神崎莉央というオメガ

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 なんとか五分遅れで待ち合わせ場所のバーに到着した。普段働いているホストクラブと違って落ち着いたクラシカルな雰囲気の店。そのボックス席に座っていたアルファの金づるを莉央はすぐに見つけることができた。  はじめは客として来店し莉央が担当していたアルファ男性で、最近は店外で会うようにしている。この男は莉央が頼んだらすぐに札束を用意してくれる貴重な太客だ。莉央は人当たりの良い笑みを浮かべて向かいに座る。 「遅れてごめんね、待った?」 「いえ、私もいま来たところですよ」  飲み物を注文してすぐに、相手が本題に入った。 「早速ですが、約束のものを――」  頼んだのは三百万円のはずだが、実際に彼が用意してきたのは小型のアタッシュケースにびっしりの札束だった。莉央はそれを見て目を丸くする。 「どうしてこんなに……?」 「あなたの事業計画に心を動かされたので」  莉央はあまりのことに頬が緩むのを抑えきれなかった。この男には、ホストを辞めて新しい事業を始めたいと話していた。そのスタートアップに必要な金を援助してほしいと頼んだのだ。  当然そんなのは嘘で、オーナーに返済する分と、入院している母親の治療費に消える金だ。莉央が吸い寄せられるようにアタッシュケースに手を伸ばすと、男性がさっとケースを引いて微笑んだ。 「ですがこれはすぐにはお渡しできません」 「え……?」 (なんだよ、焦らしやがって。やることやってからだって言いたいのか?)  莉央はこの男が自分の体を買おうとしているのだと理解した。これまで何度か小さな金額を受け取ってきたが、その都度体の関係を持たなくてすむようのらりくらりとかわしてきた。しかし、これだけあればオーナーに金を返して母親の治療費を払ってもお釣りが来る――。 「こちらから提示する条件をのんでいただければお支払いします」 「条件って?」 「ゲームに参加してほしいのです」 「ゲーム?」  急な提案に莉央は眉をひそめた。こんな大金が動くゲーム――? 「開催地へ行き、ゲームに参加して頂ければこちらを全額投資させて頂こうと思います」 (ただゲームに参加するだけでこの金額を――? そんなの断る理由がない。だがそれにしては話がうますぎるな) 「どんなゲーム? 参加するだけで、勝たなくていいの?」 「あなたは参加するだけで結構です。ただ、もしこの条件がお気に召さないようでしたら――」  そう言って彼がケースの蓋を閉じかけた。莉央は反射的にその蓋を手で押さえる。 「待って! もちろんやらせてもらう」  彼は莉央の目をじっと見つめた。まるで、どれだけの覚悟があるのか見極めようとでもいうかのように――。  そして、数秒の後彼が笑みを浮かべた。 「では交渉成立です。乾杯しましょう」  男性がバーテンに目配せすると、シャンパングラスが二つ出てきた。  グラスを掲げて彼が言う。 「愛と繁栄に乾杯」 「乾杯」 (愛と繁栄? 何言ってるんだこいつ。まあいいか)  莉央はいつになく上機嫌で酒を喉に流し込んだ。口の中で泡のはじける感触が心地良い。オーナーに捕まりかけたときはどうなることかと思ったが、これですぐに風俗に沈められることはなさそうだ――。 (どんなゲームか知らないが、参加するだけならなんだってやってやるよ) 「リオくん、気分が良さそうだね」 「だってこんなサプライズを用意してくれたから感動しちゃって」  莉央は微笑んだ。これは本心だった。 (優しいアルファさんありがとうよ。セックスどころかキスすらせずにこれだけの金をポンと渡してくれるんだから)  金が余っているところからちょっと拝借するだけだ――何が悪い?  オメガを追い詰めるのはいつだってアルファの方だ。たまには手を差し伸べてもらってもいいだろう。  自分が食べるのに困っても、警察のお世話になるようなことをしてでも莉央は同じオメガの母親のために治療費を必死で用意してきた。  母親はバース性のフェロモンにアレルギーがあって、ヒートを起こすごとに自らのフェロモンにより症状が悪化していくという難病に苦しんでいた。  治療のため、国内で認可されていない高価な薬品を使わねばならないこともあって治療費がいくらあっても足りない。オメガの莉央が金を稼ごうと思ったら、ホストとして働くしかなかった。それでも足りない分はこのようにしてアルファ富豪を騙して金を集めている。 「ん……?」    急に視界がぼやけた気がして莉央は目をこすった。一瞬自分が感傷的になって涙でも流したのかと思った。  しかし違う。 「どうしたんだい?」 「え、いや……なんでも……」 「おやおや、もうおねむの時間かな? ネズミのように走り回ったせいで疲れているんだね」 「え……?」 (なんでこいつ、俺が走り回ったのを知っているんだ?)  それから一気に視界がぐにゃりと歪んだ。手にしたグラスを見つめる。 (まずい、薬が入ってたのか!)  今飲んだ酒に何か混入されていたらしい。現金を見せられてつい油断した。相手はグラスに口をつけたフリで酒は少しも減っていない。 「お前……何を……」  金を渡すだなんて嘘だったんだ。きっとこの男はオーナーと繋がっていて、さっきの奴らに売られるんだろう。 (――散々人を騙してきたツケが回ってきたか)  結局自分もあの界隈の立ちんぼと変わらぬ末路――。そうぼんやり思いながら莉央は意識を失った。
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