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宵闇迫る砂浜――。海から打ち上げられ、砂浜に仰向けで横たわる濡れ鼠のような男性に向かって、大男が吠える。
「おい乃木先生しっかりしろ!」
「警部――もう死んでます」
「くそぉっ!」
警部が立ち上がって地面を思い切り蹴りあげると、砂が飛び散った。自分がアルファ以外のバース性なら、今の彼の発する威嚇フェロモンで具合が悪くなっていたかもしれない。
(この取り乱しよう――警部が殺したんじゃないのか……?)
先程この海岸に来るまでに妙なことがあった。
廣明、大隈警部、岩崎医師の三人で屋敷を出て砂浜に出るまで足場の悪い坂を下った。そして、人の姿が見えた東側の海岸へ向かうため廣明が右に曲がろうとしたときだ。
なぜか警部が一人で反対の西側へずんずん歩いて行こうとしたのだ。
「警部、人が見えたのはこっちです」と廣明が彼の背中に声を掛けると、大隈は驚愕した表情で振り返り「すまん、頭に血がのぼって……」と答えた。
(まるでこっちじゃなく反対側で乃木先生が倒れてるのを知っていたみたいな素振りだった)
それもあって、警部が乃木の死を知っているかあるいは彼が手を下した張本人なのではないかと見当をつけていたのだが――。
(この悔しがり方は演技とは思えない。乃木が死ぬことを彼は望んでいなかった……?)
その後、ずぶ濡れの遺体を三人で屋敷まで運んだ。前回同様、庭の小屋の作業台に遺体を安置する。警部と岩崎が遺体の状態を調べ始めたので、廣明は建物の中に戻った。濡れた遺体を運んだせいで服が汚れたので、部屋で軽くシャワーを浴びながら考える。
(乃木教授の付けていた時計、十三時十五分だった……)
教授は現代人にしては珍しく、アナログの腕時計を付けていた。その文字盤が何らかの衝撃で割れたようで、十三時十五分のところで針が止まっていたのだ。おそらく殺害されたときに岩にでもぶつけたのだろう。
(昼間、大隈警部が屋敷に戻ったのがたしか十三時半の時計が鳴って少し経った後だった)
神社から屋敷に戻るのに約十五分かかる。つまり警部と別れてすぐに乃木教授は殺害されたことになる。
神社で人を殺害し、東側の海岸に遺体を一人で運ぶのは十五分では到底不可能だ。ましてや、そこから屋敷へ戻るなどということは――。
(ということは、大隈警部は犯人ではない。あるいは、乃木先生は最初から神社ではなく東海岸で殺害された?)
もしそうだとしたら、大隈警部はなぜ乃木教授が神社に残ったなどという嘘をついたのか。
(あの海岸からだと、警部の足なら全力で走れば二十分ほどで屋敷へ戻れないこともない。しかしそうすると彼が間違えて反対方向へ行こうとしたのが解せないな……)
廣明が頭を悩ませつつ服を着替えて客室を出たときだ。暗い屋敷の中に男の悲鳴が響いた。
(莉央の声じゃない。滝川社長……?)
廣明は声のした管理人室に駆けつけた。奥の寝室のドアが半開きになり、そこから「やめてくれ」「離せ」という滝川社長の声がする。
「どうしたんだ?」
部屋の中に入ると、床の上で滝川社長と莉央が揉み合いになっていた。仰向けの社長の上に乗り上がって、莉央は彼の体に噛み付いているようだ。
「橘くん、助けてくれ!」
「社長?」
(何がどうなってるんだ?)
莉央は正気を失っているようで、野生の獣のように獰猛だった。
「おい莉央、よせ! しっかりしろ。落ち着け!」
「リオくん痛いよ! やめてくれ、くぅっ……」
唸り声を上げながら、莉央は滝川社長の鎖骨辺りをがっちりと噛んでいる。血が出て莉央の口元が赤くなっていた。廣明が引っ張ってもびくともしない。背はそれなりに高いものの華奢でほっそりした体型の莉央だから、普通なら簡単にどけられそうなのに異常な力で抵抗される。
(なんでだよ……?)
「滝川さん、どういうことですか!?」
「ぅう……。彼に、リオくんに薬をあげたんだ。抑制剤を見つけて、それを飲ませたら突然襲いかかってきたんだよ!」
「なに……?」
(くそ、どんな薬を飲ませたんだ!)
廣明は自分が噛まれる覚悟で莉央の口に手を突っ込んで社長から引き剥がす。彼はウーッとネコ科の動物みたいに唸った。
「落ち着け、落ち着いて……」
莉央が容赦なく噛むので廣明の指から血が流れる。痛みに耐え、社長を下がらせた。
「社長、岩崎先生が裏の小屋にいます。鎮静剤を持ってくるよう言ってください」
「わかった、待っててくれ」
社長は噛まれた部分を手で押さえながら走って部屋を出た。
安心フェロモンを注ぎながら、莉央に「落ち着いて、大丈夫だから」と声を掛け続けた。抱きしめて反対の手で頭を撫でてやると、やっと噛む力が緩んでくる。最初はフーフーと荒々しい息を吐いていたが、ようやく呼吸も落ち着いてきた。
莉央の目は普通じゃなかった。キョロキョロして周囲に怯えているようで、今にも目をつぶって寝てしまいそうなのに必死に目を閉じまいとしている。
(可哀想に……)
その後すぐに岩崎が莉央に鎮静剤を打ってくれて、莉央は眠りについた。
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