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 すっかり俺の怪我も治り、仕事復帰したのは11月の後半だった。実に一月、ニート生活を送ったわけで。  その間灯は、甲斐甲斐しく俺の世話をやいてくれた。  食事を作ってくれたり、嫌だって言ってんのに風呂に入れてくれたり、日々の細々とした日用品の買い出しなど、それはもう当たり前のようにやってくれた。  そうしていくうちに、俺たちは仕事以外の、どうでも良い話をするようになっていた。  例えば灯はトマトが嫌いらしい。煮ても焼いても、トマトジュースですら嫌いだそうだ。だから必然的にナポリタンは食卓に出てこなかった。俺は好きなのに。  意外なことに灯は料理が上手くて、リクエストすればほとんどなんでも作ってくれた。ただ、酢豚にフルーツは入っていなくて、俺もあれは好きじゃないから助かった。  俺は何を話しただろう。  300年生きて来て、色んな国にいったけど、それぞれの国の綺麗な景色や美味しかったものの話をしたと思う。  そうやって他愛無い生活を送っていたけれど、俺の怪我が完治し、重い腰を上げて仕事に来ている。しかし復帰したからと言って、俺には特にやることもないわけで。  待機室内のソファにふんぞり返っていた。 「最近バディと仲良しだね」  そう言って隣に腰掛けたのは、淫魔のエリスだった。こいつはさすが淫魔、というくらいには綺麗な顔立ちをしている。そしてなんだかよくわからない甘い匂いがしていて、嗅覚が鋭い俺はそれが少し苦手だ。人間には催淫効果があるらしい。 「そうかなぁ。前よりは話すようになったけど」 「そうだよ。だって秋原さんが楽しそうだもん」  あの仏頂面を見て、どこが楽しそうだと思うのか。俺にはよくわからない。  でも、灯なりに関係を築こうとしてくれていることは俺にもわかる。 「エリスのところは仲良しだよな」 「まあね。基本的に淫魔は人に嫌われないし」  ニヤリと笑みを浮かべるエリスが恐ろしい。エリスのところは、人間側が淫魔であるエリスにデレデレで、もはやどちらが主導権を握っているのかわからない状態だ。 「おい、ルナ。昼飯に行くぞ」  と、灯が席を立って言う。腹が減って限界だった俺は一目散に灯の元へ馳せ参じた。 「今日は何にしようかな?灯は何が食べたい?」 「ルナの好きに決めていい」  廊下をならんで歩きながら、俺は考えた。そうだ、肉の気分だ。分厚いステーキが食いたい。 「じゃあステーキにする」 「またお前は……昼から重いものを……」 「だって気分なんだもん。それに美味しい店知ってるからさ、灯もきっと気にいると思うよ」  呆れた顔の灯だけど、結局いつも俺の選んだ店に入るのだ。  廊下の突き当たり、2機あるエレベーターのひとつの、下向き矢印を押す。ちょうど上の階に止まっていたのか、すぐに目の前のドアが開く。 「そういえば、今日はやけにうるさいな。なんか工事でもしてるのか?」  乗り込みつつそう言うと、灯はまた呆れた顔をして答えた。 「署内の電気工事で、業者が入っているんだ。2週間前から署内の掲示板に貼り出してあっただろ」  2週間前と言えば、復帰したての頃か。そんな時期に掲示板なんて見てない。いや、健康体であっても掲示板なんか見ないけど。  ふーん、と気のない返事をした時だった。ガタン、と大きな音がして、エレベーターが停まった。ついでに全ての電気が消えてしまう。  真っ暗になってしばらく、ぼんやりと見える程度の、非常用のオレンジのライトが付いた。 「停まっちゃったね」 「やってしまった。昼にエレベーターの点検で一時的に停まってしまうのを忘れていた」  灯もそんなミスをするんだな、とちょっと微笑ましく思う。 「復旧するまで暇だし、とりあえず座ろうよ」 「そうだな」  俺たちは奥の壁を背もたれにして、俺は両膝を抱え、灯は片膝を立ててそれぞれ座った。 「しりとりでもする?」 「アホか」  素っ気ないなぁ、と思いはしたけど、俺は素直に黙った。  視力の良い俺には、この頼りないオレンジのライトでも十分にはっきりと物が見えている。  方や人間の灯には、ほとんど何も見えていないはずだ。  だから俺は、そっと灯の横顔を見て、あれ?と首を傾げた。  何だか呼吸がおかしい。ちょっと冷や汗をかいているようで、どうしてか震えているようにも見える。 「灯?大丈夫?」 「……ああ」  か弱い返事だった。大丈夫じゃないことは明白だ。 「もしかして暗いのがダメだったりする?あ、狭いのがダメ?」  人間には何かしら苦手な事がある。高所恐怖症とか。 「昔から、特にトラウマがあるわけじゃないが、狭いところが苦手なんだ」  狭いと言っても通常のエレベーターの広さはある。しかし灯はそれでも怖いらしい。  いざとなったら、ブチ壊して出られないこともない。吸血鬼にはそれくらいの力はあるものだ。ただ、そんなことしたらきっと始末書を書くのは灯だ。  どうしたものか、と頭を働かせて考える。やはりしりとりでもして気を紛らわせるか。いや、そんな場合じゃないか。 「灯、なんか他のこと考えよう。ここを出たら美味しいステーキが食べられる、とか」  しかし灯からの返事はない。俯いたままはぁはぁと荒い呼吸を繰り返しているだけだ。 「うーん……あ、灯!俺の顔見て!一緒に深呼吸しよう。それから、他のことを考えよう。なんでもいい。灯が落ち着けるようにさ」  そういうと、灯はゆっくり顔を上げて俺を見た。 「大丈夫、俺がついてるから。俺にできる事があるなら、何でも言う事を聞くよ?」 「なんでも、か?」  うん、と頷いて見せる。  するとどうだ。灯が両手を挙げて、あろうことか俺の頬を挟んだ。  ビビって声が出ない。なにをする気だ?と疑問符が脳内に浮かぶ。 「灯…?」  灯の顔が近付いてくる。 「ちょ、と、待って……」  という静止の声をスルーした灯の唇が、俺のそれを塞いだ。  男らしい薄い唇の感触。それから、ヌルッとした熱い舌が、油断した俺の唇の隙間をこじ開けて侵入してくる。 「んっ、ふ……ぁ」  いったい、これは何をされているんだろうか。確かになんでもするとは言ったけど、予想の斜め上過ぎて対応出来なかった。 「とも、り…も、やめて」  呼吸の隙に訴える。でも灯はやめてくれない。口腔内を余す事なく舐められ、官能的な水音が脳に響く。  300年生きて来たけれど、こう言う経験値はかなり低かった。そもそも淡白な方で、一応かろうじて童貞ではない、くらいの経験しかない。  だからこうして顔を固定され、唇を塞がれても、身動きが取れないでいる。  灯が上手いのか下手なのかは、経験値が少ない俺にはわからない。だけど確実に、この行為によって下肢に熱が溜まるのがわかる。 「ほんと……も、勘弁してくれ」 「……悪い」  ふと我に返ったように、灯は唇を離して身を引いた。  さっきより顔色が良くなった灯。反対に、俺の顔は真っ赤だろう。ついでに瞳の色も変わっているはずだ。  気不味い。バディとこんなことになったのは初めてだ。と言うか、俺は男だけど良いのか?灯はそっちの人なのだろうか。  まあ、いいか。  悶々としていると、パッとエレベーター内の電気がついた。そしてウィーンと微妙な音を立てて、階下へと降りていく。  ドアが開いた瞬間、外にいた電気業者に笑われた。 「まさか誰か乗ってるとは思わなかったよ。しっかり貼り紙があったはずだし」 「確認不足だったんだ、ごめんなさい」  素直に謝っておく。灯は多分それどころじゃないだろうから。 「よし!じゃあ肉を食いに行くぞ!はあ、一時はどうなることかと思ったけれど、意外とすぐに出られて良かったな!今度から俺もちゃんと掲示板を見るようにする。またこんな事が起こったら大変だからな!」  勤めて冷静に、いつもと変わらない態度をとるように心がけた……つもりだけれど、口数が多くなるのも仕方なかろう。 「……ルナ」  いつもより真剣な声で名前を呼ばれる。何を言い出すのか戦々恐々の俺は、灯が何か言う前にこう言った。 「大丈夫、今のはただ灯が元気になるように対応しただけだ。何も、特別なことなんてなかった。ちゃんと出られたんだからさ、無かったことにしよう。俺も、灯も」  灯の表情を見なくても、何か言いたそうな雰囲気であることはわかる。でも俺は、もう終わった事だと思いたかった。  そしていつもの如く、俺の腹の虫が、急かすようにぐうううとなった。 「ああ、腹が減った。ほらもう行くよ!」  珍しく俺の腹の虫は、ナイスなタイミングで音を立てたのだった。
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