雪玲の野望

8/20
前へ
/154ページ
次へ
 怒りから逃れるためか馬酔木は颯爽(さっそう)と岩の上から飛び降りると雪玲の元に駆け寄り、脚に首を擦り付けて甘え始める。  その背をひとなでした雪娟は来た道を——洞穴の方向を指さした。 「さあ、蓮華と共に戻りなさい。この人のことは私に任せて」  羽ばたきが聞こえなくなると雪玲は腰に手を当てて男を見下ろした。うつ伏せで顔は見えないが帽子からこぼれる黄金の髪と袖から覗く褐色肌から彼が瑞人ではなく胡人(こじん)であると予想をつける。 「この方、どうすれば……」  密猟者ではないのならきちんと(とむら)ってあげたいが男の素性が分からなければどうしようもない。  雪玲は悩んだ末、男の側に膝をついた。うつ伏せで亡くなった男の背には雪が積もっていた。上空を見上げれば、反りたった雪庇の一部が欠けている。どうやらその欠けた雪が彼に降り注いだようだ。  雪を払うと黒色の上衣(うわぎ)が顔を覗かせた。防寒のため、綿が詰められた上衣は羊毛で織られたものらしい。麻や木綿でないことから高価な一品であることは違いない。 (胡人だとしたら身分は限られているのだけれど……)  奴婢(ぬひ)にしては豪奢な装いをしているし、商人にしては過剰に着飾ったりせず地味な装いをしている。密猟者や狩人にしては武器らしい武器を手にしておらず、邑人なら鴆が生息する山に入ってくるなんて間違ってもしないはず。 (お義父(とう)様なら誰か分かるでしょうか?)  どんなに悩んでも男の素性は一見して分かる情報から予想することは難しかった。雪玲は商人として各国の行商人との交友がある義父なら男を知っているのではないかと考える。  それならば話は早い。男を屋敷まで連れていき、義父に助言を頼もう。雪玲が男を(かつ)ぐため、冷たくなった腕を持ち上げようとするが、 「……えっ」  死んで冷たくなっているはずの腕が微かに持ち上がった。脈に指先をあてると弱々しくはあるが血が脈打っているのが指先に伝わり、雪玲は瞠目(どうもく)する。 (なぜ、あの距離ならば確実に死んでいるはずなのに)  ——ずっと息を止めていた?  否、経口より効果は弱いが鴆毒は経皮からでも吸収される。息を止めたとしても、先程の馬酔木との距離を考えれば十分に相手を死に至らすことができるだろう。  ——死後硬直が解けたのか?  否、死後硬直が解けるのは死亡から二日経たなければならない。男の背に残った雪、雪原に残された足跡から彼がここに来てそう時間が経っていないと予想できる。  男の腕を掴んだ状態で、雪玲はぐるぐると頭の中を渦巻く考えを一つ一つ消していく。浮き出た考えを否定するように男の腕の震えは酷くなり、生きていることを実感させられた。  ——なら、毒に耐性があった……?  これが一番、現実味のある答えだ。鴆使いの董家以外にも生まれつき毒に耐性がある者や鍛錬を積み耐性を得た者はいる。この男もそうなのだろう。 (毒に耐性がある人間など、家族以外会ったことありませんけれど、これが一番の最適解ですね)  無意識のうちに雪玲は唇の端を持ち上げた。 (ああ、なんて私はついているのかしら)  自分の幸運に感謝をする。毒の耐性がある——それも鴆毒に耐えうる事ができる者と出会えるなんて、亡くなった父の思し召しかと思えた。  喜ぶ雪玲をよそにひゅっ、と男の喉が鳴った。浅く、深く息を継ぐ様子から男が意識を取り戻したと察した雪玲は男の肩に手を添えて、呼吸をしやすい体勢に変えてあげた。
/154ページ

最初のコメントを投稿しよう!

57人が本棚に入れています
本棚に追加