない私にとって、母親の言うことは絶対だった。
それが何を意味しているか分からないまま、8歳の私はただ頷いた。
それから大学進学を機に家を出るまでおじさんを何度か見かけたが、私から話し掛けることはなかった。
おじさんは話したそうにしていたけれど、会釈するだけにとどめた。
あのときのお礼を言っていないまま、30年。
最後に会ってから20年が過ぎた。
泣き虫だった私は司法試験に合格して、東京で裁判官を務めていた。
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