3

1/1
41人が本棚に入れています
本棚に追加
/77ページ

3

 灯が退屈な事務仕事に勤しんでいる間、俺は隙を見て署を抜け出た。  昼食前に軽く何か食べようと思ったからだ。  署のある区画は比較的こざっぱりしている。各国の企業事務所が多く、スーツを着たサラリーマンやチャラチャラしたOLの姿が目立つ。  俺は署の近くの、行きつけの喫茶店に入ることにした。  奥ゆかしい西洋的な外観で、レンガの壁には植物の蔦が張り付いている、そんな喫茶店だ。店内も落ち着いた雰囲気で、古風なクラシックが囁き程度に流れている。  窓際にテーブル席が4つ、そしてカウンターに椅子が6つの決して広くはない店内は、昼時には早いせいか客はいなかった。 「ルナくん、いらっしゃい」  カランカランとドアベルを鳴らして入ると、よく見知ったマスターが俺の顔を見て微笑んだ。白髪を丁寧に撫で付けた、細身の初老のマスターとはもう長い付き合いだ。丁寧にカップを拭いている姿はいつも変わらない。 「お腹すいた…マスター、ハンバーグが食べたい。あとナポリタンとオムライス。デミグラスソースで」  マスターの真ん前に陣取り早速料理を注文する。 「相変わらずよく食べますねぇ」 「これでも足りないくらいなんだけど」  などと適当に返して、料理ができるまでの間、俺はカウンターに突っ伏してうつらうつらして待つ。  吸血鬼と言っても、伝説にあるような化け物ではない。コウモリや煙にはなれないし、無闇矢鱈に人を襲ったり、人間を吸血鬼にしたりもしない。  逆ににんにくも聖水も十字架も平気だし、鏡や写真にも映るし、普通に朝起きて夜寝る生活を送っている。  ただ人間より遥かに頑丈で優れた身体能力を持っていて、聴覚視覚嗅覚が鋭くて、少しの人間の血が必要なだけの存在だ。まあ、あとは少し耳がとんがっているのと、興奮すると瞳が真っ赤に染まる、というどうでもいい特徴があったりする。ちなみに俺の瞳は、普段は薄い青色をしている。  一番大きな特徴と言えば、恐ろしく長生きな生き物だというところか。  俺たちが死ぬには、確実に心臓を潰すしかない。そうして死を迎えると、灰になって消えるのだ。存在すらも、まるで最初からなかったかのように。  本格的に眠りに落ちようかというタイミングで、マスターが料理を持ってきてくれた。  熱い鉄板の上で、ジュージューと音を立てるハンバーグに思わずヨダレが出そうになる。マスターオリジナルの特性和風ソースは、玉ねぎの旨味がたっぷりで重たくないから肉の旨みを邪魔しない。  続いてオムライスが登場。ふわふわ半熟卵は絶妙な良い加減。そしてこれもまたマスター特性のデミグラスソースが絶品で、しっかりしたコクにトマトの風味が僅かに香る。卵とデミグラスを引き立てる素朴なチキンライスがまた最高にマッチしている。  最後にナポリタンだ。これはもう鉄板中の鉄板で、俺はこの喫茶店より美味いナポリタンをまだ知らない。トマトの酸味と野菜の甘み、丁度いい茹で加減のパスタとよく絡んでいて美味い。少しニンニクが香るのも好みだ。  コーンスープとミニサラダをおまけしてもらって、早速食事に取り掛かる。  吸血鬼だって血ばかり飲んでいるわけじゃない。普通に食事が好きな奴も多い。  それにこの街では人工血液が安価で売っていて、その辺のドラッグストアなんかで買えたりする。基本的に飢えることはない。  でもほとんどの吸血鬼は、独自のルートを使って本物の人間の血を買っている。違法だが人間を襲っていないので取り締まれないのが現状だ。人間側からしても、献血感覚で高額の収入が得られる良いバイト程度に考えている者が多い。ここはそういう街なのだ。  ハンバーグの肉汁に蕩けそうになっていると、カランカランと店のドアが開いた。  気にせず食事を続けようと、ハンバーグを口に入れた瞬間、マスターが言った。 「ああ、秋原さん。いらっしゃい」  嫌な予感がして振り返ると、案の定そこには険しい顔をした俺のバディがいた。 「お前、いないと思ったらここにいたのか」 「うぇぇ…なんで灯がここにいるのさ?」  俺の大事な癒しスポットなのに、最悪だ。 「休憩にコーヒーを飲みに来たんだ。ここのコーヒーは美味いから」  と言いつつ何故か灯は俺の隣に座った。 「秋原さんは最近よく来てくれるんですよ。なるほど、秋原さんがよく話している困った相棒はルナくんだったんですね」  納得した、みたいな顔で笑うマスター。一体どんな話をされているのか気になるが、それより俺は食事のほうが大事だ。  マスターがニコニコしながらコーヒーを淹れている間、灯は俺を凝視して顔を強張らせた。 「お前……昼食には早いと思うが?」 「ん?これはお昼ご飯の前のおやつだけど」  思えば灯とは仕事だけの関係なので、昼食を共にしたことはなかった。今までのバディとは色々で、それなりに良い関係を築いていた奴とは、仕事に関係なくご飯に行ったりしたけれど。 「ルナくんは昔からよく食べるんですよ。美味しそうに食べてくれるので、作り甲斐があって嬉しいんです」 「ここの喫茶店は俺のお気に入りなの。ここはよく来る方だけど、そういや灯とここで会うのは初めてだな」  そう言うと、マスターが少し悲しげな顔をした。 「ルナくん、前回来てくれたのは、もう3ヶ月も前ですよ。秋原さんはここ2か月くらいほとんど毎日来てくれているので、入れ違いになっていたのでしょう」  ああ、ダメだ。この感覚はダメなヤツだ。  俺は他の人外より、人間に混ざって生きているから。  自分の時間の進み方と、彼らのそれでは感覚が違うのだということを突きつけられると、どうしても自分だけが世界から隔離されてしまったような気持ちになる。  この気持ちの名前が、俺にはどうしてもわからない。知りたくない、と言う方が正しいかもしれないが。  俺は300年ほど生きている。吸血鬼としてはまあまあ大人になったと言える。でも俺は、まだ全然わからないことの方が多い。特に人間に関しては。 「じゃあまた3ヶ月後に来ようかな。マスターのナポリタンが一番美味いし」  だけど、マスターは困った顔をした。見慣れた目尻の皺が、なんだか悲しげだった。 「ルナ…マスターは来月店を閉めるそうだ」  灯が出されたコーヒーを一口飲んでから言った。俺は首を傾げて、灯を見てからマスターに視線を移す。 「……なんで?」 「いやぁ、私も随分と歳をとりました。遺伝と言うんでしょうか、奇しくも父と同じ病を患いまして。ルナくんもご存知の通り、私には跡を継げるような子もいない。ここは潔く、元気なうちに店仕舞いをしようと決めました」  マスターの父親は二代目のマスターだった。この喫茶店は三代続く結構歴史のある店だ。俺は開店から通い、もちろんマスターの子どもの頃も知っているし、マスターの父親が子どもの頃も知っている。 「そうなんだ」  食事の味が、急に薄くなったように感じた。なんて言うのが正しいのか。変わっていくことが当然なのに、変わらない自分は、なんて言えばいいのかわからない。  灯は隣で、静かにコーヒーを飲んでいた。  それから他愛もない世間話をして、食事が終わると早々に店を出た。結局、マスターには「ご馳走様」としか言っていない。  何故か一緒に出てきた灯は、静かに俺の隣を歩いている。 「あー、マスターのナポリタン好きだったのにな…もう食べられなくなるのか」 「まだ閉店まで間がある。また行けばいいだろ」 「もう行かないよ」  そう言うと灯は怪訝な顔をした。 「何故だ?」 「うーん…なんて言うのかな。最後だってわかっているのに関わり続けるのは辛いんだよ。俺にはどうにもできないのに、終わっていくのをただ見ているみたいで」  自分でも何を言っているのかわからない。でも、関わったものの終わりというのは、自分の心に穴ボコができてしまうのだ。  その穴ボコを大きくしないために、俺は何にもあまり関わりを持ちたくない。  ただ行きつけだった店が突然閉店してしまった。それだけの事にしておきたい。そして俺は、あと何年かしたらマスターの美味いナポリタンの味も忘れてしまうのだ。 「灯も俺と同じように、300年くらい生きればわかるよ。無理だと思うけど」 「…そうだな」  たいして興味もなく返事をする灯にホッとする。  灯は俺に必要以上に関わってこない。本当に仕事だけの関係を続けている。  それがすごく心地良い。  あの喫茶店のように、灯もいつか俺より先に無くなってしまうから。必要以上に関わらなければ、そんな奴もいたなと、すぐに忘れてしまえるから。
/77ページ

最初のコメントを投稿しよう!