225人が本棚に入れています
本棚に追加
西側の崖の下――干潮と共に現れたその穴は人が一人通れるくらいの大きさで、懐中電灯で照らしてみるとどうやら上に登っていけるようだった。
「俺が先に行く」
橘はそう言ってライトを口に咥えると、フジツボがびっしりと付着している岩に手を掛けた。その後ろを莉央が四つん這いで登っていく。ぬるっとして冷たい岩肌、磯の香り――暗くてじめじめしていてズボンの膝まで濡れて全くいいことなしだ。
しばらく岩場を登ると洞窟内の傾斜がゆるくなり、やがて平坦になった。それと同時に天井も高くなり、少し屈めば立って歩けるくらいになる。とはいえ背の高い橘には窮屈そうだが。
鍾乳石のように凸凹した部分から、ぽたぽたと水滴が落ちる。それがたまに頭や肩に落ちてきて莉央をびくつかせた。どこからか、水がチョロチョロと流れる音が聞こえる。無言で歩くのが怖くなって莉央は橘に話しかけた。
「ここにずっと犯人が隠れてたのか?」
「そうだな。きっと乃木先生はここから出てきた犯人に殺害されたんだろう。この表によると、昼間の干潮は十三時二十五分。ちょうど先生が殺害された時刻に近い――」
「じゃあ、犯人は今も中に……?」
「かもしれない。とにかく、暗証番号を俺たちが最初に手に入れよう」
懐中電灯の灯りを頼りに、橘の背を追いかけ水溜りを避けながら進む。すると道が三方向に分かれている広い空間に出くわした。
橘は立ち止まって地図を懐中電灯で照らす。
「想像より中は随分広いな……」
「だな。もしかして島全体に通路が広がってるとか?」
「ん?」
突然橘が屈み込んで、地面から何かを拾い上げる。
「これは……」
「タバコじゃん。ここに誰かいたんだ!」
橘が拾ったのはタバコの吸い殻だった。よく見ると一つではなく数本落ちている。
(あれ、この匂い――)
「おい、それ貸してくれ!」
莉央は橘から吸い殻を奪い取って鼻に近づけた。息を吸うと、ヤニの匂いと共に独特な香りが鼻腔をくすぐる。
「これ、クマのだ……!」
「なんだって?」
あの日大隈から浴びたフェロモン――レザーとタバコのスモーキーで少し甘みのある独特な香りが、目の前の吸い殻から漂っていた。
(クマのやつ、ここに来てたってことか――? いつ? なんで黙ってたんだ?)
「莉央、どういうことだ。この吸い殻の匂い、大隈警部のものなのか?」
「うん。大隈にフェロモンを浴びた時に嗅いだのと同じだっ――」
(あ、しまった)
こちらに懐中電灯の灯りが向けられているため、橘の表情はほとんど見えない。しかし彼から怒りの気配を感じて莉央は身構えた。
「あ、えっとさ。ちょっとわけがあって俺、大隈に……大隈と……えっと」
「どういうこと? 大隈警部のフェロモン浴びたなんて聞いてない。あいつに襲われたってことか? まさか何かされてないよな」
「いや、ちょっとキスしただけで本当に何もなかったから!」
「キス……?」
橘の声が低く冷え切ったものに変わる。それと同時に、ドロリと重たい不穏な香りが漂った。
(やばい。めちゃくちゃ威嚇のフェロモン出てる……!)
「おい、橘やめろ。こんなところで揉めてる場合じゃないだろ」
「俺に黙ってあいつのこと誘ってたのか? 莉央」
「ちが――」
否、違わない。莉央は橘ではなく、大隈につがいになってくれと頼んだ。
莉央は気まずくなり、後ずさる。橘がこちらへ一歩近づいた。かなり重厚な威嚇フェロモンが漂っていて、ヒートをなんとか薬で抑えているオメガには圧が強すぎる。
「く、くるな」
「なんで? 大隈にはキスさせたのに?」
「橘、ちがう。そんなんじゃない」
「莉央、なんで逃げる?」
「お前が追いかけてくるからだよ。なあ、やめようぜ」
ジリジリと橘から逃げるため、横の方へずれた。莉央はライトを持っていなくて、見えるものといえば橘がこちらを照らすライトのみ。逆に言えば、橘は莉央を見失ったらそう簡単には見つけられないはず。
「こっちに来い、莉央」
洞窟内で橘の声が低くこだまする。
(なんでこんな威圧をかけてくるんだよ? まさか、ここに誘き出して暗証番号を手に入れて俺を襲うつもりだった……?)
やはり橘は自分を裏切るつもりだったのだと思うと莉央は怖くなり、彼が「莉央!」と呼ぶのと同時に走り出した。ライトの灯りを避け、別れ道を左へ駆け抜ける。
「待てよ!」
橘を振り切って、暗い中手探りで相当進んだ気がする。たまに横穴もあったり、枝分かれした道をめちゃくちゃに進んでしまいもう元来た道もわからなくなっていた。莉央は息を整えながらゆっくり歩く。
(どうする? 橘から逃げられても、道に迷ったら俺、ここで野垂れ死に……?)
目を凝らしながら歩いていたら、突然右側から腕を引かれ声を上げる間もなく横道に引きずり込まれた。後ろから羽交い締めにされ、口を塞がれる。
「ん……っ!?」
(なんだ、だれだ――!?)
莉央は非力ながら、ずるずると引っ張られる間も一生懸命抵抗する。がむしゃらに暴れるが、後ろの相手は背丈の割に力が強くて全然振りほどけなかった。すると耳元でしわがれたひそひそ声が聴こえた。
「莉央、莉央! わたしだ!」
(え――……?)
莉央はピタッと抵抗をやめ、恐る恐る後ろを振り返った。真っ暗だが、この声を聞き間違えるわけがない。
「……張爺さん?」
最初のコメントを投稿しよう!