過去の記憶

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過去の記憶

 高校に入ってすぐ、莉央は同じクラスの男子生徒の香りに惹きつけられた。爽やかで安らぎを感じられるシダーウッドの香りは、そのアルファ男子のフェロモンだ。自分に向けられたわけでもないその香りに莉央はこっそり癒されていた。  母の希望でそこそこのレベルの高校に入学したものの学校指定のバッグが高すぎて買えず、その件で担任教師に呼び出され下校が遅くなった日のこと。  教室に戻ると、そのアルファ生徒が机に突っ伏して寝ていた。  彼にはオメガ男子の恋人がいて、そのオメガが委員会で遅くなる日は一緒に帰るため教室で待っているのだ。  莉央は彼の恋人がほんの少しだけ羨ましかった。このアルファに安心(リリーフ)フェロモン――アルファが発することでオメガの心を落ち着かせる効果がある――を注いでもらえたらどれだけいい気分だろう。  莉央が近づいても起きないほど彼は熟睡している。その彼が付けているワイヤレスイヤホンが一つ机に転がっているのに気づいた。 (何聴いて寝落ちしてるんだろう)  ふと出来心で、片方の耳から外れたそれをこっそり拝借し自分の耳に当ててみた。莉央はよくVtuberの配信やゲーム実況などを聞いている。彼がどんなコンテンツを視聴しているのか気になった――それだけのことだった。  イヤホンから聴こえてきたのは、クラシック音楽。  いいところのお坊ちゃんである彼に似合っているが、自分と住む世界が違うことを改めて突きつけられたようで莉央は恥ずかしくなった。  そっとイヤホンを机に戻そうとして、彼に手を掴まれた。 (まずい!) 「あれ、神崎……?」  彼は恋人と間違えて掴んだのだろう。放してほしくて手を引いたが、なぜかかえって強く手首を握られる。自分よりずっと大きくて力強い手――。緊張と、彼の体温に直接触れた高揚感で莉央の心拍数が上がる。 「聴いた?」  彼に咎められたと思い莉央はうろたえた。親しくもない相手に自分が聴いている音楽を知られるのは嫌に決まっている。 「うん、勝手にごめん。でも知らない曲だった。俺クラシック音楽……とか詳しくないから」 「クラシック音楽? 違うよ、ポルノ小説だ」  怒らせたと思ったのに、彼は予想外なことを言ってニッと笑った。 「は……?」  品行方正なお坊ちゃんだと思っていた男子生徒がいきなりポルノ小説だって――……?  すると聞いてもいないのに彼が突然曲の解説を始めた。 「この曲――カルミナ・ブラーナの元になった詩歌集が書かれたのは11世紀から13世紀のヨーロッパで、かなり禁欲的な中世の時代なんだ。教会ではキリスト教以外の土着の信仰を排除するため楽器や踊りすら禁止していたほどに厳しかった。それなのに、酒を飲んだり男女がやらしいことしてる内容が堂々と書かれてるんだよ。いったい誰がこんな異教の神を崇め、性愛や飲酒を称える詩を書いたと思う?」 「さ、さあ……?」  早口でまくしたてられ、莉央は首を傾げた。彼は莉央の手首をぎゅっとつかんだまま熱のこもった口調で続ける。 「当時の人は誰もが文字を読み書きできたわけじゃない。ラテン語が書けるような頭のいい人間といえば? そう、聖職者。修道僧だ。彼らの中の誰かが、ラテン語でこっそり書いたエロ同人ポエムみたいなものじゃないか。それが後々19世紀の人間に見つかって、ご丁寧に曲まで付けられ現代人がありがたがって演奏し、それをかしこまって拝聴してる――。どうだ、笑えるだろ?」  そこまで言ってもう堪えきれないというように彼はくすくす笑った。 「その曲を聴きながら寝てるところを君みたいな美人にバレて、俺は今最高に恥ずかしい思いをしてる」  彼の綺麗に並んだ白い歯に莉央は釘付けになった。非の打ちどころのないアルファだと思っていた男子がこっそりポルノ小説(?)を聴いていた――それも、かなり独特な方法で。  莉央には正直この話の何が面白いのか、さっぱりわからなかった。ただ、彼が手の届かない存在じゃなくちょっと変わった面白い男だということはわかった。 「なんだよそれ。変態だったのか、お前」  莉央もつられて笑ってしまった。すると突然グイッと腕を引かれて彼に腰を抱き寄せられた。彼の鼻が莉央の鼻にくっつきそうになる。 「やった、神崎の笑うところ初めて見た。めちゃくちゃいい匂いするし――もしかてヒート近い?」  後半は首筋の匂いを嗅がれながら低く囁かれ、じわっと体が熱くなった。 (顔、近い……) 「いや、終わったばっかだけど。いいから離せよ」  平静を装っているが心臓はさっきからずっと早鐘を打っている。こんな近くで彼の香りを嗅いだら変な気を起こしてしまいそうだった。アルファとオメガはお互いのフェロモンによって惹かれ合い、本能からは逃れられない。だけど、彼には恋人がいる。  「勝手に聴いて悪かったよ。じゃあな」と彼の手を振り払い、莉央は机に置いてある古い鞄を掴むと逃げるように教室を出た。彼が「神崎、まさかその匂いって――」と言うのが聞こえた。  ヒートが終わっているオメガの微量なフェロモンを感じ取って彼は気づいたのだ。莉央と彼はフェロモンの相性が良い、いわゆる『運命のつがい』と呼ばれる相手だと――。  それでも当時莉央は恋人のいる橘を自分のものにすることはできなかった。母親が入院することになり、高校を中退したからだ。それ以来、橘との接点は途絶えていた。
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