223人が本棚に入れています
本棚に追加
いきなり告げられた事実に莉央の頭が真っ白になる。
(何だって?)
「……? う、嘘だ。信じないぞ」
莉央は地面から立ち上がった。しかし膝ががくがくしていて歩けそうにない。もう一度地面にへなへなと座り込む。
「だって、だって人殺しだぞ? 爺さん……。いくらあんたが裏の顔を持ってるからといって――人殺しなんてできるわけないだろ!?」
張爺さんはその場に立ったまま静かに莉央を見下ろす。それは以前と変わらない眼差しだったが、今の莉央には全くの別人のように映った。
「莉央、全部わたしがやったんだ。最初の矢部――深山という男だけは予定外だったが。いずれにせよ、わたしはお前をここから逃すためならなんでもする覚悟だ。殺人であろうとな」
(どういうこと……? 本当に爺さんが、警部の追っていた殺人鬼なのか?)
建築家の深山と、マネージャーのたつみと、乃木教授は目の前のこの細身の老人に殺害された――?
張爺さんの装いは普段と変わらない。黒いマンダリンカラーのシャツに同色のパンツ。短く切ってなでつけられた白髪に皺の目立つ顔。こんな状況にもかかわらず表情は至って穏やかだった。
古びたラブホテルのオーナーで、金に困った様子もなくいつも飄々としている老人――彼は莉央のような不遇な人間や移民にも寛容だった。それは彼が異国の血を引いた人間だからだろうと深く考えもしなかった。
しかし、そんな理由で莉央のために殺人まで犯すはずはない。
「莉央、聞いてくれ。わたしは殺人について弁明するつもりはないし、その時間もない。とにかくこの後迎えが来るまでお前が無事でいるためにはどうしてもやらねばならんことがある」
「……でもあんたが殺人までして守ってくれたなら、もう安全なんじゃないのか?」
「わたしの行動にも限界がある。アルファ全員を殺すわけにはいかんだろう」
「それはそうだけど――……」
全員殺すなどという物騒なことを言われて莉央は口ごもる。
「莉央、今すぐに橘廣明にうなじを噛んでもらえ」
「はぁ?」
(なんでどいうつもこいつも、橘とつがいになれって言うんだ?)
「発情抑制剤はもう無くなるだろう? かごめの儀式を避けるには、先につがいを成立させるしかない」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ。おい、爺さん。いきなり何言ってんだよ? かごめの儀式ってなんだ? 意味がわかんねえよ」
「莉央――もう橘くんがここへ来る。時間がない。あの地図が指してるのはここだ。足音が聞こえるだろう?」
言われて耳をすましてみると、人の足音が近づいてきている。
「でも、俺はあいつとつがいになる気はねえよ」
「何が問題だ? 彼はお前の運命の相手だろう。もっと早くにそうすべきだったのに」
「だって、俺はあいつのことを信用できない」
自分の本能がいくら彼のフェロモンを求めても、嘘つきに身を捧げる気にはなれない。
莉央自身が詐欺師として幾人ものアルファを騙してきたから――欲に負けて異性に騙された人間の末路はよくわかっていた。
「莉央、彼は信用していい」
「そんなのわかんねえだろ」
(だってあいつは、俺の薬を盗んだ――)
「わかる。なぜなら、彼をこの島に呼んだのはわたしだから」
(え?)
「わたし一人で島にいるお前を守るのは不可能だ。だから、協力者が必要だったんだよ。橘くんは役目を果たしてここまで来た。他のアルファが暗証番号と儀式の詳細を手に入れる前にな」
「あ! そういえばここに先に大隈警部が来ただろう!?」
「――あの刑事はわたしが連れてきた」
「えっ?」
「姿を見られたんだ。それで家族の情報をチラつかせて脅し、協力させた。乃木教授をこの洞窟に誘い込んだのもあの男だ。手を下したのはわたしだがね」
(な……なに? 乃木を殺すために大隈を利用したのか……?)
「莉央。お前が想像しているより事態は深刻なんだ。この島にはあらゆる場所にカメラが仕込まれてる」
「それは大隈から聞いたよ」
「そうか。じゃあこれならどうだ? その映像は、リアルタイム配信されて会長をはじめとしたL&P協会の幹部がこぞって視聴している」
そう言って老人はパソコンの方へ歩いて行き、スリープ状態だった画面を開いた。複数のモニターには島の俯瞰の映像、屋敷のホール、管理人室、客室の映像、ダイニングや応接間はもとより、庭や海岸の映像までが映し出されている。すべてリアルタイムで、現在は赤外線による白黒映像が映っていた。莉央はそれを見て愕然とする。
「嘘だろ……? この映像……、見てるのは父さんだけじゃないのか!?」
(L&P協会というのは、たしか父さんが会長をやってる慈善団体だろ……?)
張爺さんは首を横に振った。莉央はてっきりこの島のふざけたゲームは父親の個人的な道楽のためだと思い込んでいた。
「この島は元々アルファとオメガのつがい形成に関するデータを得るために用意された実験場だ。そしてここへ資金提供を行なっている慈善団体L&P協会の実態は、暇を持て余し狂った思想にとりつかれた輩の集まり。ここでの実験はもはや当初の目的から逸脱し、アルファとオメガをゲーム感覚でつがわせ、妊娠させてその過程を楽しむものになり下がっている」
「……冗談だろ……。だって人まで死んでるのに、それを見て楽しむだって?」
最初のコメントを投稿しよう!