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神崎莉央というオメガ
2XXX年――N国の歓楽街K舞伎町。
小糠雨で濡れた地面に街の灯りが反射する。怪しげな看板のひしめく通りは水溜りの照り返しに彩られ、さながらこの界隈に集まる人間の欲望と浅ましさを映し出す万華鏡のようだ。
その一角で神崎莉央は今まさにアルファ・オメガ専門ホストクラブの裏口から転がり出てきたところだった。
莉央の後ろからスーツ姿のオーナーが威圧的なアルファのフェロモンを漂わせながら出てくる。
「俺の金に手を付けて許されると思うなよ、神崎」
莉央はここで働くオメガホストだ。そしてこの男に内緒でマネージャーから店の金を借りたうえ、客に600万円分の売り掛けを残したまま飛ばれた――つまり、代金未払いのまま逃げられた。その穴埋めをしなければならないものの、莉央はもうかれこれ数ヶ月間その金を補填することができずにいた。
オメガ好きのマネージャーは莉央に甘かったから今日まで見逃されてきたが、いよいよ上にバレてオーナー直々に乗り込んできた。そして確実に金を回収するため、莉央は風俗店に引き渡されそうになっているのだった。
濡れた地面に膝をついたまま莉央は長身のオーナーを見上げて両手を合わせた。
「もう少し待ってください! 当てがあるんです。今日……今夜この後お金を受け取る予定だから!」
「お前が口先だけなのはマネージャーから聞いてる。こいつらについていけばちゃんと稼がせて貰えるから、安心して出稼ぎに行って来い」
人相の悪いタトゥーだらけの男が二人、オーナーの後ろから現れて莉央に近づいてくる。
莉央は奥歯を食いしばった。
(あんのエロマネージャー、黙ってる代わりに咥えろって言うからやってやったのにオーナーにチクりやがって……!)
一見品の良さそうなルックスのオーナーだが、金にはうるさいと評判だ。一度カネのことで怒らせると容赦ない人だと店長が以前話していた。
(このまま捕まったら風俗に沈められて――……下手したら母さんの入院費も払えなくなる!)
男の太い腕が伸びてきて、莉央は腹を括った。
「絶対お返ししますから、今回は勘弁してください――!」
地面に額を擦り付けて叫ぶと、彼らが一瞬ひるんだ隙に立ち上がり、背を向けて走り出した。
「待て! おい、絶対逃がすな、追え!」
オーナーの怒号が飛ぶ。莉央の細くしなやかな体が狭い通りを駆け抜けていく。地面の水が跳ね、明るいブラウンの髪が街の光を浴びてネオンカラーに輝いた。すれ違った通行人が莉央の容姿とオメガ独特の甘い香りに引き寄せられるようにして振り返る。一度見たら忘れられないほど鮮麗な顔立ちの莉央は、この街の業を煮詰めた結晶のような『オメガ』だった。
「待てォラァ!」
「止まらねえとぶっ殺すぞ!」
追いかけてくる男たちを引き離そうと全力で走り、若い男性がスマホをいじりながら立ち並ぶエリアまでやってきた。彼らは立ちんぼ――いわゆる路上売春のためここで客を待っているオメガ男性だ。
(邪魔なんだよ!)
彼らを避けて角を曲がったとき、巨大な物体に正面から思い切りぶつかった。
「ってぇ……!」
反動で倒れそうになったが、ぶつかった相手が莉央の手を掴んだので転ばずに済んだ。咄嗟に目の前の人物を見上げて怒鳴りつける。
「あぶねえな!」
「それはこっちのセリフだ」
「え……大隈!?」
莉央がぶつかったのは、壁のように分厚い胸板の熊みたいな大男――警視庁S署オメガ対策課の刑事大隈岳登だった。彼はオメガ関連の犯罪全般を担当しており、オメガ風俗を取り仕切るこの界隈の人間なら知らぬ者はいない。皆密かに彼のことを「クマ」と呼んで忌避していた。
案の定、莉央を追いかけてきた男たちは角を曲がって大隈の姿を認めると、急に何か思い出したかのように莉央を追うのをやめて去っていった。嫌がるオメガを無理やり風俗店で強制労働させるのは違法だからだ。
(助かった……)
ホッと胸を撫で下ろしたものの、今は刑事と話している場合ではない。そのまま「ぶつかって悪かったな」と通り過ぎようとした莉央の細い腕を大隈が黒く日焼けした大きな手で掴んだ。
「お前に話があるんだ」
(ちっ。なんの件だ? まさかまた誰かが被害届出したとか……?)
莉央は詐欺容疑で逮捕歴のあるオメガだった。自分よりずっと恵まれていて、裕福なアルファ男に好意があると思い込ませて騙し、少しずつ金を絞り取る寄生虫のようなオメガ――。
「悪い、俺急いでるからまた今度聞くな。じゃ!」
「あ、おい! 待て神崎!」
大隈の手を振り払って走り出す。莉央は逃げ足が速い。入り組んだ路地をめちゃくちゃに方向転換しながら走り回り、大隈が追いかけてくる気配がないのを確認してタクシーに乗った。
車内のホログラム広告には『N経平均株価が8万円台に』の文字。その画面はすぐに仮想現実空間での海外旅行を宣伝する広告へと変わった。『記念日を大切な人と南の島ですごしませんか? 豪華クルーズの旅へ。今すぐお申し込みを!』――AIタレントの男性夫夫が赤ん坊を抱き、海岸沿いで夕日を見つめる映像――。
それを見て「何が南の島だよ」とつぶやきながら莉央は車を降りた。
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